2日目 2 夜中の散歩とおもらし《後》
◇
アヤメが野ウサギと木漏れ日亭から飛び立った同刻。
「おしっこ……」
宿場町に住む一人の少年が、尿意を催し目を覚ました。
未だおねしょが治りきっておらず、夜中に目を覚ました際には必ずトイレに行くようにしているが、夜が冷えるようになってきたし、暗がりが怖いのでトイレまで行くのが億劫だ。
(トイレまで行くから寒いし怖いんだ。窓からおしっこしたらいいじゃないか!)
いたずら盛りよろしく妙案を思いつき、すぐ実行に移す。
ベッドのすぐ横が窓のため足場を用意する必要はなく、窓枠に立つのは簡単。
もっとも窓際の配置のせいで冷えやすく、尿意を催しやすい可能性は否定できない。
窓を開けて立ち、寝巻のズボンを下す。
青白い月の光が少年を照らす。
氷の女王に吐息をかけられたような冷気が、幼く細い下半身にまとわりつく。
「ううっ! 寒いなぁ」
悪いことをしている背徳感。
見つかったらやばいという不安。
感情ごちゃまぜでいよいよ放尿となったとき。
あれ!
視界の上端で何かが見えた。
よく目を凝らすと、月を背景に人らしきものが飛んでいる。
三ヵ月前に見たのと似てる。
あの時は女の子みたいな何かだったような。
誰に話しても夢だろうって相手にしてくれなかったけど。
あの時よりはっきり見えてる感じがする。
街の中心部に向かって飛んでいくみたい。
よし、あとつけてやる!
そう思うと用を足すのも忘れてズボンを上げ、上着を羽織り、緊急用に備えている靴を引っ張り出し窓枠を越えて庭に立つ。
「オバケかもしれないけど……、正体を突き止めてやるんだ」
恐怖心と好奇心に揺れながら、少年は少女が飛んでいった方向に向かって走っていく。
◇
ん、あれは……。
「なー、ねーちゃんよー。いいじゃねーか。せっかくのおまつりなんだぜ? 一晩くらい付き合えよ。楽しませてやるぜぇ?」
「やめてくださいっ! そんな気はありません!」
いかにもやさぐれている、冒険者の端くれかごろつきの下っ端のようなひょろっちい男が、紫色の長髪をしたかわいい女の子の手を掴んでいる。
あいつ背は高いけどアサギおにーちゃんより細い体つき。
だいぶ弱そうだなー。
「固いこと言うなよー。声を上げたって誰も助けなんてしないぜー? オー、やわらけー乳してんじゃん。見た目より大きいじゃねーか」
「やっ……! 離してっ! 触らないで!!」
男は掴んだ女の子の腕をぐっと引き寄せ、もう片方の手で胸を触る。
鼻息が荒くなってるぞ。
わるいやつだなー。
ふふん、脅かしてやろっと。
二階建ての建物の屋根より高く飛んでいたのを一階部分くらいまで降りる。姿は隠したまま女の子の背後、男の正面へ。
「オイ、貴様。何をしている」
出来るだけ低い声で、できるだけ静かに言う。
「あ?」
男が斜め上、ボクのほうを見る。
「ひ、ひぃぃぃぃいぃ!!」
中央に巨大な一つ目を持ち、その周りに屈強な戦士の腕ほどの太さの触手を十本うねらせた異形。
男にはそんな幻が見えるように仕向けた。
男は顔面をこれでもかというほど歪めて青ざめ、開いた口で歯をカタカタ鳴らす。
あは、いい顔だ。
「ずいぶんと威勢がいいな。せっかくの祭りだ、我が一緒に遊んでやろうか? ククク……」
「やめろ! 寄るな! 寄るなぁ!!」
ボクは触手を数本伸ばし、男の顔の前まで近づけうねうねさせる。ような幻を見せる。
すっかりビビり、女の子を掴んでいた手を離し、叫びながら触手を払いのけようと腕を振ってるけど、幻相手に無駄なこと。
更に近づき、触手で頬を撫でていくように見せる。
何も見えない女の子は、狂ったように取り乱す男に唖然とするばかり。
「あ……」
触手で顔を撫でまわしたように見せると、男は恐怖のあまり気絶し、ガタ、と膝をつく。
「ひっ……」
倒れた男を見て、小さく悲鳴を上げる女の子。
男の足の間からは液体が湯気を立てながらじわじわ出てきている。
あははは、おしっこ漏らしてやんの。
女の子には何も見えなく、ボクの声だけが聞こえて「???」となっていたが、男が倒れたのを見て次は自分の番かと思ったのか、無言で駆け出して行っちゃった。
ま、いっか。
せっかくだからこいつの生気吸っちゃおう。
地面に降り立つと倒れた男に手をかざし、“食事”を始める。ほのかな光を手の平から発し、男を包み込む。
「おい、なにやってんだ?」
まだ幼いソプラノの声が後ろからする。
びくっ! と体が跳ねる。
生気を吸うことに集中していたために、近づく気配に全く気付かなかった。
ま、まさか……。
振り返ると、十歳にも満たないくらいの男の子が立っている。
はっきりとボクが見えているようだ。
「オマエ、なにものだ! その人に何をした!」
人差し指をびしっと差して言い放つ少年。
あれ……?
あれれ?
なんでみられてんだろ⁇
あ、そうか。
生気を吸ってる間は隠れ蓑が解けちゃうんだ。
どーしよっかなー。
「……オバケだぞぉ!!」
と、さっき男に見せたのと同じ異形の幻術を見せる。
が。
「は??」
気絶しない。
真顔で少年が返す。
なんだよ、ボクがバカみたいじゃんか!
「オマエ……! やっぱりそうだな! 前に空飛んでたヤツだな! 今度こそ捕まえて見世物にしてやる!」
あー、あのときの……。
なんてのんきにってる場合じゃない。
それに幻視効かないし、意味わかんない。
何てこと言い出すんだよ少年! また君なのか! なんで子供がこんな時間に起きてるんだよ!
などと突っ込む前にどうするか考える。
あ、そうだ!!
ボクはわざと、憎たらしい挑発的な笑みを浮かべる。
「ねぇ、キミ……。そんなこと言ってもいいのかな? ボク知ってるんだよ。キミがおねしょで、よくお布団にウサギを描いてること……」
「えっ!!」
「ボクを突き出すなんてことしていいのかなー? 大勢の大人の前でこのヒミツ言いふらしちゃおっかなー?」
「ひ、卑怯だぞ!」
強気だった少年の額に汗が滲み怯む。
よしよし、いい調子だ。
「卑怯だよー? だって、ボクは悪魔だもん♪」
ボクの鼻と少年の鼻が触れるくらいにずいっと顔を近づけ、瞳と瞳を合わせ囁く。
「ばらされたくなかったら、ボクのことを誰にも言わないこと! い・い・ね?」
「ち、ちくしょう!」
後ずさり、悔しそうな顔をする少年。
少しほっぺを赤くしちゃって。照れたのかなー?
さ、面倒だから夢だってことにしておこう。
催眠をかけると、少年の目がトロンとなり、そのまま上下の瞼がくっつく。
よかった、こっちは効いた。
眠りにつき倒れそうになる小さな体を、両手で受け止める。
「お休みー♪」
あーびっくりした。なんとかなった。
さ、騒ぎになるといけないから、少年の家のベッドまで届けよう。
少年をおんぶで担いで隠れ蓑を施し飛ぶ。
前に見られたのはこの辺り……あ、窓が開いてる。
あそこかな?
開けっ放しの窓の前まで到着し、中を覗くと乱れたベッドの上は無人。
間違いなさそう。
あとはベッドに寝かせるだけ……。
ん?
なんだかお尻のあたりがあったかい?
冷えた体を湯船に漬けるような、心地よい温もりを感じる……。
「ええー‼」
この子おもらしした‼ おねーちゃんからもらった外套がぁ‼
あまりの衝撃にうっかり声を出してしまう。
やばい!
急いで逃げろ!
少年を投げ出すわけにはいかず、ベッドに寝かせて布団をかける。
寝巻のズボンは濡れたままだけど無視。
足音が聞こえる。
慌てて窓飛び出したために窓閉め忘れた!
それより外套!!
急いで宿に戻って、一人泣く泣くお風呂場へ行き、教えてもらったばかりの染み抜き方法を実践したんだ……。