2. Betrunkener - 酔いどれ者 -
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リスト 超絶技巧練習曲 第4番「マゼッパ」
「りゅうお兄ちゃんは、本当にうまいね!」
あの時、単純だった俺の背中を押してしまった、目を輝かせた子どもの、素直な感想も。
同年代には難しかった曲を完璧に弾いたとき、他の親がくれた拍手。その感嘆が、お世辞ではないと子供なりに感じたことも。
「芝並くん、すごかったわね」
「芝並隆二、第32回地域音楽コンクールにて優秀賞を修めたことを、ここに賞する———」
あの時、“最” 優秀を取れなかった時点で、諦めていればという後悔も。
「隆二……わかってるわよね?ピアノなんかやめてね?」
子どもに音楽をやらせる経済的余裕なんてない、親の不安な呆れ顔も。
全部無視して、弾き続けた。嫌になるほど弾いた。同じ小節を、同じ音を、かさついた指で叩き続けた。霞む視界で信じた。苦い音の向こうにある、美しい旋律と、なだらかな景色を。
いつの間にか、知らぬところへ来ていた。寒く冷たい袋小路だった。
学校にほとんど来ていなかったという、あの小さな「勝者」は、名を“西条莉央”というらしい。この学校で唯一の、もう一人の日本人留学生———あいつが現れてから、何もかも上手くいかなくなった。
どの道を歩いても、いつの間にかあいつが現れ先を歩いている……いや、楽しそうにスキップしていく。現れればチヤホヤされ、人だかりができる。俺は次第に歩きづらくなって、結局別の道を選ばざるを得ない。
でも、もう少しでどこかへ辿り着きそうだという時になって、またあいつがふらりと現れる。俺なんて視界に入っていない様子で、通り越していく。
そんな日々が続き、やけになって、珍しく一人で安いバーに行った。大して食欲もなくビールを流し込んだせいで胸やけがし、数杯で諦めて旧市街をぶらついていた時だった。
一際大きな笑い声と共に、数人の男たちが群がってバーの裏口から出てきた。煙草をふかし、ポケットから小さな酒瓶を出して道端で飲み始める———だけじゃない。相当酔っているのか、隠れもせずに男同士でいちゃつき始めた。
「……っ」
こっちに来てから、こういう光景に何回か出くわすようになったが———それでも、微かな嫌悪感が湧くのを止められなかった。
面倒に巻き込まれないためにも、無視してさっさと家に帰ろうと、背を向けようとした時だった。見覚えのある顔が視界に入り、思わず足を止める。
ローカルらしき男との長い口づけから離れたかと思うと、他の男から煙草と酒をもらい、ぼうっと曇り空を仰いだ小柄な日本人。
「……は?」
思わず、小さく声を漏らしてしまった。が、向こうは気づいていない。数人の男たちはそいつを壁際に囲っていた。
「リオ、もう一軒付き合え」
「はあ?やだよ、疲れた」
莉央はその中心で、面倒そうにため息をついた。が、先ほどまで遊んでいたらしい乱れた格好で、説得力はない。
「ったく、この気まぐれ王子が」
「ついてきてるのはそっちだろ」
「……ワガママだけで生きてけると思ってんのか?」
一人の男が痺れを切らしたように、声を荒げ迫った。
「っ、離せってばこのブス!」
腕を掴まれた莉央が、跳ねるように叫んだ瞬間。
「あぁ?」
赤ら顔をした男が怒鳴り、片手を振り上げた。
俺は一瞬、息を飲み込んだ。
『ユヴェルセン教授の特別クラスを受けられるのは、留学生枠で各国につき一名のみ』
なぜか、脳裏にそんな言葉がこだまする。先週のクラスで、不意に告げられたことだった。
『推薦枠の決定は、主に普段の授業態度から考慮しますが、素質そのものも見られます』———
数々の有名ピアニストを指導した名教授。彼が来週、授業を見学に来る————それは実質、抜き打ちオーディションを意味する。
もし、あいつが、真面目にやり出して、来週のクラスに全部出席し、そのカリスマ性でもって、俺が地道に積んできたものを全て、なめらかに上書きしてしまったら?誰も……俺など見向きもしなくなったら?
形容のできない感情が渦巻いて、足が止まる。
———このまま、放っておけばいい。全部、あいつの自業自得だ。天才に唯一弱点があるとしたら、きっとそれは「過信から来る油断」だろう。地べたを這うしかない凡人の俺は、鳥が自ら落ちてくるのを待つしかない。
卑怯?誰が。俺は何もしていない。あいつの方が卑怯だろ。ルールも守らないくせ、誰にでもいい顔をして。
肺に入ってくるのは11月の冷たい空気のはずなのに、吐く息は嫌に熱い。心臓がどくどくと打ち、目頭がヒリつく。酒もほとんど飲んでいないのに、吐き気がした。
時が止まったように思えた———次の瞬間には、パンっ!と鈍い音が裏路地に響く。
「いっ———!っのクソ野郎!!」
頬を殴られたらしい莉央の、ヤケになったような怒鳴り声が響く。天才というのは世間知らずで馬鹿なのか?逆らえば、もっと酷いのが飛んでくる。それとも、育ちが良すぎて喧嘩のいろはも知らねえのか?
ガンッ、と二度目の音。直視できなかった。殴られるのはいつだって体の小さい方だ。
なぜだろう、その時幻聴のように脳裏に流れた旋律は———リストの『マゼッパ』。奇怪な不協和音が、悪夢のように音階を崩れ降りてゆく。
あれは一週間前のことだったか、「超絶技巧練習曲」と名のつくこれを、あいつが一人で練習していた。珍しく思って見ていたら、途中で指がもつれて止まっていた。少しいい気味だった。
彼はしばらく無表情で宙を見つめていたが、八つ当たりのように鍵盤を叩き、乱暴に蓋を閉めたかと思うと、窓辺で煙草を吸い始めた。
彼を注意しようという気すら起きず、俺はそのまま去った。
まるで我儘な3歳児のように思えた。
彼の指を近くで見たことはなかった。しかし今、自分の頬を抑えながら小刻みに震えるその小さな手指が、少しあかぎれしていることに気づいて、俺はなんとなく笑いたくなった。
天才でも、育ちが良くても、肌はあかぎれして醜いこともあるのだと。
彼の指が無事であることに、少しの安堵を覚えたとき、『マゼッパ』の幻聴がふと止んだ気がした。




