わたしたちの園
冬が終わり、ようやく冷たい風を吹かせる雲さんが、わたしたちのもとから去り、暖かくお日様の匂いを運ぶ雲さんに代わってくれたこの春。
わたしたちがお手入れしている花壇の花の香りと慎ましやかな笑い声で彩られる『白美の園』ここが、わたしたちが暮らし、学び、育む場所です。
ヒノキの香りがする小さな木造の校舎と寮。二十一人のわたしたちと先生のお家。
わたしたちが一緒にここで暮らすようになってから早数年。楽しいこと。悲しいこと。何もかもわたしたちの間には隠し事はなし。仲良く上品に決まり事を守る。いずれここを旅立つその日まで。ううん、そのあとも、わたしたちはずっと一緒。
だからある日、わたしたちのうちの一人がクスクス笑っていたので、いつものようにわたしたちはその子に訊ねたのでした。
「ねえ、何かいいことでもあったの?」
「楽しい夢を見たのね? 教えて」
「ねえ、笑ってないで答えてよー」
すると、その子は言いました。声を潜めて、でも興奮してしまったのかぴょんと飛び跳ねて、まぁはしたない。
「大きな穴を見つけたの! ゴミ捨て場の奥の奥! 外に通じる穴よ! 柵の下、木の板に土をかぶせて隠してあったの!」
それを聞いたわたしたちは「まぁ!」と声を上げました。すると、その子はすぐにしっーと指を口の前で立てました。
「内緒にして! 他の子にも先生にも! お願いお願いお願い!」
「えー駄目よそんなの。勝手に外に出たらいけないのよ。先生に言わなきゃ」
「でも、誰が掘ったのかしら。きっとその子が酷い罰を受けちゃうわ」
「そうねぇ、でもきっとわたしたちの前の代の子たちじゃないかしら」
「確かに。わたしたちの中に、穴を掘ろうなんて考える子は、あ、それかあの子? 消えちゃったっていう」
「何にせよ、よく見つけたね」
わたしたち五人とその子はどうすべきか話し合いました。悩むこともない。絶対、先生に言うべきでしたが
「でもぉー、休み時間に小川を見に行きたくない?」
彼女がそう言うと、わたしたちはうーんと唸りました。
月に一度だけ、この園から出て彼女がいう小川までピクニックに行けるのです。でも、ここの決まりを破ってまで行きたいだなんて彼女は少しわたしたちと変わっているなと、わたしたちは思いました。
でも結局、わたしたちは先生や他のわたしたちに報告はしませんでした。
わたしたちだけの秘密ね。そう約束し、次の日の休み時間にわたしたちはその穴を通り、園の外へ出ました。
「やだもう、服を汚してしまったじゃないの」
「いいじゃない、手で払えば済むわ」
「落ちないよそれじゃあ」
「大して目立たないよ。あとで濡らしたハンカチで拭けば平気」
「……ねえ、やっぱりやめない?」
「さあ、競争よ!」
青空に昇るようなその声をきっかけに、わたしたちは溢れるような緑いっぱいの草原を思いっ切り走ったのです。
「いちばーん!」
「にばーん!
「さんばん!」
「よんばーん!」
「ごばーん」
「ろく……」
春の小川、その前でわたしたちは倒れ込むようにして、子犬の毛のような短く生えそろう草の上に寝転び、笑いました。
ずりずりと這うようにして小川を覗き込むとキラキラと輝く水面の下、一、二、三と群れてゆらゆら泳ぐ小魚たちの姿が見えました。
見上げた青空に浮かぶ、ふんわりとした雲。わたしたちのように身を寄せ合うシロツメクサ。今、神様がおられる楽園はきっとこんなところだろうと、わたしたちは思いました。
「ねえ、あれ何かな?」
わたしたちのうちの一人が何かに気がつきました。それは楽園にはふさわしくないもののようにわたしたちは感じました。
「それ、カメラじゃない?」
「カメラ?」
「知らないの?」
「し、知ってるわ」
「わたしたちは知らない、ね?」
「うん。ねえ、なんで知ってるの?」
「前に先生に聞いたの。ほら、園の入り口にあるじゃない? 黒いやつ」
「ああ、あれがそうなのね」
「あ、ねえ、ここ、足跡があるよ」
「本当だ。わたしたちのより、大きいよ、ね?」
「先生のかしら?」
「でもどうして? 先生が森の中に何の用?」
「行ってみましょうよ! さあ、早く!」
わたしたちのうちの一人がそう言い、同意も待たずズンズンと森の中を進んでいくので、わたしたちは仕方なく後に続き、わたしたちは先頭を歩くその背中を見つめて、あの子はわたしたちとは少し違うね、と顔を見合わせ、やれやれと笑いました。
「……いたっ、どうしたの?」
「急に立ち止まっちゃ駄目よ」
「み、見て。あそこ……」
わたしたちが目を向けた先。大きな木。その浮き上がった根本にある穴。そこには、わたしたちが生きてきてこれまで見たこともないものがあったのです。
「これって……男の人じゃない?」
「でも、男の人は神様しかいないんでしょ?」
「じゃあ、違うの? でもそんなこと……」
「あ、こっち見たわ!」
「……うん? 何も言わないのね」
「ねえ、あなたって口がきけないの?」
わたしたちのうちの一人がそう言うと彼は少しムッとした顔をして「きけるよ」と言いました。そして、わたしたちがどうしてこんなところにいるの? と訊ねるとこう言ったのです。「逃げてきたんだ」と。
それを聞いたわたしたちは「まぁ!」と声と息を漏らしました。やっぱり聞いていた通りこのお山の向こう、外の世界は恐ろしいのね、と。
ねえ、どこから来たの?
どうしてここに来たの?
それ怪我?
動けないの?
おなかは空いているの?
と、わたしたちは彼にたくさん質問をしました。
彼は戸惑っているようでしたが、だんだんとわたしたちに慣れてきたのか、お話しできるようになりました。色んなことを、でも、それはいけないことのようにわたしたちは思いました。
「はー、楽しい! もっと聞きたいね!」
「でも、そろそろ戻らないと休み時間が終わっちゃうわ」
「じゃあ、また明日来ましょ。食べ物も残り少ないみたいだし、林檎を持ってきてあげよ」
「そうだね。他にも飲み水とか色々ね。バレない程度に」
「でも……先生に言わなくていいの?」
「内緒にしましょ。わたしたちだけの秘密ね。あの穴も彼も」
わたしたちは駆けるようにして、園へ戻りました。わたしたちだけの秘密。心臓がドキドキして、その日の夜はよく寝付けませんでした。
「はい、林檎!」
「皮を剥いてあげましょうよ。ほら、貸して」
「わたしがやる! 兎さんにしてあげるね」
「わたしもやる!」
「順番でやろっ。ね!」
「う、うん……」
翌日、彼はわたしたちが切ってあげた林檎をおいしそうに食べてくれました。
彼がお礼を言い、そしてお話をしてくれる度に、わたしたちはどこかドキドキとそれに胸を締め付けられるような、それでいてお風呂に入った後のような心地良さを感じていました。
だって、彼の声はとっても綺麗だったのです。だからきっと彼は神様がお作りになった天使だと、わたしたちはそう思いました。
だから悪いことじゃないんだ、天使を保護してあげてるだ、とわたしたちはそう思い、秘密の日々は続きました。
でも、春が終わり、夏が始まって少ししたある日。わたしたちのうちの一人の様子が変なことにわたしたちは気づき、訊ねました。
すると、その一人は抑えきれない笑みを隠すように口元に手をやり言いました。
「しちゃったの……彼と!」
「まぁ」とわたしたちは息を呑みました。彼女の赤い顔と眩い笑顔。それは彼と手を繋いだ時にわたしたちがする表情と同じでした。
ここに彼はいないのにそんな顔になるなんて一体、何をしたのだと、まさか、彼がどこか体の中にいるの? とわたしたちは思いました。
そして、始めは声を潜めていたわたしたちでしたが彼女の話が進むにつれて悲鳴のような声と顔が真っ赤になるのを抑えきれませんでした。
そして、そのせいで他のわたしたちもなになに? と話に加わり結局、わたしたち全員に彼の存在が知られてしまったのです。
全員で彼のもとに行くと、きっと先生に気づかれてしまうと考えたわたしたちは毎日数人ずつ、彼のところへ足を運ぶことになりました。
朝昼夜、とわたしたちのうちの六人でちょっとずつ食べるのを我慢して集めたご飯をほとんど毎日、彼に届けていたのですが、わたしたち全員が知ったおかげでもう、ご飯の心配はしなくてよさそうでした。
でも、わたしたちは心のどこかでこれはいけないことなんじゃないかと感じていました。なので、そう思ったわたしたちは自然と彼のもとへ行く回数が減っていきました。
――わたしたちだけの秘密ね。
その約束があるからわたしたちは先生には言いませんでした。
でも秘密というものは暴かれる運命にあるのかもしれません。
夏から秋になろうとしている、ある日のことでした。
「なんてことなの……あなたたちの中で、ほ、他にあの、あの男と、姦通……み、淫らな行いをした者はいますか……?」
先生は涙をこらえるように震えながらわたしたちにそう言いました。
先生はいつ頃からか勘づき、森の中へ入るわたしたちの後をつけていたようなのでした。
静まり返る教室にわたしたちは不思議に思いました。どうしていつまで待ってもあの子たちは白状しないのだろう、と。
なので、わたしたちは口を開きました。
「はい! わたしたちは知っています! あの子と、それにあの子。それからあの子とあの子です!」
わたしたちは知っている。決まりを破ったあの子たちはわたしたちとは違うのにどうして誰もそれを言わなかったんだろう。わたしたちは不思議に思いました。
先生は息を呑み、そしてわたしたちにこの教室から出ないように言うと『外部の方』と呼ばれる人たちと一緒に指を差された子たちを連れて教室から出て行きました。
わたしたちは水中から顔を出したようにぽつりぽつりと話し始めました。
「どうして、こんなことに」
「まずいよ、これ絶対ヤバいって」
「彼、捕まっちゃったんだって……」
「助けられないかなぁ」
「無理だよ。それよりもわたしたち、どうなっちゃうの……」
「え、わたしたちはどうもならないでしょ。悪いのはあの子たちだけだもん」
教室がまた静まり返りました。
そして、わたしたちのうちの一人がわたしたちに言いました。
「……ねえ、あなた、どうして先生に教えちゃったの?」
「どうしてって?」
「私たちだけの秘密でしょ?」
「でもあの子たちはわたしたちじゃないじゃない」
「どういうこと……?」
「だってわたしたちはみんな同じでしょ? 神様のために美しく――」
「違うよ!」
「どうしてそんな大きな声を出すの? あなたもわたしたちじゃないの?」
「違うよ……。あなただけが違うんだよ」
そう言うと、わたしたち、わたし、わたしたち以外の子が立ち上がり、わたしたちを見ていました。
「ねえ、一緒に逃げよう。ここ、おかしいもん」
「そうだよ。あの穴から、ね?」
「ねえ、早く行かなきゃ! 先生が外部の人たちと戻ってくる前に!」
「今逃げても駄目! すぐ捕まっちゃうわ!」
「あの人たちがあの子たちをここから連れて行った後に逃げればいいよ」
「でも……」
「仕方ないわ。それで、今日かそれとも警戒の薄れた夜にみんなで逃げましょう」
「でも、この子……」
「大丈夫だよね? ね? 秘密にしてくれるよね」
「わたしたち……友達だもんね?」
――ねえ、どうするの?
この年の秋の終わり。差し迫る冬を前にわたしたちは一緒に過ごした園を離れることになりました。
「……少し早い旅立ちとなってしまった上にあんなことになってしまって残念だけど、あなただけでも残ってよかったわ。それも神様がお気に入りになられていたあなたがね」
そう言うと先生は涙ぐみ、わたしたちを優しく抱きしめてくださいました。
先生は一緒に来られないんですか? わたしたち寂しいです。
そう、わたしたちが言うと先生は首を振り、わたしも他のところに行くからと、残念がりました。
わたしたちは目隠しをして車に乗るとゆらりゆらゆら。あの小川を泳ぐ魚のような気持ちになり、着くまでの間、思い出に浸りました。
――あの小川。最後にもう一度見ておけば良かったね。
――またいつか来ればいいよ。
――そうね、先生になったらいいんじゃない?
――それ、すっごく素敵なアイディア! サイコーね!
――もう、品のない言葉遣いは駄目よ。これから神様に会うんだからね。
車を降りた先、入った建物の中を手を引かれ歩き、ここで待つようにと言われた部屋でわたしたちはようやく目隠しを外すことを許されました。
――狭い部屋ね。
――しっ、駄目よそんな事言っちゃ。
――ヒノキの香りがしないねぇ。
――きっとここは控室よ。神様に会う前に心を落ち着けないとね。
――あ、ほら、誰か来たわ。神様にお仕えの人よ。行儀よくしましょ!
「飲みなさい」
神様にお仕えの方に、ありがたいお薬を飲むように言われたわたしたちは、それをぐっと飲み干すと体がポカポカしてきました。
「着替えなさい」
わたしたちは言われた通り、手渡された着物一枚になりました。ポカポカするのは寒くないようにするためだとわたしたちは思いました。
「来なさい」
お仕えの方に案内された先。荘厳な扉の前に立ったわたしたちはそこがどこだか言われずともわかりました。
「神様の部屋よ。くれぐれも失礼のないようにね」
お連れしました。そう言い、お仕えの方が扉を開け、わたしたちは促されるままお部屋の中に入りました。
「おお、よく××な。もっと近××来な×い」
……わたしたちはどうしてだか言葉をうまく聴き取れずにいました。でも、神様が手招きしてくださったのでそれに従い、近づきました。
「白美の×からか。あ×こは期待し×たん××なぁ。まっ×く忌々しい出来事だ。
×に捧げるはずだった処女をみす×す手放すな×てまったく愚か×。
全員、臓器×××××××。残っ×お前は賢いぞぉ。たっ×り奉仕×××だ。
ふふふふ、華奢な体だ××。ふふふ、腹は減ってな×か? あの林檎を食×か? ん? 食わない? でも×が食う×だ。さっさと剥け」
どうやら神様は林檎をご所望だったようなので、わたしたちはたくさんの果物が置いてあるテーブルに行き、そこにあったナイフとリンゴを手に取って皮を剥き始めました。
どうぞ。神様。
わたしたちがそう言うと神様はわたしたちが切り分け、お皿に載せた林檎をムシャムシャと食べました。
「×はいらん」
――まぁ、せっかくウサギさんにしたのに、神様ったら取っちゃったわ。
――お嫌いだったのよ。仕方ないわ。
――でもありがとうもないのは変よ。神様は全然優しくないのね。
――そんなことを言っては駄目。
――でも彼は言ってくれたわ。それに綺麗な声だし
「さあて、もっ×近くに来い。何を呆け××んだ。お前、知恵×れか? はははははっ! じゃ×ラッキー×な。
そのお陰で生き残れ×××から。さあ、もう我慢でき××だろ?
薬が×××いるか×な。さ×、とくと見×。生ま××初××見×男×肉×××××」
着物を脱ぎ捨てた神様のそのお身体を目にしたわたしたちは倒木に生え、ぐじゅぐじゅに腐ったキノコを目にした時のような不快感を抱きました。そして頭の中は悲鳴が悲鳴悲鳴。
神様はお布団の上にわたしたちを押し倒し、嫌なにおいがして繁殖力が強い雑草。森の泥濘。痛んだ食材。カビ。ゴキブリ。いつか見た悪夢。木の棘。蜂。痛い痛い。
でもふと、わたしたちの頭の中にある映像が浮かび上がりました。それは春の匂いを運ぶ風のように自然と安らぎ与えてくれる。いつか見た夢の中の彼でした。
チチチチと鳴く小鳥。木々の間から差し込む陽射し。揺れる木の葉の陰。横たわる彼。わたしは彼の泥で汚れた体を彼が目を覚まさないようにそっと拭く。
服を脱がし、いつ目を覚ますかなってドキドキしながら起きるまではいいよね、ここも拭いていいよね、と手を動かす。
でも、起きてくれたらいいのに。わたしがそう思った瞬間に彼がそっとわたしの手に触れる。びっくりして体が硬直してしまったわたしに彼が囁く。ずっと起きてたよって。
それで悪戯っぽい笑みを浮かべ、わたしの手をぎゅっと握る。いつか現実で一度だけ握ってくれたあの感触が蘇り、わたしはそこで目を覚ましてしまう。わたしは彼のぬくもりを探すように手を頬に持ってきて、それから下へ下へと、わたしは自分で自分を慰めて――肉が揺れる揺れるわたしの上でわたしはわたしたちはどこへわたしはわたしはわたしたちの――
わたしの股の間から血と混じり合ったドロッとした汁が垂れた。
わたしの手から血がポタポタ垂れた。
わたしの手から落ちたナイフは床で音を立てた。
わたしはあれが脱ぎ捨てた着物でそれを拭った。
わたしは、わたしたちではなくなった。
わたしは間違っていた。だから行こう。他の施設へ。
わたしたちを迎えに。
わたしは扉を開けた。