1. Gewinner - 勝者 -
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♪ ベートーヴェン / ピアノソナタ第23番「熱情」第3楽章
全身が震えた。
音に殴られるとは、こういうことを言うのだと思い知らされる。
1998年、秋。オーストリア・ウィーン私立音楽院———
稽古室の床も壁も、曇り空のぼやけた光と共に振動しているように見えた。
あまりの衝撃に、思わず手にしていたノートを落としそうになった。しかし「彼が奏でる音」以外の音を、今は一つたりとも溢せない、そんな圧さえ感じて息を止める。
ピアノを取り囲む皆も、同じく息を呑んで見守っていた。
まるで踊るように紡がれる指運び、楽譜のない空中に音を打ち、指揮者のように躍動する両腕。ふわりと舞ったかと思えば、地を叩くように重く刻む。だらしなく羽織った薄いシャツから覗く、肩甲骨の窪みが上下するたび、新たな音が洪水のように色めいて流れる。
心臓を揺らす低音と、肌をくすぐるような高音。その二つが交互にかけ合い、ひときわ繊細で大胆な音階を駆け上がったあと———
ふと気づくと、あたりは無音の静寂に返っていた。
「Bravo!」
「Du gewinnst《君の勝ちだ》!」
一拍後、喝采が弾けていた。いつの間にか野次馬が増えている———なぜか先生までもがこっそり覗きに来ていた。
「Ja! Glasswing ?」
満足げに振り返ったその顔を見て、ハッとした。日本人じゃないか。流暢なドイツ語に淡い栗色の髪、てっきりヨーロッパの他の留学生だと思った。それに、あのように感情に任せるような自由奔放な弾き方———日本人らしくない。
————待て、Glaswing?第一地区の超高級レストランの名前だ。
「Oh bitte nicht(勘弁してくれ)!」
その日本人学生の隣で、現地学生の一人が大袈裟に声をあげる。と、彼は自分よりいくらも身長の高い彼の肩にポン、と手をやって、したり顔を浮かべた。
「Ich bin der Gewinner, ich entscheide(僕が勝者だ、僕が決める)」
体格的には一回りも小さいと言うのに、圧倒的な存在感。学校では今まで彼を見たことがなかったが、まるでずっと昔からいたクラスの人気者のようだ。それも、彼の「音」の魅力なのだろうか?
「今夜はこいつの奢りだとよ!3人だけ連れて行ってやる」
「待て、聞いてない」
「本当か!」
そんな彼らのやりとりを聞いて、周りがわっと盛り上がる。放課後の音楽院、他の生徒たちは呆れたり茶々を入れたりしつつ、まばらに帰っていく。俺は眉を寄せた。
高級ディナーの奢りを賭けていたのか……ピアノの演奏で?
「リオは実に素晴らしいね」
一人の老教授が、まるで良いコンサートを聞いた帰りのような表情で、穏やかに頷きながら部屋を出ていった。いつもは無表情のことが多いあの彼までもが。
「授業にちゃんと来ればいいのですが」
隣にいた若い講師はため息混じりに漏らした。
「ああいう天才は、時間と規則も “Play”するからな」
はは、と軽く笑う教授の声を聞いて、俺は一筋の怒りを覚えた。
天才だとなんでも許されるのか?
ベートーベンのピアノソナタ第23番 「熱情」第3楽章———確かに、俺が今まで聞いた中で、一番上手かった。
いや、正直に言うと……それ以上だ。よく聞けば、音が飛んでいたところは確かにあったが、そんな些細なことを気にさせない圧倒的な魅力。
俺は楽譜を知っているから、「正解」を知っている。なぜなら、何度も練習した曲だから。そして、ある時から一切弾かなくなった曲。
『音が弱い、間違えないようにと怯えているのが丸わかりで、ひどくつまらない、二度と弾くな』
ピアニストを目指して、必死にバイトをしながら、片時も練習を怠らなかった。血の滲む努力の末に奨学金を掴んで、憧れの音楽の都・ウィーン渡航のチャンスを得た。
が、こちらに来てすぐの個人レッスンで、教授一人のそんな言葉に思わず手を止めてしまった。
いや、そんな言葉に挫けていては何も始まらないと、俺は他の曲を練習した。誰よりも早く登校し誰よりも遅く帰る。どうせ、生活費を削るためにボロアパートでルームシェアをしているせいで家の住み心地は良くない。
「ピアニストになる」———
その言葉がひどく滑稽に思えてくる。身の丈知らずとはこのことを言うのか。上には上がいるし、まして海外で戦おうなんて。才能ある者との溝は、努力で埋められると、一体誰が言った?
天才を前に、呆然と立ち尽くしてしまったことが、“凡人”の最たる証拠。生まれ持っての“勝者”に、本能で負けを認めてしまったことを、努力なんかで撤回できるか?
俺は乾いた笑いを一つ、さめざめとした曇り空に吐いた。




