屋上の声
数日後。
心奏は病院の屋上にいた。
かつて碧偉が座っていた柵に身体を預け、心奏は果てしなく続く青空を見つめていた。
心奏の水色の髪が青空に溶けるように風に吹かれている。
ガチャという音と共に屋上に誰かが入って来ると、トントンと歩き心奏の隣で音が止まった。
「どうかしたんですか?医者」
心奏の隣には背中を柵に預け、空を仰ぐようにして上を見上げる夏目の姿があった。
夏目は丸眼鏡の奥で目を瞑り風の音を聞いていたが、ゆっくりと目を開き、心奏の方に顔を向けた。
「きみはまだぼくを医者と呼ぶんですねぇ。ある意味ぼくはスパイなのに」
夏目がニコッと笑いながら、首を解すように手を当てる。
「スパイだろうと何だろうと、僕を救おうとしてくれた事には変わりないし、僕の担当医になる程の実力を兼ね備えてる。医者と呼ぶ理由はこれだけで十分でしょう?」
心奏が空を見つめたままそう言うと、夏目は少し目を見開きハハッと笑った。
「志賀くんがきみに敵わない理由が分かった気がします」
夏目が目を細めると、また空を見上げた。
「ぼくがここに来たときにはもう彼はいませんでしたが、今のきみは志賀くんから聞いていた彼にそっくりですよ」
その言葉に心奏は驚き、バっと夏目の方を向いた。
しかし、夏目は何事もなかったかのように空を仰いでいる。
「幼少期に見たものに影響を受ける。そういう事はよくありますからね」
夏目の目はどこか遠くを見つめており、心奏は哀しげに顔を歪ませると俯いた。
そして目を瞑ると、瞼の裏に浮かぶ碧偉の笑顔。
目を開け、また顔を歪ませる。
「僕は碧偉の分も生きられるでしょうか?」
「生きられますよ。ぼくも協力します」
夏目が当たり前のようにそう答えると、ニコッと微笑みを浮かべ心奏の方を向いた。
「じゃあ、ぼくは仕事があるので失礼しますねぇ」
いつもの調子に戻った夏目が丸眼鏡の位置を調整しながら、小走りで屋上の扉の方へ向かっていった。
『おまえだけは生きろよ?』
夏目を見送っていた心奏の耳にふと声が聞こえた。
心奏は目を見開き、急いで声のした方を振り向く。
だが、そこにはただの青空だけが広がっていた。
心奏は悲嘆したように苦い顔をし、顔を背けた。
碧偉はここに居るはずがない。
『やくそく、守れなくてごめん…』
だが、紛れもなく聴こえた声に心奏は顔を上げる。
そこには哀しそうに笑い、柵に胡座をかいて座る碧偉の姿が見えた。
碧偉はあの頃の姿のまま、成長した心奏を見つめている。
白銀の髪をなびかせ猩々緋色の瞳を細めた、あの笑顔で。
あの頃と違うのは、夕日ではなく朝日に照らされていることだった。
青空に溶け入りそうな白銀の髪が日光に照らされ、キラキラと星のように輝く。
『 』
弧を描いた口がまた何か言葉を紡いだ。
「碧偉……」
心奏がそう言って瞬きをした瞬間、碧偉の姿は空に溶けたように見えなくなっていた。
最後に会いに来たのだろうか?
励ましに来てくれたのだろうか?
そんな想いが心奏の頭に過ぎったが、それを考える間もなく心奏の視界が涙で滲んだ。
心奏はその場に座り込むと、顔を腕で隠し声を殺して泣いた。
なぜか泣いている事を知られてはいけない気がした。
心奏の涙は果てしなく続く青空に溶けるように、透明な美しい涙だった。




