《からくり屋さん》
※ 本作は江戸川乱歩『芋虫』をもとにした二次創作である。
時子は、戦場で九死に一生を得て帰還した夫・須永の生還の知らせを受け、喜び勇んで病室へ駆けつけた。
だが目にしたのは――両眼だけは無事に残っていたものの、顔はほとんど焼け爛れ、四肢も切断され、命を辛うじて繋ぐばかりの痩せ衰えた肉体だった。
彼女は絶望に打ちひしがれた。
天が、これほど残酷に愛する夫を弄ぶとは、信じ難かった。
時子は夫の上にすがりつき、声をあげて泣き崩れた。
しかし夫は、もはや両腕で妻を慰めることはない。
口は言葉を失い、ただ呻き声を漏らすのみ。
耳孔は残っていたが、聴覚は完全に失われていた。
床に崩れ落ちて泣き続ける時子に、医師や看護師はこう告げた――
「ご主人様はまさしく生ける伝説――奇跡そのものでございます」
だが、時子の頭の中を占めていたのはただ一つ。
「これから、どうすればいい?」
世間がいかに夫を讃えようと、いま目の前にあるのは生活の一切を自力で営めぬ廃人なのだ。
╳╳╳╳
鷲尾少将は、夫婦がわずかな恩給に頼り苦しい生活を送っているのを不憫に思い、使われなくなった倉庫の別邸を二人の住まいとして与えた。
時子は一年もの間、丹念に夫を看病し、ようやく彼の肉体は健康を取り戻した。
少将でさえ「時子は立派な妻だ」としばしば称賛したほどである。
だが時子自身は「少将の言葉は誉め過ぎだと感じていた」と思っていた。
彼女の願いはただ一つ――「夫と共に普通の日常を過ごすこと」だった。
彼女はよく夫を一人残し、須永の名を頼りに「義肢」の知識を探し求めている。
だが残肢すらない夫には、義肢を装着しても元の生活に戻ることは叶わない。
時子が外に出ることが増えるにつれ、須永の胸には孤独が募った。
彼は芋虫のように身をくねらせ、妻の前で子供のように駄々をこねた。
時子は子供をあやすように、夫の胸を優しく撫でた。
聞こえないと分かっていながらも、大きく口を動かして慰めの言葉を囁く。
やがて須永は、唇の動きから言葉を読み取れるようになった。
しかし、時子もまた過酷な現実に心をすり減らしていた。
慰めるはずが、気がつけば夫を押し倒し、衣を脱がせ、同時に彼の自尊をも剥ぎ取っていた。
逃げられず、抗えない須永は、それでも子供のように甘える。
二人とも、次に何が起こるかをよく知っている。
永夜のような侘しい夜、互いの心を激しく埋め合った後、二人は六畳の部屋に並んで横たわり、ただ見つめ合った。
時子は深い悔しさを覚えていた。
戦地へ赴く前の須永はあれほど英俊で勇ましかったのに、戦争が終わった今では、一日中寝床に横たわるだけの――呼吸する肉塊に成り果ててしまったのだ。
その夜、時子は夫に自分の考えをいくつも語りかけた。
須永は声で応えることはできなかったが、だがその眼差しは決して彼女から離れず、ひたすらに彼女を見つめ続けていた。
╳╳╳╳
翌朝――時子は須永の身体を梁に凭れさせ、二本の皮帯で寝間着の上から簡単に固定した。
彼女は一枚の大判のタオルを取り出し、夫の背に差し込み、もう一方を自らの手に握り、夫の正面に座る。
「さあ、参りましょうね!」
その意味を理解したのか、須永は静かにうなずいた。
「いーち、にーい……せーのっ!」
時子は全身の力で大判のタオルを引き、須永もまた左背を懸命に押しつけて応じる。
それは、夫婦で力を合わせて行う奇妙なリハビリ運動のようにも見えた。
十五秒間姿勢を保ち、夫の容態を確かめ、水を飲ませ、汗を拭き取る――そして再び繰り返す。
これは、かつて義肢を求めて奔走していた時子に、医師・小林が「まずは身体の手入れを怠らぬこと」と助言したものだった。
医師は新聞で須永の事績を目にしたことがあったが、いまや何の消息もなく、世間から忘れ去られてしまったのだろう。
だが、この残酷な世界の中で――彼の妻だけは決して彼を忘れてはいなかった。
その熱意に心を打たれた医師は、後日、さまざまなリハビリ方法を書き記した手稿を時子に送り届けるようになった。
「はぁ……はぁ……あなた様、お加減はいかがでございますか?」
時子が夫の顔を覗くと、汗が目に入って瞼を閉じている以外、異常はなかった。
皮帯を解いたあと、今度は介護士のように夫を背負い、布団を敷いた長い箱に安置する。
そこには下半身を模した義肢が取り付けられており、腰に固定した。
この義肢では歩くことはできない。
しかし時子がその義肢を押さえれば、須永は腹筋を使って上体を起こす訓練ができる。
「そうよ! その調子! 三、四、五……!」
╳╳╳╳
ある日――
「時子君!須永中尉の容体、いかほどか?」
鷲尾少将が医師を伴い、夫妻を訪ねてきた。中尉の身体を診てもらうためである。
軽い挨拶の後、時子は二人を倉庫二階へ案内した。
いつものように寝床で横たわっているはずの須永は……いや!彼は机に向かい、本を読んでいたのだ。
時子は少将に説明した。
「倉庫の品はご自由にお使い下されと仰せでしたので、夫に書物を読ませております」
彼の体には皮帯が幾重にも巻かれ、肩と胸を固定し、そこから伸びる木製の右腕が机の上に置かれていた。
机の上には本を押さえる簡素な支えがあり、その本と須永の間には、両腕をバネ仕掛けにしたT字の人形が設置されていた。机の上の楕円形のレールに沿って動く仕組みだ。
さらに右腕の義手のそばには、まるでダイヤルのような円盤が設置した。
頁をめくるとき、義手の先を円盤の穴に差し込み回すと、人形が動き出し、レールに沿って進み、開いた手で本の端を引っ掛けてめくる。
だがそれは時子が作ったからくり人形であるため、時には三枚も一度にめくれてしまう。そんな時は、須永が逆に円盤を回して修正しなければならなかった。
驚愕の光景を目にした医師と少将は、入口に立ち尽くした。
人形が二十頁目をどうしても開けず、須永が輪盤を何度も回すのを見て、時子はそっと近寄り、代わりに本を開いてやった。
そのとき須永は視線の端で少将と医師を捉えると、義手で机を「コン、コン――コン、コン……」と叩いた。
少将は即座に気づいた。――それはモールス信号だ!
「ええ……先ほど本邸で少将にお会いして、先生にあなたの回復具合を診ていただきたいと仰ったので、お二人をお連れしたのです。さあ、いったん横になって。本はまた後で読みましょうね。」
須永はうなずき、時子は手際よく装置を外し、夫を休ませた。
医師は聴診器を取り出し、夫の胸に当てて診察した。
そばにいた少尉は、好奇心を抑えきれず口を開いた。
「君は……どうやってこれを?」
「はい?」
「その……あの装置たち……どう呼べばいいのか分からないが……とにかく、それらのことだ」
少尉は言葉を探しあぐね、しどろもどろになりながら口にした。
時子は落ち着いた様子で答えた。
「以前、よく外出していたのを覚えていらっしゃいますか? 夫の名を出すだけで、皆さんが快く手を貸してくださったのです。最初は、夫を普通の人のように動かせる義肢を作ろうとしたのですが……長い時間をかけて調べてみると、残肢がなければ、たとえ義肢を作っても自由な動きにはどうしても限界があるようでした。」
彼女は机上の装置を見やり、言葉を続けた。
「お金の援助こそ望めませんでしたが、皆さんは廃材や道具を分けてくださいました。ですから夫と一緒に、どのような感謝の手紙を書こうかと、日々思案しているのです。皆さんのご厚意のおかげで、アタシもすっかり手工芸に夢中になってしまいました。」
「……時子」少将は目を閉じた。己の心に恥じたのである。
彼は須永を哀れんでいた。だがその憐憫には、どこかに蔑視の色が混じっていた。
六十を越えた少将は、多くの夫婦がこの現実に耐え切れず、日々を擦り減らしていくのを見てきた。
だがこの夫婦は――懸命に、希望を失わずに生き続けている。
その姿に、少将は心を打たれた。
「時子、君は須永と一緒に外へ出かけたいと思ったことはないか?」
「……ありますよ!けれど、まだ車椅子の作り方が分からなくて。幸運にも小林先生のところで試しに座らせてもらったことがあるんですけれど、正直あまり座り心地がよくなくて……。もしできるなら、夫にはもっと楽に座らせてあげたいのです」
「うむ……須永を押して仮面をつけさせれば、夫婦そろって水飴を売ることだってできるかもしれんぞ!」少将の声はどこか高揚していた。
「ふふふ……楽しそうですね! でも夫を下へ運ぶだけでも大変なんです。大門まで車椅子で運ぼうとしたら……外に出る前に日が暮れてしまいますよ!」
「その通りだ!ならば手動の昇降機を設置しよう。時子がわざわざ夫を抱えて下ろさずとも済むし、二人して転んで怪我でもしたら大変だからな!」彼はさらに声を弾ませ、勢い込んで言った。「そしてさらに、本邸から大門へ通じる道をセメントで固め、平らにしてしまえばいいのだ!」
このときの時子には、少将の言葉が本気なのか冗談なのか判じかねた。彼女が問い返そうとしたその時、医師が二人に歩み寄り、須永中尉の身体の状態はきわめて良好であることを告げた。筋肉は張りを保ち、皮膚にも艶と弾力があり、時子の看護が行き届いていると大いに称賛したのであった。
少将は傍らでじっと時子を見つめていた。彼女の年齢は、自分の娘とほぼ同じであるはずだった。
しかし、漆黒の髪にはすでに白いものが混じり、顔立ちもかつての甘美さを失い、疲労の色と皺や斑点が刻まれていた。むしろ自分の年齢に近い印象さえ与えるほどであった。
それでも――彼女の瞳だけは違っていた。
つねに真っ直ぐ前を見据え、ためらうことなく、どれほど打ちひしがれる残酷な未来であっても、再び立ち上がり勇敢に進もうとする強い光を宿していた。
その眼差しは、少将の心に深く刻み込まれた。
彼は何かを決意したかのように、静かにうなずいた。
╳╳╳╳
数年後――。
往来の絶えない道を、時子は狐の面をつけ、少将が特注した車椅子を押していた。
その椅子には狸の面をかぶった須永が座っている。
彼はあたかも四肢が健在であるかのように見え、手袋をはめた両手ででんでん太鼓をドンドンと打ち鳴らしていた。(実際には肩を動かすと義肢が連動し、でんでん太鼓が回転して音を立てる仕掛けだったのだ。)
「あめ〜はいらんかねぇ〜!おいしい水飴だよぉ〜!」
時子の声に呼び寄せられ、子供たちが次々と駆け寄ってくる。
彼女の背に掛けられた飴や菓子を買い求める子供たち。
同時に、不思議そうに須永を取り囲む。
彼は声を発することはできず、ただ太鼓を打ち続ける。
子供たちは、彼を「等身大の人形」だと思い込んだ。
その日を境に、子供たちの間で二人はこう呼ばれるようになった。
――「からくり屋さん」と。
時子は夫のために、さまざまな面を作るようになった。
義肢には仕掛けを加え、ときに紙芝居を、ときに立体絵本を組み込んだ。
時子が道具を作っている間、須永はいつも二階で少将から贈られた本を読んでいた。
夜になると妻に紙と筆をねだり、稚拙な図を描き、さらに義肢で時子の掌にモールス信号を打ちながら――須永がほんの少し体を動かすだけで操れる仕掛けを一緒に考案した。
夫婦の暮らしは依然として苦しかった。
しかしその日々は、やがて色とりどりに彩られていった。
╳╳╳╳
「ここで座って待っていてね。あとで部屋に戻してあげるから。」
須永はうなずき、時子は椅子を建物の内側に向けた。
車椅子を所定の位置に置き、二階へ上がってハンドルを回す。
「ガラガラガラ……」という金属音が通路に響き、やがて須永は二階へと引き上げられ、いつものように時子の腕に抱かれて寝床へ戻された。
汗びっしょりの時子は、その時すでに疲労困憊していた。
彼女が汗を拭っていると、背後から「うぅ……あぁ……」という声が聞こえてきた。――須永が彼女を呼んでいたのだ。
「あなた、どうしたの? いつものように肩で合図してちょうだい。」
時子は手を伸ばし、優しく夫の肩を包み込んだ。
だが彼は首を横に振り、なおも「うぅ……あぁ……」と呻き続ける。
「筆? 筆が欲しいのね?」
彼は再び首を振り、呻き声を上げ続けた。
「筆じゃない……じゃあ、いったい何なの?」
時子は狼狽した。夫がこれほど激しく声を絞り出す姿を、彼女は今まで一度も見たことがなかった。
「あ……アリ……アリ……アワ……」
「何ですって? もう一度言って!」
何かを聞き取ったように、彼女は須永の傍らに身を寄せた。
言葉は不明瞭であったが、確かに何かを伝えていた。
時子は全身の神経を集中させ、必死にその声に耳を傾ける。
「ありやとう……はひぃてる……ありかとう……あいしてる……」
須永は、不器用なからくり人形のように、何度も何度も繰り返した。
涙はすでに目から溢れ、歪んだ顔を濡らしていた。
普段の時子なら、挫折に打ちひしがれ夜泣きする夫の涙を、柔らかな絹のハンカチで拭ってやったものだった。
この時ばかりは、時子は涙を拭ってやることはしなかった。
なぜなら、自分の瞳にも涙が溢れ、止まらなくなっていたからだ。
まるで締まりの利かない蛇口のように、尽きることなく零れ落ちる。
彼女は激しく胸を震わせ、夫の残された体を強く抱きしめ、その胸に耳を押し当てて声をあげて泣いた。
須永は顔を上げ、不器用に唇を寄せて愛を示そうとした。
時子は弾かれたように身を起こし、慌てて両手で涙を拭ったが、次の瞬間、雨粒のように夫の唇へと口づけを落とした。
二人の唇は互いを求め合い、絶え間なく重なり合った。
まるで互いの想いを確かめ合うかのように――。
もしかすると……時子の努力がなければ、須永は「明日の自分がどんな姿であるのか」さえ、知ることはできなかったかもしれない。
須永の胸を占めていたのは、もはや罪悪感ではなかった。
それに代わったのは――九十九夜を重ねても語り尽くせぬほどの、妻への愛情であった。
須永には、時子の瞳の中に、かつての若々しく勇ましい自分の姿が映っているのが見えた。
そして時子にも、須永の眼差しの中に、嫁入り前のあどけなく甘美な自分の姿が映っていた。
彼女の掌は、かつては清らかな香りを帯び、柔らかかった。
今では粗い胼胝と汗に覆われている。
だが、その手が頬を撫でると、須永は醜いとは思わず、むしろこの上なく心地よく感じ、温もりに顔を委ねた。
その姿に、時子は思わず笑みをこぼし、愛おしさに堪えきれず、さらに深い口づけを与えた。
互いの身体はすでに疲弊していた。
それでも、燃え立つ気息と愛情には抗えない。
本能に導かれるままに――二人は新婚夫婦のように、甘美で長い夜を共にした。
そこには新たな物語が、新たな愛の言葉が、新たな希望が紡ぎ出されていった。
私はハッピーエンド厨だから、二人が幸せに暮らし続ける姿を見ないと気が済まない!!