6. Champion -王者-
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♪ ベートーヴェン / ピアノソナタ第8番「悲愴」→第14番「月光」→第23番「熱情」
2018年、春。日本・東京文化会館—————
『かつてピアノ界を騒がせた、ショパン国際ピアノコンクールファイナリスト・“消えた彗星” こと西条莉央が、今初めて日本に降り立つ ——— 』
春先といえどまだ寒い、桜の咲かない上野公園に人はまばらだった———ホールの前以外は。
会館前に貼られた大きなポスターには、ピアノ前の莉央の写真とともに、そんな大袈裟な文言があった。手元のパンフレットをめくっても、同じように。
———彗星のように現れ消えた、謎大き天才ピアニスト。第15回ショパン国際ピアノコンクールでは予選から注目を集めていたものの、ファイナリスト目前で突如辞退。聴く者を虜にしては、姿を消す。神出鬼没の “音” の寵児が、本日ソロで紡ぐのは———ベートーヴェン3大ソナタ・『悲愴』『月光』、そして『熱情』。
俺はふっと笑って、パンフレットを鞄にしまう。随分とドラマチックに、体裁よく書かれているものだ。……まあ、期待値は高い方が、彼にとっても勝負し甲斐があるだろう。
と、今度は鞄の中のスマホが大きめの着信音を鳴らす。驚いて取ると、焦ったような声が飛んでくる。
「ああ、専務!よかった。先日のA社との共同開発の音楽教材の件で……」
「田代。休日だぞ」
「で、でもこれほんと至急対応案件で。芝並さん、いつもパパッと対応してくれるじゃないですかあ———」
「だめだ。今日だけは、頼むから鳴らさないでくれ」
俺はそう言い切り、ため息をついて携帯の電源を切る。
莉央の、周りに有無を言わさず自分を通すあの癖が俺にもあれば、時間外勤務も少しは減ったのだろうかと考える。が、俺にそんな図太さはないし、そもそも、そういうやり方は好きじゃない……
「すごい意気込みようね」
隣で、クスッと笑う声がした。彼女は、まだ3歳の息子を抱きながらこちらを見上げる。
「いや、意気込みっつーか」
「で?一声でも泣いたらすぐに出てくれって?」
「託児所があるだろ。一音でも邪魔すれば、後からあいつがうるさく言ってくるのが目に見えてる」
「私も聴きたかったのに」
妻は残念そうな顔をしながらも、どこか含み笑いをしている。莉央のことはあまり話していないというのに、何かを察しているような顔で、居心地が悪くなる。
「ちなつは、しずかにしてるから大丈夫だよ」
ふと、7歳の長女がやや緊張した面持ちでこちらを見上げて宣言するので、俺はふっと笑った。
「ああ」
何年か前に妻と、ヨーロッパへ新婚旅行に行った時のことだった。莉央の様子を見に行けば、なるほどあの時の電話通り、川底に沈みそうな顔をしていた。恋人とのトラブルだの、マイノリティ差別だの精神疾患だのとさも被害者面をして喚いていたので、俺ははっきりと言った。
「天才なら、天才と証明してみせろ」
会社の知り合いで、東京のでかいホールの運営に関わっているやつがいる。俺が企画を持ちかけ、お前を呼ぶ。呼んだら、「推薦枠」を取るつもりで来い。今度こそ逃げるな、と。
彼が日本を避け続けているのは知っていた。が、彼の「苦」など知ったことではない。俺が聴きたいのは、あいつがかつて言っていた、「周りを黙らせる "音" 」だ。
———およそ10年ぶりに聴く彼の生演奏は、一つも色褪せていなかった。数年のブランクなど感じさせない、完璧な技術とパフォーマンス。
そればかりか、溢れんばかりのエネルギーは、到底同い年のものとは思えないほど瑞々しく、俺はやはり唇を噛まずにいられなかった。
元より、真面目に練習をするような奴じゃない。注目を浴びては姿を消して放蕩生活を送る———なのに、なぜあいつはいつも、まるで “もうずっと前から” ピアノの前に静かに座っていたかのように、至極当然に弾くのだろう。
《悲愴》第一楽章の一番初めの重い和音が落とされた瞬間から———昨日まで、いやホールに入るまでに何をしていたかとか、昼飯に何を食ったとか、些細な日常を全て忘れさせる。隣にいる家族の存在ですら消えていくようで、ただ気づけば、彼の創る音世界の中に立たされている。
遠くの舞台の上の彼は小さい。たった一つの、黒光りするグランドピアノを操る彼だけが、この空間を統べる「奏者」なのだと、思い知らされる。
観客が息を呑むのがわかった。そして俺は、 “あの日” に戻っていた。
曇り空の多かった、ウィーンの秋と冬。白くぼやけた光が、教室の床のささくれだった木目を照らし、聴き取りづらいドイツ語が聞こえてくる。
「リュージも肩の力を抜きなよ」とよく連れて行かれた、学校近くのバー。学割をしてくれる気のいいマスターや、可愛いと思っていたのに声をかけられなかった店員の女の子の、栗色の巻き毛、その柔らかな毛先までもが、莉央の音によって鮮明に脳裏に蘇る。
いつの間にか、旋律は《月光》へと移っていた。静かな嬰ハ短調の音ひとつひとつが、まるであの日、窓際に当たっては瞬く間に露となった、雪の一粒一粒のようだった。
「拍手って、ディミヌエンドじゃないか」
そう言った莉央の横顔に、薄紫色の絵の具が塗られていく。グラスの飲み口の輪を、意味もなく何周もなぞっていた中指。その円の中で、琥珀色に崩れていった四角い氷———
「日本ではもちろん、隠してたさ」
ふう、と大きな白い息を、空に向かって吐いていた。黒い街灯のポールに腕を回し、ぐるぐるとほろ酔い半分に廻る。《月光》第二楽章。
「イジメ?やり返したよ。親の名前を出せばみんな黙るし」
冷たい空の下を、皮肉めいた笑みと軽やかなステップで音階を走り抜けていく。第三楽章そのものが、まるで何かを嗤うように鳴る。
莉央の音色はどれも一単調に終わらない。優しく、激しく、豊かで、さまざまな表情を魅せる。どんなに聴き飽きた有名曲だろうと、莉央の指の先から流れ出せば、途端に真新しいものとなる。
そして———
再び、突然なんの前触れもなく殴られていた。プログラムも楽譜も、知っていたはずなのに。
《熱情》第三楽章。あの日の衝撃が、また全身を打っていた。いや、ただの追想ではない、あの時とはどこか違う物語———莉央がこちらに向かって、ニヤリと笑いかけていた。もちろん実際にではない。ただ、音からわかってしまう。
それは、俺という凡人が彼に叩きつけた挑戦状への呼応。堕ちかけていた天才の、強かな反撃。
俺が初めて莉央を見た時、彼はこちらに気づいてもいなかった。きっとディナーの賭けのことしか頭になかっただろう。が、今、彼の音の端々からは、意図された何かを感じる。まるで、観客一人一人に目配せをして、手をとって誘い込むように。
その危うい道化はしたり顔をしながら鍵盤を駆けていく。その滑稽な王者は、拍手は要らないと言う。
誰にも真似できぬ繊細な音を、金糸のように紡いで魅せ、編んだビロードを大袈裟に振りかぶる。しつらえた絨毯の上に、自らの靴を乗せてターンし———
踊る王者は人々を振り返って、ついに告げる。「さあ、フィナーレだ」と。
会場は、しんと静まり返っていた。
一拍後。
「「 Bravo!」」
わっと湧き上がる客席、日本公演にしては珍しいスタンディングオベーションとともに、割れんばかりの拍手が鳴っていた。
『Ja! Glasswing ?』
———というのは、俺の幻聴だったようだ。舞台の上の莉央は、右に左に、深々と丁寧にお辞儀をしていた。
「パパ、ママたちどっか行っちゃったよ」
不意に小さな手が俺の手を掴み、俺は一瞬びくりとした。
「え?ああ、……そうか、託児所かな」
そういや、彼らが出ていったのにも気づかなかったのか———
「パパ、泣いてる?」
「え?」
言われて、ふと自分の頬に手をやれば、なるほど微かに濡れている。
「すごかったもんね」
千夏が頷いて見せるので、思わず笑ってしまった。
「はは、わかるのか?一丁前だな」
「もちろん、わかるよな。すごかったもんな」
不意に背後から聞こえた声に、俺は驚いて振り返る————なぜか、さっきまで舞台上にいた莉央が立っており、にこやかな笑みを浮かべている。
「パパ、いい歳して感極まって泣いちゃったんだよ、あまりにも良くて」
「お前っ———」
「ちょ、西条さん、面会は楽屋で……。お戻りください」
と、スタッフが慌てたようにやって来て莉央を連れ返そうとするが、もちろんすぐに聞くような奴ではない。周りがザワつくのも気にせず、莉央は千夏のほうへ屈むと、ポンポン、と頭を撫でる。
「ありがとな、来てくれて。千夏ちゃんだろ?ピアノやってるの?」
「うん。今度、発表会で “きふじんの乗馬” 弾く」
「へえ!パパが口うるさく言いそうな曲だ」
「おい、楽屋戻れって」
「ああそうだ、このあとご飯でも行かないか?家族で来てるんだろ?」
「話を聞け」
俺がため息をついても、莉央はケラケラと笑うだけだ。「沈みそうだ」などと漏らしていたあの絶望者の見る影もない。
「数年ぶりだってのに!ああ、お前の家に行ってもいいな、ピアノがあるだろ」
「勝手に決めるな」
相変わらずの強引さに、半ばうんざりしていると、莉央はふと何かを思い出したような顔をし、それから、口端を微かに上げた。
「Ich bin der Champion, ich entscheide (僕が王者だ、僕が決める)」




