毒舌令嬢レニースフィアはいつも一言足りない
レニースフィアには婚約者がいる。名をアランと言った。
どちらも伯爵家に生まれた子息令嬢であり、幼い頃から家同士の付き合いも深く、自然と婚約の話が決まった。
歳も近く、アランが一歳上。
そのわずかな歳の差が、彼に落ち着いた印象を与えている──そんな気が、レニースフィアは以前からしていた。
そして何より、アランの実家は現宰相家である。
この国の中枢に関わる家柄であり、将来の地位と責任は重い。
月に一度届く整った筆跡の手紙には、必ず学園での様子が添えられていた。
次期王を支える側近として、日々王太子の補佐に努めていること。
忙しいながらも充実していること。
文章の端々には、アランらしい冷静さと誠実さが滲んでいた。
手紙を読むたび、レニースフィアの胸には静かな誇りが湧いた。
それに、アランは言葉が刺々しくなりがちなレニースフィアの本音を読み取れる希少な存在だ。
レニースフィアは口下手ではないのに、一言余計だったり一言足りなかったりする。
特にフォローの言葉が。
しかし彼は言葉の奥に潜む意図を、迷わず拾いあげてくれる。
レニースフィア自身もまた、アランが普段は表に出さない感情の機微に敏感だった。
彼の目がわずかに揺れた瞬間の不安。
口元だけで笑うときの照れ。
低い声で呆れたように名前を呼ぶときの甘さ。
そのどれも、レニースフィアは自然と気づけた。
何度も軽口を交わし、
何度も不意打ちのように愛の言葉を囁かれ、
そして幾度となく、その唇を重ねてきた。
そのキスのたびに、アランは少し不器用なほど真剣になり、レニースフィアは胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
ふたりだけの世界に溶けていくそのひとときは、周囲の期待や家柄の重さを忘れさせてくれる。
相性は、驚くほど良かった。
言葉でも、心でも、触れ合う感覚でも。
──理想的な婚約だ。
レニースフィアはそう信じていた。
信じて疑わなかった。
少なくとも、学園に入学するまでは。
◆
レニースフィアが学園に入学してから、一週間が経った。
新しい制服の襟はまだ硬く、靴もわずかに軋む。
慣れない学園生活は刺激的だが、それ以上に胸を占めているのは──同じ学園にいるはずのアランと、一度も顔を合わせていないことだった。
宰相家の跡取りであるアランが忙しいのは理解している。
王太子の側近として、日々多くの仕事を抱えているのは手紙にも書かれていた。
それでも、学園のどこかですれ違ってもおかしくはない。
一度くらい、姿だけでも──そんな期待は自然と胸に残ったままだった。
その日の放課後、レニースフィアは図書室へ向かった。
窓の大きな静謐な空間は、学園の喧騒を忘れさせてくれる。
木の香りがわずかに残る書架の間を歩きながら、ふと視線を外へ向けた。
裏庭が、よく見える高さの窓。
そこでレニースフィアの思考は止まった。
──婚約者アランと、知らない女子生徒が仲睦まじげに話している。
夕日の光を受けて柔らかく輝く髪。
穏やかな笑顔。
普段、レニースフィアに向けるのとは違う表情で、彼はその少女と視線を交わしていた。
胸の奥がきゅっと縮まり、息が浅くなる。
しかし、レニースフィアはその動揺を表情に出さなかった。
驚きも、痛みも、戸惑いも──すべてそっと心の奥に押し込んだ。
「……そうですか」
誰に向けた訳でもない呟きを飲み込み、彼女は静かに図書室をあとにした。
靴音が規則正しく響く廊下は、妙に遠く感じた。
◆
夕暮れ。学園の中庭は赤紫の光に沈み、古い校舎の影が長く伸びていた。
風に揺れる木々の枝がかすかに軋み、鳥たちが寝ぐらへ戻る羽音だけが静寂を破る。
寮の門限まで、あと三十分。
石畳を急ぎ足で歩いていたレニースフィアの背に、鋭く名前が飛んできた。
「レニースフィア! 止まりなさい!」
反射的に振り返る。
声の主は、アランと一緒にいたあの女生徒だった。
沈む陽に照らされた白髪が、雪のように淡く輝いている。
隣国の皇族に稀に生まれると噂される、透き通るような白髪──
その稀少な色合いに似つかわしくないほど、彼女の目は挑戦的に輝き、唇には傲慢な笑みが浮かんでいた。
儚げな容姿に反して、ずいぶん荒っぽい言動。
レニースフィアは内心でため息をついた。
「わたくしはステラリア。留学してきた隣国の皇族ですわ!」
名乗った瞬間、彼女は勝ち誇ったように胸を張り、勢いそのまま言い放った。
「ふぅん……あなたがアラン様の婚約者?
残念ね! アラン様はわたくしを愛しているのよ!」
一瞬、思考が止まった。
夕陽の色が強く目に刺さり、世界の輪郭がわずかにぼやける。
驚愕と困惑が胸を埋め、けれどレニースフィアはすぐに感情を押し込んだ。
彼女が傷つかないように、そして余計な誤解を広げぬように。
そう思って、慎重に口を開いた。
「アラン様? ……正気ならやめておくべきですわ」
「あはは、最高じゃない! 綺麗な負け犬の遠吠えね!」
ステラリアの嘲笑は鋭く響いた。
だがレニースフィアは、淡く微笑んで応じる。
「お褒めに与り光栄です」
そう言って、ぺこりと優雅に礼をする。
その礼にステラリアは眉をひくつかせ、怒りと焦りが入り混じった表情で口を開閉した。
返す言葉を探しているのだろう。
ゴーン、ゴーン……。
そのとき、寮の鐘が校舎に反響して鳴り響いた。
風が、門限を告げるように冷たく吹き抜ける。
本当は、もっと説明するつもりだった。
アランがどれほど面倒くさい男であるか──レニースフィアにしか知らない、彼の性質を。
けれど時間はない。
門限違反になれば、自分も彼女も不利益を被る。
仕方なく、レニースフィアは言葉を短くまとめ、はっきりと告げた。
「あなた様にはアラン様を愛する覚悟も資質も、何一つお持ちではありませんわ。
いいえ、持っていないどころか足りないとも言えませんの。
はっきり申し上げて、絶望的ですわ」
静かに満足気に息を吐く。
直接的な言葉を避け、それでもはっきりとダメだと伝えることができた。
しかしステラリアの顔が、夕焼けよりも濃い赤に染まる。
怒りで震えるその様を見て、レニースフィアはほんのわずかに胸が痛んだ。
また、強い言葉を使ってしまったのだろう。
でもきっと、これで諦めてくれれば。
そう願いながら、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、軽く一礼してその場を去った。
夕暮れの影が伸び、レニースフィアの背を静かに飲み込んでいく。
◆
──一週間後。
昼休みの中庭は、春の陽に照らされて柔らかい光が満ちていた。
芝生の匂いが風に乗って漂い、学生たちの笑い声があちこちで上がる。
空は澄み、緩やかな雲が流れ、のどかな時間がゆっくりと流れていた。
レニースフィアは友人たちと丸テーブルに集まり、穏やかな時間を楽しんでいた。
そのひとときは、本来ならば日常の幸福の象徴であるはずだった。
だが、石畳を震わせるようなざわめきが近づいてきた瞬間、空気が一変する。
派手な一団がこちらへ歩み寄ってくる。
王太子を先頭に、アラン、そして騎士団長の息子──みな学園で名のある面々だ。
その中心には、ステラリアが揺れる白髪を誇るように立っていた。
けれど、そのステラリアを囲む男性陣の表情はひとり残らず面倒くさそうで、どこか憂鬱さすら漂わせていた。
彼らはそのまま別の空いた席へ向かってくれればよいものの──
なぜか真っ直ぐレニースフィアたちのテーブルへと歩みを速めてくる。
そしてステラリアはテーブル前で仁王立ちになると、強く、吠えた。
「──レニースフィア! アラン様との婚約を破棄しなさい!」
快晴の空の下、昼休みの静けさが一瞬にして破られ、周囲の視線がどっと集まる。
穏やかな午後が、まるで処刑台のような緊張へと変貌した。
「同盟国の皇女に望まれるなんて名誉なことよ!
だから、アラン様をわたくしに譲りなさいな!」
彼女の声は自信に満ちていたが、その奥には焦燥が見え隠れしていた。
レニースフィアはゆっくりと首を傾げ、落ち着いた声で返す。
あの日、彼女に言えずに飲み込んだ疑問──それをここで静かに告げた。
「本当にアラン様でよろしいのですか?
……だって、いつもステラリア様を見る価値もないもののようにご覧になっておりますのに?」
一同、言葉を失い、眉をひそめる。
「え、アラン? きみいつもそんな感じだよね?」
王太子が純粋な疑問のように言い、
「確かに俺らはお前より頭は悪いが、それはないだろっ?!」
騎士団長の息子が不満げに声を上げて続く。
アランは深いため息をつき、冷たく突き放すように言い放った。
「仕方ないでしょう。共にいて楽しいと感じないのですから。
ああ、特にそこの女はダメですね。頭がからっぽすぎて話になりません」
静寂が落ちる。
アランの瞳は冷え切っており、ステラリアの膝が小さく震えた。
つい先日まで彼女が聞いていた甘い囁きが、今はまるで嘘のように感じられるのだろう。
ステラリアの顔がくしゃりと歪む。
レニースフィアは深くため息をつき、肩を落とし、ぽつりと呟いた。
「だからやめておいたほうがいいと……助言申し上げましたのに」
「聞いてないわよ! そんなこと!」
ステラリアが涙混じりに叫ぶ。
だがアランは彼女を一切見ず、レニースフィアへ向けて柔らかに笑みを浮かべる。
「ああ、レニースフィアは昔から一言足りませんからね。
愛しの婚約者が失礼をしたようで、申し訳ありませんでした」
謝罪の言葉とは裏腹に、そのまなざしは完全にレニースフィアだけを映し、これまで見せたことのない甘さを帯びていた。
その様子を見たステラリアは、堪え切れず涙をこぼし、靴音を激しく響かせて校舎へ駆け去っていった。
彼女の姿が見えなくなってから、アランは肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
「あー、接待って疲れますね。
レニースフィアにも新学期から全然会えないし。寂しかったですか?」
「いえ。アラン様の哀れで滑稽なお姿を拝見できたおかげで、どれほど目が肥えたことか……。
大変、良い見世物でしたわ。
ええ、心から楽しませていただきました」
にっこり微笑むと、アランの表情が一瞬で険しくなり、次の瞬間にはレニースフィアの頬を軽くつまむ。
「そう思うならさっき言ってくれればよかったでしょう?
『アラン様はわたしのことしか愛していないのですから、その横恋慕は無意味ですよ』って。
レニースフィア? もう少し婚約者としての自覚をですね──」
説教が始まった。
この調子は久しぶりだ、とレニースフィアは内心で懐かしさを覚える。
けれど、これ以上聞いていると本当に長くなりそうなので、さえぎるように一歩近づき──
「では、お互いが足りなかったということで。今はそれでよいではありませんか」
苦し紛れではあったが、レニースフィアはそっとアランの唇に触れた。
ほんの一瞬のキス。
アランは目を丸くし、次の瞬間、顔が真っ赤に染まったまま完全に固まる。
その様子がおかしくて、レニースフィアは満足げに微笑んだ。
いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!
寄せていただいたご意見には、同じ温度で、できる限り早く返信をさせていただいております。
ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。
ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!
⬇お時間ある方はこちらもどうぞ!⬇
【名も顔も知らない婚約者】
https://ncode.syosetu.com/n5059lj/




