三十七
小奇麗なマンションのガラス扉の前に立ち、オートロックのインターホンを鳴らす。
ぴーんぽーん。
チャイム音に応答はない。
ぴーんぽーん。ぴーんぽーん。ぴーんぽーん。ぴーんぽーん。ぴーんぽーん。ぴーんぽーん。
八回目のボタンを押そうとした時、エレベーターのドアが開き高坂百合子が降りてきた。慌てるでもなく、いぶかしむでもない。
微笑んでいる。静かに歩いてくる。
自動でガラス扉が開くと百合子はそこで立ち止まり、さゆみに優しく笑いかけた。
「あら、あなたは……。たしか、元宮君のお友達ね?」
「大基をかえして」
高坂百合子の部屋に大基はいる。さゆみはそう確信して、扉の中に踏み込んだ。
「元宮君なら、もう帰ったけれど」
高坂百合子は落ち着いた微笑を崩さない。さゆみは、もう一歩近づく。
「ここにいるのはわかってるの。大人しく、大基をかえして。でないと警察を呼びます。以前の子たちの時は未成年だったでしょうけど、今のあなたは立派に犯罪に問われる年齢なんですからね!」
百合子は相変わらず微笑んでいる。
「なんのお話かわからないけれど……。部屋には弟しかいないわ」
さゆみは、百合子が立っている脇をすり抜けて大股でエレベーターに近寄る。
「あら、どこへ行くのかしら? 私、これから出かけるのですけど」
さゆみが振り返ると、百合子は手に持った鍵を振って見せた。さゆみは冷ややかに答える。
「いってらっしゃい。部屋の前でお帰りをお待ちしてますから」
そう言ってエレベーターに乗り込むさゆみを見て百合子は笑顔のままゆったりと歩き、エレベーターに同乗した。二人は黙ったまま、階数表示を見上げる。
一階、二階。
あまりにゆっくりとしか変わらない表示を見て、さゆみはエレベーターが壊れているのではないかとイライラした。
三階に着き扉が開くと、百合子は先に降りて、すたすたと進み、三つ並んだ真ん中の扉を大きく開いた。
「はいどうぞ、あがって? 自分の目で確認しないと、納得できないのでしょう?」
「お邪魔します」
百合子の前を通り、さゆみはずかずかと部屋に上がりこむ。
廊下をまっすぐ進み、突き当りの部屋に踏み込む。ここは百合子の部屋らしい。いかにも美大生然とした部屋だ。
ぐるりと見渡すと取って返し、台所、洗面所、風呂、トイレも覗くが、誰もいない。
閉まった襖の前に立つ。百合子が声をかける。
「そこは、弟の部屋なの」
百合子の言葉には構わず襖を開ける。がらんとした何もない部屋に、こんもりと毛布がふくらんでいる。勾玉のようにいびつな円形だ。
がばっと毛布を剥ぐが、そこには何もなかった。押入れの襖と、天袋まで開けてみるが、大基はいない。荷物もなにもない。
「今日の午前中、私の絵が完成したから元宮君はおうちに帰ったのよ。あなた、すれ違ったんじゃない?」
百合子にニコニコと問われ、さゆみは自信が揺らぐのを感じた。
そういえば、大基の部屋に、大基のスニーカーがあったではないか。
大基はトイレにでも、入っていたのではないか?
そう考えると、急に自分の行動が恥ずかしくなった。さゆみは真っ赤になって、頭を下げる。
「ごめんなさい! あたし、やだ、焦っちゃって……。突然、押しかけてすみませんでした!」
「いいえ、いいのよ。元宮君にあったら、お礼を言っていたと伝えてね」
「はい! 失礼します!」
襖を閉めるともう一度、深々と頭を下げ、さゆみは逃げるように駆け出して行った。その後姿を見送り、ドアをきちんと閉めて鍵をかけ、チェーン錠までかけて、百合子はつぶやく。
「いやだわ、騒々しい。ごめんなさいね大ちゃん、うるさかったでしょう」
そう言って、百合子は和室に足を向けた。