2日目 18 ジーナとアヤメ⑦ 交渉と度胸《後》
「勝手なお願いなんだけど……、この大兎を逃がしてもらえないかな……」
「は?? 何言ってんの??」
「だって……あれ……」
コイズ君は躊躇いがちに言いました。
傷を癒し魔力が回復したことで身動きできるようになったのか、突拍子もないお願いに上半身を起こしてケンカ腰に返事をするアヤちゃん。
少年が指をさした方向、小ウサギたちが草むらの中に点在する岩の陰から様子を窺っています。
「かわいそうじゃん。こいつがいなくなったらウサギたちみんな悲しいよ。もうすぐ冬がくるのに……」
自分たちのボスが倒されてしまった。
弱肉強食の野生の世界、負けたものに死が与えられるのは当然のこと……。
私たちにとっては、倒すべき相手。
倒さなければ、こちらがやられていた。
でも、彼らにとっては大切な存在……ですわね。
「これだからニンゲンってやつは……」
大袈裟にため息をつくアヤちゃん。
「言ってることは分かる。でも、ここで逃がしても、違う誰かは狩りに来る。それは間違いなくて、肉食を禁止しない限り止められない。そうなったらこの巨大兎はまた戦い、傷を負わされ苦しませることにもなる。だったら気を失っている今のうちに、一思いに殺ってしまうほうがこの兎にとって幸せなんじゃないの? ここで助けても、そんなのは偽善。独りよがりなだけだろ……」
容赦ない言葉を子供相手に投げつけます。
でも、そうだとしても……。
そんな世界の厳しさを、まだ十歳の少年に今ここで伝える必要があるのでしょうか。
コイズ君は俯き、拳を握り締めています。
アヤちゃんは言い放った後もそのまま、じっと彼を見つめたまま返事を待っています。
「でも、さ……」
しばらく待った後、ぽつりと話し始めました。
「いつか誰かが狩りに来る、その全てから守ることはできないの、わかる。でも……、今目の前で苦し……ん……でたり……救え、そうな子た……ちを救うの……っていけな、いこと……!?」
目に涙を浮かべ、言葉につまりながらも必死に訴えています。
どちらがいいとか悪いとかではなく、信念の問題です。
無言でじっと見つめ合う二人――。
「あー!! もう!! わかったわかった!! 逃がせばいいんでしょ!!」
長い沈黙の後、先に目を逸らし声を上げたのは、アヤちゃんでした。
「え……」
「ほんと!?」
予想外の言葉に私も絶句しました。
「せっかく命がけで倒したのに……。これなら報酬間違いないだけじゃなくて、高額のボーナスの期待もできるのになー。勝手なことを言うやつだなー。じゃあ……その願いを聞いてやるから、こっちの願いを聞けよ」
口調が強く、声色も低く、静かに少年に問いかけます。
「う……、わ、わかったよ……なんだよ願いって」
「言ったな。……オマエの生気を吸わせろ」
いつもと違う、どすの利いた声にビクッと震える。
「アヤちゃん……?」
「おねーちゃんは口出ししないで。これはボクとこいつの問題。首に嚙みついて血を吸ってやるから。ほら、早くしろよ。勝手なこと言ってんだから落とし前つけるんだよ」
恐る恐る頭を傾け、噛みつきやすいようにするコイズ君。
震えています……。
「怖いだろ。我慢してないで泣けよ、叫べよ。おかーさんって情けない声上げろよ。悪魔は自分に都合のいい勝手なことばかり言う、そんな情けない人間の姿が大好物なんだよ」
立ちあがり、ゆっくり近寄りながら言葉を続けるアヤちゃん。
戸惑いながらも観念したのか、服を引っ張り首筋を晒しながら目を閉じ、唇を固く結んでいるコイズ君。
私は見守ることしかできません。
でも、もしコイズ君に危害が加えられたら、アヤちゃんであっても容赦できないかもしれません……。
もしもの時のために、鎚鉾を両手で握り、法力を練ります。
「強情な奴だな。言っとくけど、かなり痛いからな? 痛さでショック死したり、気絶したり、しょんべんちびったりするからな?」
アヤちゃんが口を大きく開けると、口の中の牙がきらりと光ります。
犬歯に糸を引く唾液がまた妖艶。
さっきまで舐めていた丸薬は呑み込んだのか、口の中からは消えていました。
アヤちゃんは少年の両肩を掴み動かれないようにし、勢いよく――。
肩を掴んでいた手を背中に回し、抱きしめていました。
「ちぇ。びびって逃げると思ったのになー。ボクの負け。……コイズ、度胸あるね」
少し涙声になりながら小さく呟くアヤちゃん。
緊張の糸が切れてコイズ君は泣き出しました。
「あ、あり、ありっ、がっ、とう、アクっ、マ……」
しゃくりながら必死に言葉を振り絞って伝えるコイズ君の姿に、私まで涙が出てきました。
でも、せっかくなら、と私は敢えて口を挟みます。
「こー君、悪魔じゃないって言ったでしょ~? アヤちゃんがせっかく名前で呼んでくれたのですから、コイズ君も、ね?」
「う、うん……。あ、ありがとう、アヤメ……さん」
「なんだよー!? 急に『さん』だなんて堅苦しい! 似合わない! 気持ち悪い! 鳥肌立つ! アヤメでいいから!!」
磁石が裏返ったように、抱きしめていたのを突然引きはがしました。
心なしか顔が赤いようにも見えます。
照れてるのでしょうか。
「おねーちゃん、勝手に決めちゃったけど……いい?」
「いいもなにも……」
「ま、そうか……。ありがと!」
「おーい!! 大丈夫かー!?」
遠くからの声。
聞こえたほうを振り向くとヒナさん、アサギさん、詩人さんの三人でした。
追いつかれるほど時間が経っているたようで、気が付けば日が傾き風が冷たくなってきています。
ぼんやりしていてはあっという間に日が暮れてしまいます。
「さーて、ちいねーちゃんになんて言い訳しようかな」
「そ~ね~」
彼らが辿り着くまでの間、三人でお互いの顔を見合って笑っていました。