4. Abwesender - 欠席者 -
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♪ ショパン / ノクターン第2番 Op.9-2
外国人にとって、「リュウジ」は発音しづらいらしく、みんなは俺を「リュー」と呼ぶ。
が、クラスメイトも先生も、やがて「リュー」と「リオ」を混同して呼び始めるから厄介だ。俺の名前でさえ、あいつにいつの間にか上書きされるのは心底腹がたった。
「リオ、君、特別枠に選ばれたんだって!」
嬉しそうに、俺の肩をつついてくるクラスメイトに、俺は苛立ちを露わにはっきりと言った。
「リュー。リュージだ。リオじゃねえ!」
「ああ、そうだった、ごめんよリュオー!」
訂正する気はすでに失せ、俺はため息をついてあしらう。やけに廊下が底冷えしており、ふと窓の外を見やった。
いつの間にか、白い雪がちらほら降り始めていた。眼下には、人々が黒い傘を広げて通りを行く。
———もう一つ訂正をすれば、「特別枠」は特別ではない。
莉央は数日前に、ぽつりと姿を消した。
ユヴェルセン教授は、ついに莉央の演奏を正式に聴くこともなく、学校の規則に則って唯一の日本人学生である俺が選ばれただけだった。
あいつは戦いに来なかった。この意図しなかった不戦勝に、俺は納得いくはずもなかった。
あの日、怪我したあいつをうちのボロいシェアハウスに匿って手当てしてやった。始終皮肉と挑発を垂れるあいつを無視して、あかぎれの手指もついでに面倒を見、ケアの仕方を教えてやったというのに。
それがあいつの言う、「罪悪感からの埋め合わせ」から来ていないといえば嘘になるが、それよりも、俺はあの時ただ公平を望んでいた。
「特別枠」をどちらが取れるか勝負してみたかった。
凡人の自分が、どこまで通用するのかを。
窓に、ふと大粒の雪が張り付いた。それは一瞬で露となり、窓枠の端へと流れ落ちて消える。どこかの教室から、「ノクターン」が流れてきた。もちろんあいつの弾くものではない。
そのシンプルで静かな旋律は、ウィーンの灰色の雪風景に似合っている気がした。
『ボーイフレンドがいるのが、親にバレたんだって』
後日、莉央と仲のいい友人から聞いた話に、俺はすぐに言葉を返せなかった。
両親が急にこちらに遊びに来たらしいが、彼らは莉央のその一面を知って動揺し、憤慨した。最初は日本に強制帰還させられるという話だったが、結局、ドイツの音楽学校に急遽転校したらしかった。
すぐに名門音楽院へ編入させられるほどのお金は簡単に出てくるし、莉央が各校で賞賛を浴び「天才若手ピアニスト」の称号をもらって帰ってくるならその程度はチャラという。
『莉央のセクシャリティという汚名を上書きするには安い金なんじゃないの』と彼女はどこか、あいつと似たような皮肉な笑みを浮かべて言っていた。
莉央は自分のことをあまり喋らなかった。
あいつがいなくなる前、放課後の教室で数日だけ、お互いに一曲ずつ弾いて見せあったことがある。———というのも、他留学生も特別枠選出に向けてピアノと教室を取り合ったため、限られた台数と時間を、あいつと共有せざるを得なくなっただけだったが。
「まあこっちの先生にもう言われていると思うが」
莉央は俺の演奏を少し聴くと、まるで教授のように偉そうに腕を組んで言った。
「君の日本式な “いい子ちゃん” の弾き方はここでは通用しないって、わかってるよな?ああ、それともそれ以外できないのか」
これみよがしに嫌味な笑みを浮かべるのを見て、むしろ俺は、彼の幼稚な挑発に笑ってしまった。
「ならお前もわかってるよな?」
ピアノの横に立って、俺はここぞとばかりに指摘した。
「調子が悪くなると荒さをスピードで誤魔化すから必要以上にテンポが速くなってる———まあ、教授からも言われてると思うが」
莉央の、心底うんざりした顔を見るのは小気味がよかった。
一通りお互いの演奏にケチを付け合い、また始めから弾き直す。お前の方が長く弾いている、と遂に低レベルな喧嘩に発展しそうだったが、やがて閉校の時間がやってきて、俺たちをピアノから引き剥がした。
「人は拍手をもらうと、とにかく満足する生き物だろ」
音楽議論を始めたら止まらなくなった。俺たちは、学生らがよく行くカジュアルなカウンターバーに並び、今度はピアノではなく安いウィスキーを挟んで引き続き言い合った。
「満足しねえ奴なんかいるか」
「俺はしないね」
「はいはい、天才さんは貪欲なことで……」
「拍手って、ディミヌエンドじゃないか」
グラスの氷が、からんと崩れる。彼の瞳の奥にあるものは読み取れなかった。
「……」
それがどうした?よくある綺麗な終わり方じゃないか。と言おうとしたが、ふと考え直した。
「ああ、お前の性格的にフォルテで劇的に終えてほしいと?」
ドビュッシーのような柔らかい印象派よりも、ベートーヴェンのようなわかりやすく劇的なのを好む奴だからな、と俺がにやりと笑いかけると、「わかったような口聞くな」とうんざりした顔をされた————この顔は半分図星であることを意味するというのも、徐々にわかってきていたが。
「違う、俺が言いたいのは」
と、莉央は半分酔いが回っているのか、グラスを手に微かに前屈みになり言った。
「時々誰かが、俺の演奏じゃなく、俺の演奏への拍手しか聴いていないということ」
「……?」
俺はその時、ただ眉を寄せるしかなかった。莉央の事情なんて知りもしなかったのだ。
「そんで、もし素晴らしい喝采があれば、さも自分が演奏したかのように、そいつらが満足してることだよ」
そんな奴ら、いても気にするなよ、とその時俺は適当に返したが、莉央はどこか遠い目をしていた。
「いや、拍手を気にするくらいならむしろ無音がいいね。だから、周りが一切音を立てられなくなるような———『俺の音』だけが響いている空間が、一番心地いい」
俺は、初めて彼の演奏に足を止めた日のことを、思い出していた。あの、息を呑む音すら憚られるような、圧倒的な緊張感は確かに独特だった。かと言って、それは恐ろしく支配的なものとも少し違う———
きっと、「一音たりとも聴き逃したくない」と人々に思わせるほどに豊かな音を、彼が魅せるからなのだろう。




