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元まおゆうシリーズ

元勇者は、あの日看取った魔王に再会した

作者: よねさん
掲載日:2026/06/14

 春の日差しが教室の窓から差し込み、始業前の教室には友人同士の話し声や笑い声が広がっていた。


 結城はるなは教室の前に立ち、制服の裾をそっと握る。


 転校そのものは初めてではない。

 父親の仕事の都合で何度か引っ越しを経験しているため、新しい学校へ通うことにも慣れているつもりだった。


 それでも初日特有の緊張だけは消えなかった。

 教室の中から聞こえてくる賑やかな声を聞きながら、小さく息を吐く。

 そんなはるなの隣で、担任が教室の扉を開いた。


「それじゃあ入ってください」


 促されるまま教室へ足を踏み入れる。

 その瞬間、それまで続いていた会話が途切れ、多くの生徒が一斉にこちらへ顔を向けた。


 転校初日では珍しくない光景だと分かっていても、教室中の視線が集まる感覚にはなかなか慣れない。

 はるなは表情を崩さないよう意識しながら教壇の横へ立った。


「今日からこのクラスの新しい仲間になる、結城はるなさんです」


 担任の紹介が終わると教室の中から小さなざわめきが起こる。

 内容までは聞き取れなかったが、自分のことが話題になっているのだろうということだけは分かった。

 そんな中、担任は軽く咳払いをして教室を静めると、はるなへ視線を向けた。


「じゃあ結城さん、自己紹介をお願いします」

「はい」


 返事をして前を見る。

 何度か経験したはずの自己紹介だったが、教室中の視線が集まる状況にはやはり少し緊張する。

 はるなは用意していた言葉を口にした。


「結城はるなです。父の仕事の都合でこの街へ戻ってきました。以前は小学校五年生までこちらに住んでいたので、知っている方もいるかもしれません。まだ久しぶりで分からないことも多いので、よろしくお願いします」


 話し終えると教室のあちこちから拍手が起こった。

 はるなは軽く頭を下げ、そのまま顔を上げる。

 何気なく教室を見渡した時、窓際の最後列に座る男子生徒が目に入った。


 黒髪で、制服の着こなしにも特別なところはなく、ごく普通の高校生にしか見えない。

 騒いでいるわけでもなく、周囲から目立っているわけでもない。

 それなのに、なぜか視線が止まった。


 以前どこかで会ったことがあるのだろうかと思ったが、記憶を辿っても思い当たる顔はない。

 小学校時代の知り合いだったとしても不思議ではないが、それだけで説明できるような感覚でもなかった。

 気付けば、もう一度その姿を見ていた。


 胸の奥に引っ掛かるものがあった。

 相手のことなど何も知らないはずなのに、なぜか意識だけがそちらへ向いてしまう。


(誰……? なんでこんなに気になるの?)


 自分へ問い掛けても答えは見つからなかった。

 ただ、その男子生徒の姿を見てから妙に落ち着かず、視線を逸らした後も気になってしまう自分がいた。


「結城さん?」

「あ、はい」


 担任に呼ばれ、はるなは慌てて返事をした。

 どうやら少しの間、考え込んでしまっていたらしい。


「緊張してる?」

「少しだけです」


 そう答えると教室の空気が少し和らぐ。

 はるなもつられて小さく笑ったが、先ほど見た男子生徒のことは頭から離れなかった。


 担任に案内された席へ向かいながらも、意識のどこかが窓際の最後列を気にしている。

 自分でも理由は分からない。

 転校初日で覚えなければならないことは山ほどあるはずなのに、その日のはるなの記憶には、名前も知らない一人の男子生徒の姿だけが不思議なほど強く残っていた。



 それから数週間が過ぎた。


 結城はるなは幼馴染だった神楽早苗と再会し、放課後に買い物へ出掛けたり休日にカフェへ立ち寄ったりしながら、ごく普通の女子高生らしい日常を過ごしていた。

 転校直後こそ新しい環境への戸惑いもあったが、早苗の存在もあって学校生活には順調に馴染んでいく。


 授業中、ふと顔を上げると窓際の最後列へ視線が向くことがあった。

 教師の話を聞きながらノートを取っているだけなのに、気付けばそちらを見ている。

 慌てて黒板へ視線を戻し、何事もなかったようにノートへ向き直るのだが、それも一度や二度ではなかった。


 昼休みになると教室の空気は一気に緩む。

 友人たちと話をしている最中でも、誰かが席を立った拍子や教室の出入り口が開いた瞬間に、そちらへ目を向けていることがある。

 その先に久我大翔の姿を見つけるたび、はるなは何事もなかったように視線を逸らしていた。


 ある日、購買帰りに窓際へ立つ大翔を見掛けた。

 校庭を見ているようだったが、何を見ているのかまでは分からない。

 そのまま通り過ぎたものの、数歩進んだところで足が止まりそうになり、はるなは慌てて歩き出した。


 放課後の廊下ですれ違ったこともあった。

 大翔は友人と話しながら歩いていただけで、特別なことは何もない。

 それでも、すれ違った後になってから、どんな話をしていたのだろうと考えている自分に気付く。


 そんな日々を重ねる中で、はるなの中には一つだけ説明のつかない疑問が残り続けていた。


 その日も二人は駅前のカフェへ立ち寄り、飲み物を片手に取り留めのない会話を続けていた。


 学校の話や昔の思い出話で盛り上がる中、はるなは以前から気になっていたことを思い出し、少しだけ迷った末に口を開く。


「ねえ、早苗」

「ん?」

「久我くんって、どんな人なの?」


 できるだけ自然に聞いたつもりだった。

 だが、その言葉を聞いた瞬間、早苗の表情が面白いものを見つけたように変わる。


「え、それってもしかしてハルト? ちょっと待って、はるな? 気になってるの?」


 身を乗り出してくる早苗に、はるなは慌てて首を振った。


「ち、違うからね? そういうんじゃないから。ただ同じクラスだし、ちょっと気になっただけだから」


 慌てて否定したものの、その反応が余計に怪しく見えたらしい。


 早苗はにやにやと笑いながら頬杖をついた。


「はいはい。青春だねぇ」

「だから違うってば」

「いいよいいよ。そういうお年頃だもんねぇ」


 からかうような口調に、はるなの頬が少しだけ赤くなる。

 久我大翔の名前を出しただけで、はるなはグラスを持つ指先に少し力を込めていた。


 それを早苗に見られて、余計に頬が熱くなる。


「まあ冗談は置いといて、ハルトは結構人気あるよ?」

「そうなの?」

「うん。勉強もできるし運動もできるし、変に目立たないのに女子からは結構見られてるタイプなんだよね」


 そう言った早苗はストローを回しながら楽しそうに笑う。


「だから本当に気になるなら早めに動いた方がいいよ? 後で誰かに取られてから後悔しても知らないからね」

「だからそういう話じゃないんだってば!」


 思わず声を上げるはるなを見て、早苗はさらに楽しそうに笑った。


 はるなはグラスを両手で包む。

 からかわれた途端に頬が熱くなり、慌てるようにストローへ口を付けた。


 グラスの中で氷が小さく音を立てる。

 窓の外では買い物帰りの人たちが足早に行き交っていた。


 久我大翔。


 頭の中に浮かんだ名前に、はるなはストローを軽く噛む。

 そのまま視線を落とし、溶けかけた氷が揺れるグラスをじっと見つめた。




 その日の帰り道。


 早苗と別れたあとも、はるなの頭には久我大翔の姿が残っていた。

 教室の窓際で頬杖をついていた姿や何気なく向けられた視線が不意に脳裏をよぎり、家へ帰ってからもその感覚は消えない。


 好きなのかと聞かれれば違う気がするのに、気付けば昼間の教室を思い出してしまう自分がいた。


 本を開いてみても内容はほとんど頭に入らず、数行読んではぼんやりと考え込み、また同じ行へ視線を戻すことを繰り返す。


 結局、その答えを見つけられないままベッドへ潜り込み、いつの間にか眠りへ落ちていった。


 ――冷たい風が吹いていた。


 砕けた岩と折れた剣が散乱する荒野の先には巨大な黒い玉座があり、その上には一人の人影が静かに腰掛けている。


 男だと思ったが顔だけがどうしても見えない。

 距離は遠くないはずなのに、そこだけが霞でも掛かったように曖昧で、どれだけ目を凝らしても輪郭が掴めなかった。


 それでも不思議と恐ろしくはなく、むしろ視線を逸らしてはいけないような気がして、人影から目を離せずにいる。


 やがて人影がゆっくり立ち上がる。

 その瞬間、世界は眩い白光に包まれた。


 はるなは息を呑むように目を覚ました。

 薄暗い部屋の天井を見上げながら呼吸を整えるが、胸の鼓動はなかなか収まらず、夢だったはずの光景だけが妙に鮮明なまま残っている。


 目を閉じれば黒い玉座と顔の見えない人影が浮かび上がり、結局その夜は何度も寝返りを打つことになった。





 放課後の午後の駅前は買い物客で賑わっていた。


 大型商業施設から出てくる家族連れや買い物袋を抱えた人たちが絶えず行き交い、制服姿の学生たちの姿もあちこちに見える。

 聞こえてくる話し声や車の走行音が重なり合い、休日らしい活気が街全体を包んでいた。


 結城はるなもまた、その人混みの中を神楽早苗と並んで歩いている。


「それでね、その時の先生の顔が本当に面白くて」

「また盛ってるでしょ」

「盛ってないってば」


 頬を膨らませながら抗議する早苗を見て、はるなは思わず笑った。


 転校したばかりの頃は駅前へ来るだけでも道を確認しながら歩いていたが、今ではこうして早苗と並んで当たり前のように歩いている。

 雑貨店を覗き、洋服を見て回り、途中でクレープを買って食べる休日もすっかり日常になっていた。


 駅前広場を抜けようとした時だった。

 隣を歩いていた早苗の足が不意に止まる。

 はるなも立ち止まり、何事かと思ってその視線を追った。


 少し離れた場所に数人の男たちが立っている。

 先頭にいる茶色く染めた髪の男が、こちらを見ながら口元を歪めるように笑った。


 その瞬間、早苗の表情がわずかに曇る。


「早苗?」


 呼び掛けると、早苗はすぐに視線を外した。


「知り合い?」


 はるなが尋ねると、早苗は少しだけ迷うような顔を見せる。


「知り合いというか……前から付きまとわれてる人

「え?」


 思わず聞き返した。


 早苗は困ったように笑う。


「大丈夫だから」


 そう言って歩き出したが、その笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。


「行こ」


 それ以上は話したくないらしい。

 はるなも後を追う。


 途中で振り返ると、男たちはまだこちらを見ていた。

 少し気になったが、休日の駅前で何か起きるとも思えず、そのまま歩き続けた。


 買い物を終える頃には空が赤く染まり始めていた。

 二人は駅へ向かうため、人通りの少ない裏道へ入る。


 表通りから離れるにつれて周囲は静かになり、遠くを走る車の音だけが時折聞こえてくる。

 古い雑居ビルが並ぶ通りには人影も少なく、昼間とは思えないほど閑散としていた。


「今日は結構歩いたね」

「確かに。帰ったら足痛くなりそう」


 二人で顔を見合わせて笑う。


 その直後だった。


 前方の路地から男が一人現れ、道を塞ぐように立ち止まる。

 見覚えのない男だった。

 だが、その目は真っ直ぐこちらへ向けられている。


 同時に背後から複数の足音が聞こえた。


 反射的に振り返ったはるなは息を呑む。

 そこには駅前で見掛けた男たちが立っていた。


 先頭にいるのは昼間、早苗が話していた男だった。

 さらにその後ろには年齢も服装もばらばらな男たちが並び、こちらを見ている。


「あなたたち……何のつもり?」


 男は肩をすくめた。


「そんな怖い顔するなよ。少し話したいだけだって」

「私は話すことなんてない」

「相変わらず冷たいな」


 軽薄な笑みを浮かべながら男が一歩前へ出る。

 それに合わせるように周囲の男たちも距離を詰め始めた。


 早苗ははるなの前へ半歩出る。


「はるな」


 呼ばれて顔を向ける。

 冗談を言っている時の顔ではなかった。


「逃げるよ」


 次の瞬間、早苗が駆け出す。

 はるなも反射的に後を追った。


 背後から怒鳴り声が響き、複数の足音が一斉に追い掛けてくる。


 路地を曲がった瞬間、前方にも男が立っているのが見えた。

 行く手を塞ぐように通路の中央へ立つ男と目が合い、はるなの足が止まる。

 その直後、背後から足音が一気に近付き、逃げようと振り向いた瞬間には腕を強く掴まれていた。


「離して!」


 振り払おうと身体を捩るが、掴まれた腕はびくとも動かない。

 もう片方の腕も押さえられ、身体の自由が奪われていく。


 少し離れた場所では、早苗も複数の男たちに取り押さえられていた。


「早苗!」


 声に反応したように早苗が顔を上げる。


「はるな! 逃げて!」


 男たちに押さえ付けられながらも、早苗は抵抗を続けていた。

 早苗がなおも暴れている。


 その姿を見た瞬間、はるなも男の腕から逃れようともがきながら、その方へ手を伸ばした。


「早苗!」


 男たちの怒鳴り声が重なる。


 腕を引かれた次の瞬間、後頭部へ鈍い衝撃が叩き込まれた。

 視界がぐらりと傾き、足元から力が抜けていく。


 滲み始めた視界の向こうで、早苗はこちらへ向かって何かを叫びながら手を伸ばしていた。


 その手だけが、不思議なほどはっきり見えた。

 そして世界は暗闇へ沈んでいった。





 意識が浮かび上がってきた時、最初に感じたのは後頭部の鈍い痛みだった。


 頭の奥が重く、身体を動かそうとした瞬間にはこめかみの辺りまで痛みが走り、はるなは思わず顔をしかめる。

 ゆっくりと瞼を開くと、見覚えのない汚れた天井と薄暗い照明が視界へ映り込み、酒と煙草が混ざったような臭いが鼻を突いた。


 どこだろうと思いながら身体を起こそうとして、はるなは腕へ力を入れる。

 だが思うように動かず、視線を落とすと両腕は椅子の背へ固定され、足首にも拘束具が巻かれていた。


 その瞬間、路地裏で男たちに囲まれたこと、早苗と一緒に逃げ出したこと、そして後頭部へ鈍い衝撃を受けて意識を失ったところまでが一気によみがえる。


「……っ」


 息を呑んだその時だった。


「はるな?」


 聞き慣れた声が耳へ届き、反射的に顔を向けると、少し離れた場所に置かれた椅子へ早苗も拘束されていたが、その姿を見た瞬間、はるなの表情が固まる。


 早苗の頬は大きく腫れ上がり、口元には乾きかけた血の跡が残っていた。

 髪も乱れ、制服の肩口も少し崩れている。


「早苗、その顔……」

「平気」


 そう答えた直後、早苗の眉が僅かに寄り、はるなは思わず唇を噛んだ。


「何があったの?」

「ちょっとね」


 早苗は小さく笑おうとしたが、腫れ上がった頬が引き攣り、その表情はすぐに崩れてしまう。


「ごめん」

「なんで謝るの?」

「巻き込んだ」

「違うよ」


 首を振りながらも、はるなの視線は何度も早苗の頬へ向かい、その痛々しい痕から離れなかった。


 周囲へ目を向けると、店内には十人近い男たちがおり、酒を飲みながら騒いでいる者もいれば、煙草を吸いながらこちらを眺めている者もいた。

 品定めするような視線が何度も向けられ、そのたびにはるなは顔をしかめる。


 酒と煙草の臭いが混じる店内には男たちの笑い声が響き続けていた。


「起きたか」


 不意に声が響き、振り向いた先では店の奥に置かれたソファへ黒崎が腰掛け、缶コーヒーを片手にこちらを見ていた。


「黒崎……」

「よぉ」


 軽い調子で手を上げる黒崎を見て、はるなは思わず奥歯を噛み締める。


「こんなことして、ただで済むと思ってるの?」


 早苗が睨み付けると、黒崎は肩をすくめながら鼻で笑った。


「まだそんな顔するのかよ」

「当たり前でしょ」

「本当に可愛くねぇな」


 周囲から笑い声が漏れる。


「何度も誘ったよな」

「何度でも断る」


 即答した早苗を見て黒崎の笑みが消えるが、それでも早苗は視線を逸らそうとしなかった。


「最初から大人しくしてりゃ良かったんだよ」

「あなたの言うことを聞く理由なんてない」


 黒崎はしばらく早苗を見つめていたが、やがて小さく舌打ちすると視線を逸らし、机の上へ缶コーヒーを乱暴に置いた。


「相変わらず面倒な女だな」


 周囲の男たちが再び笑う。

 それでも早苗は黒崎から視線を逸らさなかった。


 黒崎はそんな早苗を見ていたが、やがて興味を失ったように肩を竦める。


「もういいや、お前」


 吐き捨てるような声だった。

 その言葉に早苗は眉をひそめる。


「何よ」

「何言っても変わらねぇだろ」


 黒崎は面倒そうに片手を振った。


「好きにしろ」


 周囲の男たちへ向けられた言葉だった。

 店内に下卑た笑い声が広がり、その瞬間、はるなの背筋を冷たいものが走る。


 男たちの視線が一斉にこちらへ向き、品定めするような目が遠慮なく向けられる中、はるなは反射的に拘束具へ力を込めて少しでも動かせないか試してみたが、手首へ食い込む拘束は固く、どれだけ力を入れてもびくともしなかった。


 足を動かそうとしても椅子ごと固定された身体は思うように動かず、逃げることも、早苗の前へ出ることもできない。


 何かしなければならないのに、現実には何一つできなかった。


「無駄だよ」


 近くにいた男が笑いながら肩をすくめる。


「大人しくしてろ」

「離してください」

「嫌だね」


 男たちの笑い声が広がる中、その視線が再び早苗へ向けられたのを見た瞬間、はるなは椅子ごと身体を前へ出そうとした。


「触らないで!」


 拘束具が手首へ食い込む痛みも構わず身体を捩るが、固く固定された拘束は外れる気配すらない。


 それでも諦めきれず前へ出ようとするはるなの姿を見て、男たちは面白そうに笑っていた。


「元気だな」

「そっちの方が面倒そうだ」


 下卑た笑い声が上がる。

 それでも、はるなは早苗の方へ近付こうと身体を動かし続けた。


「はるな、やめて」

「やめない!」


 男の一人が肩を押さえ、別の男が腕を掴んでも、はるなはなお前へ出ようとする。


「離して!」

「大人しくしろ!」

「嫌!」


 怒鳴り声が飛び交う中、数人がかりで押さえ付けられても抵抗は止まらず、その様子を見た黒崎は呆れたように鼻で笑った。


「似た者同士かよ」


 店内に笑い声が広がる。

 酒と煙草の臭いが混ざった空気の中で男たちは下卑た視線を隠そうともせず、はるなは顔をしかめながらも視線だけは逸らさなかった。


 だが、どれだけ足掻いても状況は変わらない。


 拘束具に縛られた身体は思うように動かず、数人がかりで押さえ込まれてしまえば抵抗にも限界があり、早苗を守りたいという思いだけが空回りして現実には何一つ手が届かなかった。


 力を込めるたびに拘束具が手首へ食い込み、返ってくるのは鋭い痛みだけであり、それでも諦めきれず身体を捩るたびに無力さだけが胸の中へ積み重なっていく。


 悔しいし、情けなかった。


 目の前に早苗がいるのに守ることもできず、こんな状況になっているのに何も変えられない自分がどうしようもなく腹立たしかった。


 どうして自分は何もできないのだろう。

 どうしてこんなにも弱いのだろう。


 何度目かも分からないその問いが胸の中を巡った瞬間、何かが違うと訴えるような感覚が胸の奥から込み上げ、自分自身が抱いた認識そのものを否定するかのような衝動が全身を駆け抜けた。


 次の瞬間、知らないはずの光景が脳裏へ流れ込んでくる。


 刃と刃が激しくぶつかり合う衝撃、土を蹴って踏み込む感触、風を裂いて走る剣閃、迫る攻撃を紙一重で躱しながら反撃へ転じる判断、傷付き血を流しながらも前へ進み続けた記憶が奔流のように押し寄せ、忘れていたはずの感覚が身体の奥から次々と呼び覚まされていった。


 それが夢や空想ではないことだけは分かった。


 理由は説明できない。


 だが脳裏を駆け抜ける戦いの記憶も、身体の奥から蘇る経験も、自分が確かに知っているものだという確信だけは揺るがなかった。


 そして脳裏へ浮かび上がった一つの名前に、はるなは息を呑む。


 ソフィア・ガードナー。


 それは第十七代勇者として戦い続け、幾度もの死線を越えてきた少女の名であり、その名を認識した瞬間、途切れていた記憶が音を立てるように繋がり始めた。


 仲間たちと背中を預けて戦った日々、勝利に歓声を上げた夜、失った仲間の死を悼んだ朝、そして人々を守るため剣を振るい続けた長い歳月が次々と蘇り、自分がただ怯えて震えているだけの存在ではなかったことを思い出していく。


 全てを思い出したわけではない。

 思い出せないこともまだ多かったが、それでも身体の動かし方も、剣の振り方も、相手の重心を見る感覚も、自分が確かに知っているものだということだけは疑いようがなかった。


 その時、胸の奥で微かな熱が揺れていることに気付く。

 呼吸に合わせるように脈打つその感覚へ意識を向けた瞬間、はるなは息を呑んだ。


 忘れていたはずなのに知っている。


 魔力だった。


 だが、その存在は感じられても思うようには扱えない。

 手を伸ばせば届きそうなのに届かないような、そんなもどかしさだけが残った。


 それでも不思議と恐怖は薄れていた。

 身体は動かない。

 拘束具も外れない。


 だが、もしこの拘束さえ外れれば、自分はまだ戦える。

 そう考えた瞬間、胸の奥で揺れていた小さな熱がわずかに強く脈打った。




 その時だった。


 店内全体が揺れたような轟音と衝撃に、はるなは反射的に顔を上げる。

 次の瞬間、入口の扉が破片を撒き散らしながら吹き飛び、金属の残骸が床を滑って店の奥まで転がっていった。


 男たちも一斉に入口へ振り向く。

 舞い上がる粉塵の向こうから現れた人影を見た瞬間、はるなの目が大きく見開かれた。


(久我くん……?)


 見間違えるはずがなかったが、教室で見ていた久我大翔とはまるで別人のように見える。

 黒いTシャツにトレーニングパンツという何の変哲もない格好のはずなのに、その場に立っているだけで周囲の空気が張り詰めていた。


 その時、胸の奥で揺れていた熱が不意に反応し、目には見えないが大翔の周囲で何かが流れているのを感じた瞬間、断片的に蘇った記憶が脳裏を掠める。


 なぜか分からないが、大翔が魔力を纏って魔法を使っており、しかも呼吸をするように自然だった。

 はるなは思わず息を呑んだ。


「なんだてめぇ!」


 男の怒鳴り声が響くが、大翔は答えず、ただ静かに前へ出る。

 その直後、男の身体が吹き飛び、テーブルへ叩き付けられた衝撃で木材が砕け散り、別の男が床を転がり、さらに別の男が壁へ激突して悲鳴と破砕音が重なり合った。


 大翔の姿を見失う。

 気付けば別の場所にいて、気付けば男たちが床へ転がっていた。


 男たちは次々と襲い掛かるが、そのたびに誰かが吹き飛び、誰かが床へ転がり、誰かが壁へ叩き付けられていく。

 やがて怒鳴り声よりも悲鳴の方が多くなり、気付けば床へ倒れている男の数が増えていた。


 そして大翔だけが前へ進んでいた。

 胸の奥を締め付けていた焦りが少しずつ消えていく。


 その時だった。

 店の奥にいた男が拳銃を抜き、震える手で大翔へ銃口を向ける。


「死ねぇ!」


 乾いた銃声が響いた瞬間、はるなの身体が強張るが、次の瞬間、店内は静まり返った。

 大翔は先ほどと変わらない場所に立っている。


 男たちの視線の先を追った瞬間、はるなは息を呑んだ。


 大翔の掌の上に弾丸があった。

 どうやって受け止めたのか分からないが、撃たれたはずの弾丸は大翔の掌に収まっていた。


 誰も声を出さない。

 大翔は掌の上の弾丸を見下ろすと、それを指先で軽く弾く。


 直後、悲鳴が響いた。

 拳銃を持っていた男と黒崎が床へ転がり、腹を押さえながら絶叫する。


 気付けば、さっきまで騒いでいた男たちは後ろへ下がり、大翔との間には誰も立っていなかった。


「た、助けてくれ……」

「し、知らなかったんだ……」

「俺たちは頼まれただけで……」


 男たちの声が聞こえるが、大翔は返事をすることもなく、そのまま真っ直ぐ前へ進む。


 次の瞬間、大翔の姿が消えたように見え、直後には鈍い打撃音と短い悲鳴が連続して響き、男たちが次々と床へ崩れ落ちていった。


 再び静かになった時には、床に倒れている男たちの向こうから大翔だけがこちらへ歩いてきていた。


 はるなは呆然とその姿を見つめる。

 それでも、その姿からだけは目を離せなかった。


「久我……くん?」




「怪我は」


 短い言葉だったが、それだけで張り詰めていたものが少しだけ緩んだ気がした。


「わ、私は大丈夫……」


 そう答えながらも、はるなの視線は自然と隣の早苗へ向く。


「早苗は?」


 腫れ上がった頬が目に入り、自分のことよりも早苗の方が気になった。

 早苗は一瞬だけ目を丸くしたあと、困ったように笑う。


「私は……大丈夫って言いたいけど、ちょっと無理かも……」


 その笑顔を見て、はるなは小さく息を吐く。

 こんな状況なのに、いつもの早苗だった。


「自分の心配はしないのか」

「だって早苗の方が酷かったし」


 そう言うと、大翔は何も言わずに近付いてきて、早苗の拘束具へ手を伸ばしたかと思うと、金属製だったはずの拘束具は乾いた音と共に砕け散り、続いて自分の拘束具も同じように外された。


 自由になった途端、身体から力が抜けそうになる。


「立てるか」

「う、うん」

「なんとか……」


 大翔の声を聞いた瞬間、肩の力が少しだけ抜けた。


 その直後、早苗が大翔へ抱き付いた。


「うっ……ぐすっ……。怖かった……。本当に怖かった……」


 震える声が耳に残る。

 殴られても、脅されても、最後まで自分の前に立ち続けてくれた早苗の姿が浮かび、その涙を見た瞬間、胸の奥が強く締め付けられた。


 大翔は少し困ったような顔をしていたが、何も言わず、そのまま早苗を受け止めている。


 早苗の泣き声を聞いているうちに、はるなの中で張り詰めていたものも少しずつ緩んでいった。


「もう大丈夫だ」


 その言葉を聞いた瞬間、頬を伝うものがあった。


 隣では早苗が泣き続けていたが、やがて声は小さくなり、大翔へ寄り掛かったまま静かな寝息を立て始める。


「……寝たのか」


 その様子を見たはるなは思わず小さく笑った。


「こんな状況なのに……。早苗らしいな」


 大翔が小さく肩を竦めたあと、人差し指を口元へ当てる。

 起こすな、ということらしい。

 はるなも慌てて口元を押さえた。


 その時だった。


 大翔の掌から淡い緑色の光が溢れ、柔らかな光が早苗を包み込んでいく。

 腫れ上がっていた頬が目の前で元に戻り、身体に残っていた痕も見る間に消えていく光景に、はるなは思わず息を呑んだ。


 治癒の術という言葉が脳裏を掠めたが、まだ思い出せなかった。


 大翔は今度はこちらへ視線を向ける。


「じっとしてろ」

「え?」


 次の瞬間、今度は自分の身体が光に包まれた。


 暖かな感覚が全身へ広がり、それが消えたあと、恐る恐る頬や腕へ触れ、肩を回してみるが、どこにも痛みは残っていない。


「あれ……?」


 思わず声が漏れる。

 さっきまで確かにあった痛みが綺麗になくなっていた。


 呆然としながら大翔を見上げる。

 同じ教室で過ごしてきたはずなのに、今は別人を見ているような気分だった。


 (久我くん……、あなたはいったい……)


「何したの?」


 気付けば聞いていた。

 だが大翔は答えず、ただ黙ったままだった。


「……そっか」


 数秒だけその顔を見つめたあと、小さく息を吐く。


「じゃあ聞かない」

「いいの?」

「本当は気になるよ。すごく気になる。でも今は……助けてくれたことの方が大きいから」


 同じ教室で過ごしてきた同級生のはずなのに、今日見た大翔はまるで別人のようで、戦う姿を見ても、魔力を感じても、治癒の術を見ても胸の奥の何かが反応していたが、その理由だけはまだ思い出せない。


 それでも、あの扉の向こうに大翔がいなかったらと思うと怖かった。

 どうしてそんなことを思うのか、自分でも分からない。


「だって……本気で、もう会えないと思ったから」


 言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。

 けれど、それが今の正直な気持ちだった。


 大翔は何も言わない。 


 その腕の中では、早苗が気持ち良さそうな寝息を立てている。

 早苗の穏やかな寝顔を見ているうちに、ようやく本当に助かったのだという実感が少しずつ胸の奥へ広がっていった。



「……すまん」

「え?」

「その……服はダメなんだ」


 唐突にそう言われ、初めて自分の身体へ視線を落とす。


 頬の痛みも身体の痛みも消えている。

 けれど、破れた制服だけはそのまま残っていた。


 はだけた胸元が目に入った瞬間、そこでようやく自分の格好を正確に理解し、はるなの顔が一気に熱くなる。

 慌てて胸元を押さえながら数歩後ずさった。


「え、えっち……!」


 反射的に飛び出した言葉だった。

 その声に大翔もはっとしたように視線を逸らす。


「……すまん」

「え?」

「見てしまった。すまん」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 理解した次の瞬間、顔がさらに熱くなる。


「は?」

「事実だから」

「事実でも言わなくていいから!」


 思わず叫ぶ。

 けれど大翔は困ったように頭を掻くだけだった。

 どうやら本当に悪気はないらしい。


「謝る気ある!?」

「ある」

「全然見えないんだけど!?」


 返事だけは異様に早かった。


「それより服だ」

「うぅ……」

「怪我は治せる」

「うん」

「骨も治せる」

「うん」

「でも服は無理だ」

「なんでそこだけ!?」


 思わず声が大きくなる。

 傷を治し、銃弾まで受け止めた人間の台詞とは思えなかった。


「俺だって知りたい」

「知らないの!?」

「知らない」


 迷いのない即答だった。


「普通そこも何とかならない?」

「ならない」

「そんな顔で断言しないでよ……」

「本当に無理なんだ」


 あまりにも真面目な顔で言われ、はるなは思わず額を押さえた。


「服を直す方法があるなら俺が教えてほしいくらいだ」

「そこまで?」

「そこまで」


 再び即答。


 数秒、大翔の顔を見つめる。

 本気で言っているらしい。


 その時、不意に胸の奥で何かが引っ掛かった。


 服を直す術、そんなものがあった気がする。

 断片的に蘇った記憶の奥で、誰かが当たり前のように使っていた気がした。

 治癒の術と同じように、ごく自然なものだったような気もする。


 でも、どうしてそう思ったのかも思い出せなかった。


「ふっ……」


 肩が震え、耐えようとするが駄目だった。


「あははっ……」


 気付けば声を上げて笑っていた。

 ほんの少し前まで泣きそうだったはずなのに、今は服の話で笑っている。

 そんな自分がおかしくて、余計に笑いが込み上げてくる。


「笑うな」

「だって……」

「服だけ無理って何それ……」

「事実だから仕方ない」


 不満そうに答える大翔を見ていると余計に可笑しくなる。

 笑いながら目尻に浮かんだ涙を拭った。


 恐怖が消えたわけではない。

 けれど、さっきまで身体にまとわり付いていた重苦しさはいつの間にか薄れていた。


「そうだ」

「?」

「その格好じゃ帰れないな」


 言われて改めて自分の服を見る。

 確かにこのまま外へ出られる状態ではなかった。


 大翔は店の隅へ積まれていた荷物へ向かい、しばらく探したあとで二人の通学鞄を見つけ出す。


「あった」

「何が?」

「ジャージ」


 学校指定のジャージが取り出された瞬間、はるなの表情がぱっと明るくなった。


「神じゃん!」


 反射的に飛び出した言葉だった。

 制服のまま帰る未来しか見えていなかっただけに、本気でありがたい。


「服は直せないけど着替えはある」

「そこだけ妙に有能だよね……」

「服を直せるなら苦労しない」


 大翔は真顔で答える。

 その様子がまたおかしくて、はるなは再び吹き出してしまった。



 大翔からジャージを受け取ったはるなは、それを抱えたまま早苗の前へしゃがみ込んだ。


「早苗」

「んー……」


 肩を軽く揺すると、早苗は眠そうに目を開ける。


「着替えるよ」

「着替える……」


 ぼんやりと呟きながら立ち上がろうとしたものの、足元がおぼつかない。


 はるなは苦笑しながらその腕を支えた。


「ほら、奥行こう」

「ん……」


 返事になっているのかも分からない声だった。

 それでも素直についてくるあたり、完全には寝ていないらしい。


 店の奥へ向かい、二人で着替えを済ませる。

 破れた制服を脱ぎ、ジャージへ着替えたところでようやく人心地ついた気がした。


 着替え終わって戻ると、早苗は再び眠そうに目を擦っていた。


「んー……」

「早苗、着替え終わったぞ」

「あと五分……」

「寝る場所じゃないからな」


 大翔の呆れた声が聞こえる。


 そのやり取りを見て、はるなは思わず苦笑した。

 さっきまであれだけ泣いていたのに、今度は眠気に負けそうになっている。


 本当に早苗らしいと思いながら見ていると、やがて早苗はふらふらと大翔の方へ歩いていき、そのまま肩へ額を預けるようにもたれ掛かった。


 大翔は困ったような顔をしながらも、その身体を支えて背負い直す。

 その様子を見ていると、なぜだか少しだけ落ち着かない気持ちになったが、その理由までは分からなかった。


 その後、大翔は店内を見回りながら何かをしていたが、はるなにはよく分からず、ただ静かにその背中を見つめていた。

 やがて全て終わったらしく、大翔はこちらへ振り返る。


「行くぞ」


 短い言葉だった。

 それだけなのに、不思議と張り詰めていた気持ちが少しだけ緩み、はるなは小さく頷く。


 雑居ビルを出た瞬間、不意に周囲の空気が変わり、今まで遠かった街の音が耳へ戻ってくると、《境界断絶》という言葉と共に高い天井や黒い玉座、巨大な門が脳裏を掠めた。


 思わず大翔へ視線を向けるが、なぜか落ち着かない気持ちだけが残り、それでも久我はあの記憶と何か関係があるような気がしてならなかった。


 帰り道は大翔が早苗を背負い、自分が隣を歩く形になった。

 背中から聞こえる寝息は穏やかだった。


 しばらく二人の間に会話はなく、何度か口を開きかけたものの、聞きたいことが多すぎて何から聞けばいいのか分からず、そのたびに言葉は喉の奥へ引っ込んでいった。


 やがて住宅街へ差しかかった頃、はるなは意を決したように口を開く。


「ねえ」


 大翔は歩く速度を変えることなく視線だけを向けた。


「なんだ」

「久我くんって何者なの?」


 今日見た光景を思い返せば当然の疑問だった。

 だが大翔は少しだけ考えた後、肩を竦める。


「ただの高校生だ」


 即答だった。

 はるなは数秒黙り込んだ後、呆れたようにため息を吐く。


「嘘」

「本当だ」

「絶対嘘」

「本当だ」


 あまりにも堂々としている。

 思わず夜空を見上げた。


「ねえ」


 再び口を開く。


「今度はなんだ」

「変なこと言ってもいい?」

「内容による」


 その返答に少しだけ笑ったあと、はるなは足を止めた。


 何も知らないふりをして、明日からまた普通の同級生として接することもできる。

 それでも今は、どうしても聞いてみたかった。


「私たち」


 一度言葉を区切る。


「どこかで会ったことある?」


 夜風が静かに吹き抜ける中、遠くでは車の走る音だけが聞こえていた。


 大翔は足を止めたが、何も言わない。

 数秒の沈黙のあと、前を向いたままようやく口を開く。


「さあな」


 短い返事だった。


 その横顔を見た瞬間、思わず言葉を失った。


 困ったようで、少しだけ苦そうで、それでもどこか優しいその表情を見た瞬間、曖昧だった何かが少しだけ形を持ち始めた。


 まだ全ては思い出せない。


 けれど、あと少しで届きそうな気がした。


「でもね」


 そう言って空を見上げる。


「初めて会った気がしないの。おかしいよね」


 小さく笑う。


「でも……私、久我くんが来てくれて嬉しかった」


 大翔は何も答えなかった。

 それでも、はるなは目を逸らさなかった。


 夜風が静かに吹き抜ける中、大翔は前を向いたまま歩き出し、はるなも小走りで追い付いてその隣へ並んだ。


 それからは二人とも何も言わず歩き続けた。

 背中では早苗が静かな寝息を立てていたが、はるなの意識は何度も大翔へ向いてしまっていた。


 やがて早苗の家へ辿り着く。


 インターホンを押すとほどなくして玄関の扉が開き、顔を出した早苗の母親は娘の姿を見た瞬間に表情を変えて駆け寄ってきた。


「早苗!」

「んー……」


 当の本人は半分眠ったまま目を擦っている。


 事情を説明すると母親は何度も頭を下げながら早苗を引き取り、早苗本人も寝ぼけたまま小さく手を振った。


「ありがとー……」


 それだけ言うと再び目を閉じてしまい、その様子に思わず苦笑が漏れる。

 少し前まで泣きじゃくっていたのに、やはり眠気の方が勝っているらしい。

 本当に早苗らしいと思いながら、その後ろ姿を見送った。


 やがて玄関の扉が閉まり、残されたのは自分と大翔だけになる。


 先ほどまで早苗がいた時とは違う静かな空気が流れ、住宅街には人の姿もほとんどなく、遠くを走る車の音だけが時折聞こえていた。


 二人で歩き始めると、はるなは無意識に隣を歩く大翔へ視線を向ける。

 街灯に照らされた横顔は見慣れた久我大翔のものだった。


 けれど、《境界断絶》という言葉と共に浮かんだ記憶や、「さあな」と答えた時の表情が頭から離れなかった。


 視線を逸らそうとしても、気付けばまたその横顔を見ていた。


 あの表情だった。

 散らばっていた記憶の欠片が、少しずつ繋がり始めている気がした。


 荒れ果てた大地や冷たい風、最後に交わした会話が脳裏を過り、あの時自分の手を握っていた男の顔と今隣を歩く大翔の横顔が重なって見える。


『本当は……普通に生きたかったな』

『あなたもね』

『……ああ』

『俺も、もう十分だ』


 その言葉だけが耳の奥に残っていた。


 少なくとも大翔は何も気付いていないように見えた。

 その横顔を見ていると、思わず口元が緩んだ。


「ねえ、久我くん?」

「ん?」


 大翔は前を向いたまま返事をする。

 いつも通りの声だった。

 気付けば小さく息を吐いていた。


「もう頑張らなくていいよ」


 言葉にした瞬間、自分でも驚いた。

 考えるより先に出ていた言葉だった。


 大翔は不意に足を止めた。


「……何の話だ?」


 首を傾げる様子を見る限り、本当に心当たりがないらしかった。

 その反応を見た瞬間、はるなは思わず吹き出した。


「なんとなく」


 あの日、最後に手を握られた感触が今も消えずに残っていた。

 その温もりだけは忘れられなかった。


 大翔は苦笑しながら頭を掻く。


「意味が分からん」

「私も上手く説明できない」

「じゃあ聞かなかったことにする」

「ひどい」


 そんなやり取りを交わすと、大翔は小さく肩を竦めながら再び歩き出した。

 はるなもその隣へ並ぶ。


 街灯に照らされたその横顔は久我大翔のものだった。


 それでもはるなには、最後の戦場で自分の手を握り返してくれた魔王の顔にしか見えなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、短編『勇者を看取った元魔王、現代日本で平穏に暮らしたい』

と同じ出来事を結城はるな視点から描いた作品になります。


少しでも楽しんでいただけたのであれば幸いです。


『勇者を看取った元魔王、現代日本で平穏に暮らしたい』

 https://ncode.syosetu.com/n5231mh/


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