5. Schalldämpfer - 沈黙者 -
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♪ ラヴェル / 水の戯れ
「リオ君か。確かに独特な感性を持っているが……彼はきっと、一流のピアニストにはなれないだろう」
ユヴェルセン教授は、やはり腕の立つ教授だった。様々なことを細かく観察している。
「なぜです?」
そう返した自分の言葉に、微かな苛立ちが滲んでいるのが、自分でも驚いた。自分を否定されたわけではないのに。
「彼自身、そこを目指している気がしないからだ」
彼は端的にそう言った。違う、と否定しようとしたが、止まってしまった。
「じゃあ、俺は……どうですか」
沈黙ののち、俺は代わりに聞いた。無理なら無理と、正直に言って欲しかった。ここで今彼にはっきりと断定されれば、今までの道のりにコーダを打つ覚悟がつく気がした。
あいつに一つ勝てるものがあるとすれば、俺の方がより真剣に、真面目に、より長くピアノに向き合ってきたこと。何度も挫折を味わいながら、それでも縋り付いてきた強い執念———それだけで今ここに立っていることに、多少なりともの自尊心はあった。
でも、長い冬が終わりを迎えようとするウィーンにて、俺は初めて、微かな揺らぎを感じていた。留学を終えた、その先は———
「君は本当にピアニストになりたいのか?」
教授の言葉は挑戦でも疑いでもなく、ただシンプルな問いかけだった。一年前なら何も考えずに頷いていたというのに、即答できなかった自分に驚いた。
結局、ユヴェルセン教授は、正しかった。
日本へ帰って、俺は一般企業への就職活動を始めた。
渡航前は、あれほどがむしゃらに突き進んでいたというのに、割とあっさりと、ピアノから離れられてしまうことが不思議だった。あの時、教授の問いに答えられなかった自分が、何よりの答えだったからかもしれない。後悔はしていない。ただ一つ気にかかったのは、「一流のピアニスト」の行方だった。
ある年のショパン国際ピアノコンクール———世界最高レベルの舞台にて、予選から審査員の度肝を抜き、ファイナリストは確実と言われたその目前で、本選に姿を現さなかった「謎の若き天才」。音楽関連のニュースで知ったことだ。
しかし、その一件が逆に話題性を呼び、ヨーロッパ各地の有名ホールでリサイタル、他のコンクールで賞を取ったりと、一気にスターダムを駆け上がっていく莉央の姿を見た。
なんだ、あいつは変わらず「勝者」の道を歩んでいるじゃないかと、半ば安堵していた、その数年後のことだった。
「ドナウに沈みそうだ」
突然、ドイツからの電話があった。普段から連絡をとっていたわけではないが、記憶の中のあいつに比べれば、ひどく落ち込んだ声だった。
「ドナウじゃなくてラインだろ」
驚きとともに、口から出ていた言葉はなぜかそんなようなものだった。
「相変わらずクソ細かい奴だな」と弱々しい笑いが返ってきた。聞けば、あの本選棄権は単に、前日夜通し飲んだ挙句二日酔いですっぽかしたという、霰もない話だった。
でもお前は色々活躍しているし名声も得ているじゃないか、と俺は事実を言った。ユヴェルセン教授の言葉は嘘だと自分に言い聞かせ、彼にも頷いて欲しかった。
「いや。もう、疲れた」
返ってきたのは、そんな、我儘な子どものような呟きだった。彼らしいと言えば彼らしいが、納得はできない。苛立ちが滲んだ。
「莉央、逃げるな」
あの『推薦枠』の不戦勝から、ずっと心に引っかかっていたことだった。莉央は自信のあるふりをして、いつも肝心なところで逃げる、結局拍手が来ないのが怖いだけの、臆病者だ。
「逃げたのはお前だろ」
まるでブーメランのように返された。
「違う、俺は———」
逃げたんじゃない、終えたんだ。確かにもう弾いてはいない。でも、今度は音楽を届け、広める側にいる———ヤマハの音楽教育事業部で、商品開発や企画に携わり、仕事はやり甲斐のあるものだった。俺は自分の信じる道から、逃げたつもりはない。
そう言いたかったが、言葉がつかえた。
曖昧な沈黙が流れた後、電話は切れた。それから莉央はまた、表舞台から姿を消した。




