2日目 22 ヒナとアサギ④ 妊婦のニンフと子の父親
「誰……?」「誰……?」「誰……?」「誰……?」「誰……?」
「知らない……」「知らない……」「知らない……」「知らない……」「知らない……」
風の囁きか、小川のせせらぎか。
人の声のようでそうでない、自然の慣らす調べに限りなく近い音に意識が呼び戻される。
「もしもし……」「もしもし……」「もしもし……」「もしもし……」「もしもし……」
「起きて……」「起きて……」「起きて……」「起きて……」「起きて……」
ゆっくりと瞼を開ける。
ひんやり心地よい風と、それに揺られた野草の葉が頬を撫でているであろう感触がくすぐったい。
「起きたわ……」「起きたわ……」「起きたわ……」「起きたわ……」「起きたわ……」
繰り返し鳴り響く音は、木霊か山彦か。
ぼんやりした頭のまま、音の主を認めるべく、俺は右手を地面について、ゆっくり体を起こす。
まだ頭がはっきりしない。
空いている左手で目元からおでこを一度覆い、拭う。
ヒナは……? 詩人は……?
「私は妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」
「え?」
全然気づかなかったが、俺が今いるすぐ先、歩幅三歩にも満たない川の淵に人が立っていた。
「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」
「?」
何か言っているが、よく意味が分からない。
視線をずらすと、同じ背格好の人が……ひぃ、ふぅ、みぃ、……全部で五人。
薄い布を纏った、細身で髪の長い女性だ。
「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」「妊婦のニンフ……」
ニンフって、確か……精霊か……。
敵意は感じられないが、友好的とも限らない。
精霊は人を誘惑したり、悪戯好きも多いという。
刺激するとどうなるか分からない、と反応できず戸惑っていると、一番近くにいた一人が近づいてきた。
まだ立ち上がるに至らず、片膝立てて上半身を起こした姿勢の俺の傍までやってきて、腰をかがめ不満そうな顔を近づけ、口を大きく開けて言う。
「妊 婦 の ニ ン フ !」
えーと?
「だ~か~ら~! 妊婦のニンフだって言ってるでしょ!」
神秘的な雰囲気を出していたのが、えらく俗っぽい喋りになる。
木霊も消えた。
かがんだ姿勢でいたものだから、緩い服の胸元が見えてしまい慌てて顔を背ける!
「えっと……、だから何? というか……」
明後日を向いたまま、困惑しながら思ったことをそのまま伝える。
「ひどい! これはニンゲンたちの間でジョークとして通じるものだって聞いたから、毎日百回言い方を練習してきたのよ!!」
ようやく背筋を伸ばしてくれたので、俺も顔を戻せた。顔はまだ熱い。
「そ、そうですか……おつかれさまです。あの、ここに、他に二人いませんでしたか?」
その気迫に思わず敬語になってしまう。
「妊婦のニンフって言ったら、『誰の子?』って聞くでしょフツー!」
「そ、そうなの……?」
下手に出たのに機嫌をさらに損ねてしまったらしい。
「誰の子か気にするのがニンゲンなんでしょ! 信じらんなーい‼」
な、なんか知識が偏ってるような……。
「ソレ、聞いたらどうなるんですか?」
そのまま聞いてはいけないような気がして、質問をしてみる。
やっぱりちょっと怖いので敬語になってしまう。
「フフーン、よくぞ聞いたわね! ニンゲンのくせにやるじゃない!」
はぁ。そりゃどーも。
「そういわれたらね……」
ニンフは俺に顔を寄せ、耳元でそっと囁いた
「ア・ナ・タ・の・子」
そしてウィンク。
「違うだろ!」
「あら、こうするとニンゲンは喜んでトリコになるって、聞いたのにナー」
「んなワケあるかっ!」
どっちかっつーと、お腹に子が出来る前の行為のほうが虜に……って何考えてんだ俺は!?
「つーか、他の二人は!?」
「あそこで寝てる人たち?」
木に寄り掛かるヒナと詩人。
それぞれにまとわりつくように、ニンフがいた。
「なっ! なにしやがる! 解放しやがれ!」
「ダーメ。アナタがワタシのダーリンになってくれたら考えるわ」
「なにをっ!」
「なってくれないならー、さっきの蟻達の餌になってもらうんだけどねー。プ プ プ」
夢遊病のように虚ろな目で上体を起こしニンフと見つめ合う二人。
「ヒナ! 詩人!」
声は届かない。
女性の姿してるからつい甘くなっちまったぜ! やっぱ魔物じゃねーか!
何か、何か手段はっ!
腰にナイフがあったと思い出し後ずさって距離を取り、身構える。
「なーに、アブナいことする気ー?」
ニンフは口元に開いた手の平を顔の下まで持っていき、人差し指と中指の指先を艶めかしい唇に当てて嗤う。
瞼を下げ、切れ長の目元が半分になり、剃刀の輝きを放つ。
「フーン……いっけないんだ~~」
ニンフの背に流れる小川から一抱えはある太さの水柱が立つ。
清流が鉄砲水となって、俺に激突する……!
「ガハッ⁉」
首から上だけ水に飲まれ息ができない!
苦し紛れに握っていたナイフを振っても液体を切れるはずも無く、子どもの水浴びくらいの冗談みたいな水しぶきしか上がらない。
ウソだろ……こんなところで……!
藻掻いても顔を覆う水の流れは弄んでくるばかり。
意識が遠くなりかける。だめだ、このままじゃ、二人が……!
「からかうのもそのくらいにしておけ」
水の中なのに、ニンフのものとはまた違う音が響いた。
「ハ~~イ」
詰まらなさそうに答えるニンフの声もまた、頭に直接響き……途端に顔を覆っていた水が弾けた!