いつかの雑音
「クソッ、やっぱ雑音にしか聴こえねぇ。どうなってんだ、オレの耳は……」
昼間にも関わらず薄暗い自室で羽音はイヤホンから聞こえる音に耳を傾けていた。
「これモーツァルトの交響曲だぞ。しかも有名な」
羽音はため息をつくと、イヤホンを耳から外し机に突っ伏した。
外の太陽はまだ高い位置に見える。
「オレだけがこんなんじゃ……」
そう羽音が呟いた時、部屋の扉がノックされた。
羽音が「入れよ」と言うと、扉が開き少女が入って来た。
少女の手には古いヴァイオリンが握られている。
「おう、早かったな。ありがとな、姉貴」
羽音が姉貴と呼んだ少女、茜音が羽音にヴァイオリンを渡す。
「早かったな、じゃないわよ。急にヴァイオリン貸してって言われてビックリしたんだけど何するつもりなの?」
茜音は不機嫌な顔で羽音に尋ねる。
そんな茜音の様子を他所に、羽音はヴァイオリンをなめ回すように見つめた。
「次の演劇で使うんだよ。久しぶりだから弾けるか分かんねぇって言ってんだけどな」
羽音がヴァイオリンの弦を構えながら茜音に向かって言う。
弦がヴァイオリンに当たるとキィと軽く音が出た。
「おっ、いけそうだな。姉貴、ヴァイオリンの楽譜も貸してくんね?」
羽音が嬉しそうに表情をパッと華やかにし、茜音に言うと「別にいいけど」と言って部屋から出ていく。
そして戻って来ると「はい」と分厚い楽譜集を羽音に手渡そうとするが、羽音が手で制止した。
「姉貴、こん中から次の演劇に合いそうな楽曲選んでくれねぇか?」
楽譜集を指差しながらそう言うと、羽音が数日前に三人で話した演劇の内容を茜音に伝えた。
茜音はその羽音の話を面倒そうに、だが真剣に聞いている。
「へぇ。暗めの曲、ね。ってかなんでアタシに選んで欲しいのよ」
羽音が話し終えた時、茜音が面倒そうに羽音の方を見た。
「オレの周りには姉貴しかこういうの得意な奴居ねぇんだよ。親父に聞くわけにもいかねぇしな」
羽音の言葉に、茜音が人差し指を立てる。
「つまり、こういう事?羽音の周りにはクラシックに詳しい人がいなくて、アタシが最適って」
羽音は首を縦に振って「まぁ、そういうことだ」と答えた。
「はぁ、あんたね。まぁ、分かったわ。そういう曲だけピックアップしてあげるから、ちょっと待って。この楽譜集だけでも大量の曲あるんだから」
茜音は楽譜集を抱えると部屋を出ていった。
「おう、頼むわ」
羽音のその言葉が聞こえたのか、聞こえていないのか茜音は手を扉の隙間からひらつかせて扉を閉めた。
羽音はその様子を見送った後、自身の部屋にある本棚から1冊の本を抜き取った。
その本をペラペラとめくると、パタンと閉じ本棚に戻した。
また同じように本を抜き、戻すという行動を何度か繰り返し、ある本を開いた時に眉がピクッと動いた。
「いのちの声……か…」
羽音が見つめる先にはいのちの声という題名と共に、詩がつらつらと書き連ねられていた。
「これ母さんに貰ったんだっけ。懐かしいな」
その本には中原中也全集と書かれており、他の詩には目もくれず、その詩を羽音はずっと見つめている。
「あの日、あの日もこいつが頭に浮かんだんだよな」
羽音のその声はチュンチュンという鳥のさえずりと共に消えたのだった。




