3. Trottel - 愚者 -
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♪ スクリャービン/ピアノソナタ第2番「幻想ソナタ」嬰ト短調 第1楽章,Op.19
「馬鹿じゃねえの」
数ヶ月ぶりに発する日本語が、そんな言葉になるとは自分でも思っていなかった。国際電話も金がかかるから、ほぼしていなかったし、こっちで日本人とつるむくらいならドイツ語を学ぶ方が優先だった。
莉央は血の混じった鼻水をずっと吸い上げ、地べたにしゃがみ込みながら、赤く腫れ始めた頬を抑え、まるで情けない顔でこちらを見上げていた。
「……誰だよ」
開口一番そう呟かれ、思わず眉がヒクついた。
「マジで、知らねえのか」
————ああ、そうか。スポットライトの当たってるやつからすれば、暗い観客席にいる誰かなんて、見分けがつかない、と。こういう奴は自分にしか興味がないのだと、苛立ちを通り越して呆れさえ沸いてきた時、莉央は微かにため息をついて言った。
「知っては、いるよ。シバナミリュウジだろ」
「……知ってんじゃねえか」
なんで「誰」なんて聞いたんだよ、とも言いたかったが、なんとなく言葉が出てこない。と、彼は視線を逸らし、誰もいなくなった路地の先を力なく見つめてぼやいた。
「今の……見てたのか」
そう言われ、微かな罪悪感が胸をひりつかせた。結局、殴られようとする彼を止めに入れなかった———いや、入らなかった。
心のどこかで、一瞬、そうなって仕舞えばいいと思った自分が、今となって恐ろしく思えた。
あの男たちは、莉央が地面に倒れたのを見て、それから背後にいた俺の気配に気づくと、鼻を鳴らして去っていった。それ以上の面倒ごとを起こしたくなかったのか、莉央に愛想をつかしたのかはわからない。
「いい見ものだったろ」
莉央は皮肉を込めた笑いをこぼした。気温の下がった夕暮れに、真っ白な息が吐かれる。俺は抑揚のない声で返した。
「別に」
「あ……それか、4人相手に喧嘩する勇気はなかった、とか?」
こちらを再び見上げた瞳は、人を見透かすような鋭い冷笑に満ちていた。瞬間、俺の中の羞恥や怒り、ないまぜの感情が揺らいで、喉を焼くのを感じる。
「てめえ———」
思わず震える声を出したその先、冷静な言葉が落ちていた。
「行けよ、来週から教授のオーディションだろ」
ふと動きを止める。
なんで知って…… いや、知っているか。仮にも音楽院の留学生なのだから。
じゃあ、最大の「ライバル」を前にして、殴られそうになっているのに止めなかった理由を———こいつは気づいている?
どこまでも、自分が醜く無様に思えた。
全て暴かれたような気分で、今更取り繕うことも馬鹿らしくなってきた。でも、もっと滑稽なのは、目の前の男を見下ろせば、彼もまた無様で傷だらけであること。
軽やかにスキップをしていたと思っていたこの莉央という青年の足が、実はカサついて血だらけであることに気づいたとき、張り詰めていた何かが、ぷつりと解かれた気がした。
俺は鋭くため息をついて、半ば強引に彼を立たせて肩を貸した。
「……何、今度は借り作り?罪悪感からの埋め合わせか?」
尚も皮肉を込めた挑発が飛んでくる。俺は無視して、その嫌に軽い身体を支えてやった。
「あまりに哀れで同情してんだよ」
「っは、お前が哀れだろ」
「ドナウに突き落とすぞ天才気取りが」
本心から勝手に出ていた言葉に、しかし彼はなぜかぷっと吹き出していた。「ドナウって、」と、肩を揺らして無邪気に笑い始めるその姿に、俺は目を細めた。
その自由さが、羨ましいと言えば羨ましい。傲慢で、軽薄で、繊細で、人を喜ばせると同時に人を嘲り、子供のように純粋かと思えば、世界を冷めたような目で見ている。
彼がどんな人生を送ってきたかなんて興味ない。でも、確かに「苦」を知らない奴が、あんなに豊かで複雑な音を出せるわけもないか、と今更気づいて、俺は微かに乾いた笑いを溢した。
あかぎれの皮膚で踊り続けるその指が、鍵盤に触れて初めて、あの全ての音を空中へ具現する————
俺はその時初めて、新しい楽譜を読んだ気がした。




