5日目 8 待ちぼうけのヒナと走ってきたアイツ
一般市民のモーブさん(四十五歳、道具屋の販売員、妻子持ち、薄毛が悩み)は浮かれていた。
娘の新しい仕事が決まり、今日はこっそりその職場である喫茶に覗きに行くためだ。
嬉しさと楽しみのあまり足取りが宙に浮きそうなくらい軽い。
実際ほとんど爪先で歩いており、何もないところで素っ転んだりするのも朝飯前である。
陽気に釣られ鼻歌まで出ていると背後から「危ないぞー!」「よけろー!」と声が聞こえた。振り返った直後、耳を塞ぎたくなるほどの騒音に警告の声もかき消され荷車を引いた人が人とは思えない速度で走り抜ける。
ほどよく中年太りのモーブさんが反応できるはずはなく避けそこなった体は風船が弾かれる如く荷車に容易く跳ね飛ばされた。
「あいたぁ!」
「お、おい! 大丈夫か!?」
そばにいた人が介抱してくれる。むさいおっさんなのが残念だがこればっかりは選べない。
幸い腰を打ち付けただけで済んだようだ。悪運の強い男である。
「な、何なんだ……」
「すごい速度だったな……ありゃ人間じゃねえ……」
男に抱かれたままモーブさんは走り去った方向を呆然と見るしかなかった。
そのやや薄い紫の癖がかった頭髪を一迅の風が撫でていった。
◇
宿場街の大通りに隣接する広場。
収穫祭に向け建てられた数えきれないほどの露店が通りに沿ってずらりと軒を連ね、入りきらなかったところが広場にまで入り込んでいる。
五日前なのにすでに当日のような賑わい。
そんな喧騒を背に受けながらあたしの心は賑わいと正反対に沈み切っていた。
アサギが、来ない……。
どうしたんだろ……。
考えたくないけど、デートすっぽかされちゃったのかな……。
支度に時間かけすぎた?
こんなにおめかししても見てさえもらえないなんて。
やっぱりあたしは……。
考えただけで涙が出てくる。ダメ、泣いちゃダメ……。
まだそう決まったわけじゃないんだから。
けれど後ろ向きな想像ばかりしちゃう。
「あー! ヒナおねーたん!」
聞き覚えのある声がした。
かなり顔を合わせたくない相手だった。
「エクリュちゃん……あ、ベージュさん……さっきはありがとうございます……」
今日のあたしの身支度を手伝ってくれたアサギも懇意にしている薬草店のベージュさんと、その娘のエクリュちゃん。こんな言い方したくないけどあたしの好敵手なわけよね……。
「あらヒナちゃん、今待ち合わせ? 少し前にアサギ君を向こうの露店で見かけたわ。もう来ててもいい頃なのにね」
「アサギ、見かけたんですか……」
「いたよー! おかいものしてるところだった! かっこいいおようふくだった! えくるも、こんどおにーたんとでーとしてもらうのー! ゆびきりしたよー!」
「え……」
知りたかったような、知りたくなかったような目撃情報。
それ以上に、お子様相手とは言えあたしとまだデートしていないのに次の約束を漕ぎ着けていることが衝撃だった。
「だからねー! そのときねー! おねーたんもいっしょにいこー! でーとしよー!」
「あらあら」
「はは……そうね、みんなでデートしようね……」
取り乱すまいと必死に平静を装うが乾いた笑い声しかなかった。この子は悪くない。
「おねーたん泣いてるのー? だいじょうぶー? どこかいたいのー?」
「ううん、平気よ。エクリュちゃんに元気もらったから、痛いの飛んでっちゃった。ありがとう。デートしようね、楽しみだね。どこ行きたいか考えておいてね」
「うんっ!」
「さ、エクリュ。お店開けなくちゃ。ヒナちゃん。いつも可愛いけど今日は格別可愛いから大丈夫よ。自信もって。ちゃあんと彼を射止めるのよ♪」
「ばいばーい!」
最後にウインクを飛ばし、幼い娘さんの手を引いき経営する薬草店に向けて歩いていく後姿をあたしは見えなくなるまで見送る。親子揃って何か察してたのかなぁ。
あたしなんかより、子持ちでもベージュさんみたいな可愛らしくて家庭的で落ち着いた雰囲気の人がいいのかな。
メイク手伝ってくれたけど、知れば知るほどステキな人で私もちょっとドキドキしちゃったもの。笑顔可愛いし、褒め上手だし、さり気なく触れあいあるし……。
いいにおいするし胸もあるし髪サラサラだし……。
あたしみたいに騒いだり殴ったり蹴ったりしないもんなぁ。
ガサツで泥だらけでぺったんこでちょっとお風呂入らないくらいどーってことない女は魅力ないのよねきっと……。
ああやって気遣いもできるんじゃ勝ち目ないよね……。
そうやって比べているとみるみる視界が滲む。
滴が零れ落ちないように我慢するけど頬を伝ったらせっかくのお化粧が落ちるかもしれないから俯いて直接地面に落ちるようにする。
まだ泣くまいと手持ち鞄の持ち手を握る両の手に力が入る。
ふと、妙な気配を感じる。街中で感じてはならないタイプの……魔物!? 慌てて掌で涙を拭う。
住民の悲鳴を浴びながら現れたのはねじり鉢巻きに法被姿の怪しい男。何故か荷車を牽いている。
遠目でよく見えないけど、なんだか顔の体の半分、色がおかしい。
大通りを堂々と爆走してきたであろうそれはあたしがいる広場に出ると、こちらに向かってくる。
滲んだ視界に入る違和感。シルエットだけ見れば人型だけど、平和な街並みに似合わない異形。
なんなの……? あたしに喧嘩売る気……? や、やってやろうじゃないの……
砂埃を立てつつ荷車を引きながら向かってきて、目の前で停止する……と思いきや止まり切れず十歩ぶん過ぎ去って止まり、そのまま後ろ向きにひたひたと足音を立て戻ってくる。
「ひなサマデスネ? ゴ主人サマヨリ案内ヲ仰セツカリマシタ血沸肉男人形ト申シマス」
人形の名の如く無表情で恭しく礼をするが、見た目がひどくてそれどころじゃない。体の縦半分は皮膚が無く筋肉や臓器がむき出しって、なんなの不気味!
「ち、血沸肉男!? だ、誰よ主人って!」
「あやめサマデス」
「アヤメの魔法生物っ!? なんでこんなところに……」
「デスカラ、オ迎エニ上ガリマシタ!」
「迎えって……?」
「急ギマスノデオ乗ノリクダサイ」
あたしの戸惑いをよそに淡々と話したかと思うと子供にする高い高いの要領で脇を抱えられ荷車に乗せられる。
やだ、力持ちじゃない……、と一瞬の出来事に心臓の鼓動が早まってしまう。
「デハ、一気ニ走リマスノデシッカリ掴マッテイテクダサイ」
「ちょ、どこへ行くっていう……のっ!?」
「危ナイデス、舌ヲ噛ミマスカラオ静カニナサ……ぶべらぁっ!?」
「(自分が舌嚙んでんじゃないのよっ!? なんか千切れて飛んでったように見えたけど大丈夫なのかしらっ!?)」
大嵐の日みたいにあたしのスカートをはためかせながら血沸肉男と名乗った気味の悪い男はとんでもない早さで街を駆け抜けてゆく。人がたくさん行き交っているのに大事故にならないのが不思議。
獣が駆けるより速く走るのに器用に曲がり角を曲がる。
数えきれないほど曲がり、どこをどう来たか方向感覚を全く失ってしまった頃に不意に血沸肉男は立ち止まった。
「ココデス」