首都エレムネス
「ラナクって興味のあること以外、本当になにも知らないのね」
エレムネスの町の舗装された路面を人々の流れに沿って歩きながら、顎を上げたまま視線を四方へ忙しなく彷徨わせては感嘆の声を上げているラナクに、隣のシャンティが呆れたような表情を浮かべて笑いかけた。
「え、なに?」
正面奥に聳える巨大なダジレオを背景に、人々の溢れる道路の両側には町の周囲の大地と同じ赤茶色の高層建築物の群れが迫り、それらほとんどの一階部分には商店や飲食店が軒を連ね、そのどれもがお互い競い合うかのように派手な看板を掲げている。
派手なのは看板だけでなく、店先の商品や往来の人々の服装も極彩色が多く使われており、淡色の衣類に身を包んだラナクとシャンティだけが景色の欠損部分のように浮いた存在に見える。
行き交う人々は皆忙しそうで、立ち止まって誰かと会話をしているような人はおらず、歩きながら独り言を呟いたり怒鳴ったりしている人の姿が多分に目立つ。
「うわッ!」と大声を上げたラナクは、「シャンティ! 今の見たかッ⁉︎ あの透明な扉、勝手に開いたぞッ!」
シャンティは通り過ぎる人々の嘲笑を耳にし、「ちょっとラナク、そんな大声出さないでよ! 恥ずかしいでしょ」と小声で注意した。
「声? 大丈夫だって! 俺らの言葉はここじゃ通じないんだからさ」
エレムネスへの入境手続きのため、門前の長い行列に並んでいたラナクたち一行は、役人たちと話をする順番が回ってきて初めて、世界の常識とされる事実の一つを知らされたと同時に、司祭の告げた言葉の真意を理解することとなった。
「なんだって? あんたたち、そりゃどこの言語だ?」
役人の発する聞き慣れない言葉の響きに初めこそ戸惑っていたラナクだったが、彼ら同士の会話を耳にしているうち、それが古代言語の一つイグレスだと気がついた。ラナクが師事する言語教師ヒャクの話すそれとは、発音や抑揚の付け方が少しばかり異なっている。
「ラトカルト、です。ここを、ずっと南西に下っていったところの」
「あ? なんだよ、あんたイグレス喋れるんじゃないか」
そう言って役人が相好を崩す。近くには他に三人の役人の姿があり、みな身体に密着しているような印象の、輪郭の強調された黒い一繋がりの衣服に首から下が覆われている。わずかに光沢があって通常の布地とは明らかに素材が違う。
「ええ、古代言語を学んでいるので」
ラナクがそう言うなり役人たちの間に沈黙が落ち、何やら妙な静けさに場が包まれた次の瞬間、堰を切ったように彼らが大声を上げて笑い出した。
「あの」
「いや、すまない」と役人の一人が居ずまいを正し、「あんたら、あれか。ラッカルク……ラッケルだっけ? ともかく、『取り残された町』から来たんだろ?」
「ラトカルトです。取り残されたって、なにからですか?」
「そりゃあんた、文明からに決まって」と役人が言い掛けたのを、背後に控えている別の役人が「おい」と窘めた。
役人は咳払いを一つし、「まぁ、なんだ。ここじゃあ、あんたらの言葉は通じないし色々と勝手も違うとは思うけど、妙な事件を起こしたり厄介事を持ち込んだりはしないでくれよ」と含みのある言い方をした。
「わかりました」とラナクが巨大な門を潜ろうとしたところ、役人が「あー、ちょっと!」とその背中へ声を掛け、振り向いた彼に「一人、五十リデだ」と右の手のひらを上に向けて差し出した。
「はい?」
きょとんとするラナクの顔を眉間に皺を寄せて探るような目で睨んでいた役人は、その翡翠色の瞳を見据えたまま衣服から数枚の薄い紙片を取り出すと、眼前に掲げて「金だよ、カ・ネ!」と強調した。
「そいつら、たぶん持ってるどころか金っていう概念すらないぞ」
背後の男がそう口を挟むと、役人は「はぁッ⁉︎ 冗談だろ?」と舌打ちをし、「あんたら、金を知らないのか?」とラナクに詰め寄った。
「カネ……ですか?」
聞き覚えのない単語を理解できず困惑するラナクに、「どうしたの?」とシャンティが背後から耳打ちする。
「それが、なにかを見せろって言ってるんだけど、見せるような特別なものなんてなにも」
「ねぇ、あれじゃない? 司祭様から袋を受け取ったでしょ?」
言われたラナクは目を見開いて「あッ!」と声を上げたが、すぐさま苦虫を噛み潰したような表情を作ると、頭を抱えて「あぁ……」と情けない声を漏らしながら項垂れた。
「なに?」
「あれは……もう、ない」
「どういうこと?」
「集落と一緒に燃えた」
「そんな……」
ラナクとシャンティのやり取りを怪しんだらしい役人が、「おい! なにをこそこそ話している」と強い口調で訊ねた。
「金が払えないのなら、入境は許可できない」
「待ってください! その……つまり、代価を払えばいいんですよね?」
「なんだと?」
「カネ……は持っていないので、代わりに、僕たちの知識や技術をお教えするというのはどうですか?」
再びおかしな沈黙が流れ、一拍置いて先ほどと同じような下卑た笑いが役人たちのあいだから沸き起こった。
「あんた、この町で芸人でもやるつもりか?」といやらしい笑いを顔面に貼りつけたまま役人が言い、「知らないようだから、良いことを教えてやる」と舌舐めずりするように続けた。
「そんなド田舎でしか通じないような古臭い知識や技術なんてのはな、ここじゃあ一リデの価値だってないんだよ!」
役人の言葉に衝撃を隠しきれず、己が培ってきたものは一体何だったのかと呆然とするラナクの前に、突如としてゾノフの大きな影が立ち塞がった。
「二百リデある」
ゾノフはそうイグリスで言い、紙幣を握り込んだ右の拳を役人の眼前に突き出した。
門を潜ってすぐ「役目は終わりだ」とゾノフがいなくなると、ガルも「街中で魔物は出ねぇだろうよ」などと言い出し、「勝負のこと忘れんなよ、ラナク」と念を押すや「宿を決めたら教えろ」と言って姿を消してしまっていた。
「ガルの奴、勝手なこと言いやがって。宿を決めたらって言うけど、そもそもどうやって知らせりゃいいんだよ。それにあいつ、イグレス喋れるのか?」
シャンティの荷物を背負って歩くラナクが、ぶつぶつと独り言を漏らしていると、彼女が「え? なにか言った?」と笑顔を向けてきた。
ラナクは隣を歩くシャンティの問い掛けに「いや、なんでもない」と嘯き、「それで、俺たちはどこへ向かってるんだ?」と気になっていた疑問を口にした。
するとシャンティは「あれ? 言ってなかったっけ?」と恍けたように言い、「あ! ちょっと待って」と急に足を止め、道路脇に立つ細かい文字や線がごちゃごちゃと描かれた薄い板へと顔を近づけた。
「なにを見てるんだ?」とラナクが背後から覗き込む。
「おそらくだけど、目的地が記されている地図っていうものだと思う」
「これが? 歪な図形と線だらけじゃないか。どうやって見るわけ?」
地図をまじまじと見つめながら、しばらく唸り声を上げていたシャンティは、「うん、よくわからない!」と軽快に言うとラナクに満面の笑みを向けた。
ラナクは呆れたように軽く息を吐き出した後、「それなら、誰かに訊いてみよう」と提案し、「目的の場所の名前は? イグレスでなんて言うか知ってる?」と立て続けに訊いた。
「スピリテア。で、合ってると思う」
「スピリ……それって精」
「ねぇ」とラナクの言葉を遮ったシャンティは、向かいの飲食店らしき建物の前に立つ、銀色の服に身を包んだ淡青色の逆立った髪をした人物を指差して「あの人に訊いてみない?」と言い、「立ち止まっている人も他にいないみたいだし」と動き続ける人々の群れを見渡した。
「わかった。行って訊いてみよう」
押し寄せる人々の波に何度も飲み込まれそうになりながらも、間隙を縫ってラナクとシャンティはどうにか往来を渡り切り、水色の瞳でどこか遠くの一点を見つめたまま動かない、ピンと背筋の伸びた男性の前に立って「あの」と声を掛けた。
ラナクより頭一つぶん大きい、ガルとほぼ同じくらいの背と思われる男性の頭がわずかに手前へと傾斜し、「こんにちは。お食事ですか?」と逆に訊ねてきた。男性の顔面には奇妙なほどに皺がなく、若いのか年老いているのか判然としない。
「いや、そうじゃなくて」とラナクは否定しつつも、前日の晩からロクな物を口にしていないことに加えて旅の疲れも相まってか、胃が焼けるような強烈な空腹感を覚えて男性の背後にある飲食店へと素早く視線を走らせた。
「スピリテアって場所を探しているんですけど、行き方を知っていたら教えてもらえませんか?」
男性は「スピリテアですね? お調べいたします」と言うや否や、「こちらのルテ通りを北へ三ブロック上がり、ネーマ街道を東へ四ブロック、右手に見えるクシャッテナラ小径へ入って」とラナクたちの聞き慣れない通りの名前や単語を口にしはじめた。
「あの、ちょっと、すいません!」とラナクは男性の言葉を遮り、「俺たち、エレムネスみたいな大きな町に来たの初めてで、その……通りの名前とかブロックって言われても意味わからないし、方角もどっちが東で西なのかも見当がつかなくて」と申し訳なさそうに伝えた。
「そうでしたか。これは失礼いたしました。祈りの塔の首都、エレムネスへようこそ」と男性は無表情のまま言い、「それでは、地図を差し上げましょう」と続けた。
「いや、地図」
「いらないわ。イグレスはほとんど読めないの。それに地図の見方もわからない」
隣から口を挟んできたシャンティに、ラナクが「イグレス喋れるのか⁉︎」と目を丸くすると、彼女は「ちょっとだけヒャク先生に教えてもらったの」と得意げに言って笑みを浮かべた。
「カタク語、ですね?」
ラナクとシャンティの使う言語を言い当てただけでなく、今しがたまでイグレスを喋っていた男性が突然自分たちと同郷の言葉を口にしたことで、二人は「えッ⁉︎」とそれぞれに驚きの声を上げた。
「門のところにいた役人ですら知らなかったのに……物知りなんですね」
「現在使用されている言語であれば、すべてが登録されています」
「登録?」
男性はラナクが顔を顰めたのを気にした様子もなく、「スピリテアまでご案内いたしましょうか?」と申し出た。
「いいの⁉︎」と明るい声で燥ぐシャンティを横目に、ラナクは「でも、誰かと待ち合わせていたとかじゃないんですか?」と男性を慮って訊ねた。
「待っているといえば待っていますが、特定の人物を待っているわけではありません。それに、それも今日でおしまいですから」
男性の杳とした言い方にラナクとシャンティが顔を見合わせる。
「これはまた、失礼いたしました。わたくし、本日でこちらのお店を解雇された後、明日には廃棄処分となる予定なのです」
「廃棄って、捨てられるってこと?」とシャンティが訝しげな声を上げ、「待って。仕事を解雇されたら、その後はあなたの自由でしょ? それにそんな廃棄だなんて、まるで自分を物みたいに言うものじゃないわ」と気遣うような声で続けた。
「物。人間ではないという意味であれば、わたくしは物に分類されます」
淡々とした口調で突拍子もないことを口にした男性に、ラナクとシャンティは「はぁッ⁉︎」と驚嘆の声を上げた。
銀色の服を着た男性に先導され、ラナクとシャンティがネーマ街道を東に向かって歩く姿がある。先ほどまで二人がいたルテ通りに比べ、さらに人の混雑具合が増している。軒を連ねる店々も飲食店が減って衣料品や装飾品を扱う商店が目立つようになった。
「そうですか。ラトカルトはエレムネスとは生活様式も文明の発展度合いも、なにもかもが違うのですね」
「あなたは物知りだと思ったんだけど」とシャンティが言い、急に思い出したように「ところで、あなた名前はなんていうの?」と男性に訊ねた。
「人々からはイブツと呼ばれています」と男性は語頭を強調して名乗り、「情報としては知っていますが、実際に住んでいる方たちの声を聴くことは滅多にありませんから」と抑揚のない声で説明した。
「えっと、イブツ……さん?」
ラナクが遠慮がちに声を掛けると、イブツは「イブツで結構ですよ」と訂正し「なんでしょう?」と先を促してきた。
「さっきの説明だけだと気になる部分が多くて、でもその、訊いていいのかどうかもわからないっていうか」
「遠慮なさらずにどうぞ。人間は知ることを欲する生き物だと理解しています」
「じゃあ訊くけどさ、イブツは自分のことを物だって言ってたけど、具体的にはなんなの?」
「ちょっと、ラナク!」とシャンティが窘める。
「だって気になるだろ! 俺たちみたいに喋ったり動いたりしているのに、自分は物ですって言われてハイそうですか、なんて納得できるわけないじゃないか!」
「それはそうだけど……」
「気遣いは無用です。物ですから」とイブツが割って入り、「わたくしは自動人形と呼ばれるものです」とラナクの問いに答えた。
「冗談だろ? キミが人形? それなら動力はどうなっているんだ?」
「動力は魔導核です」
聞き慣れぬ単語をサラリと言ってのけたイブツに、「マドウカク?」とラナクが頓狂な声を上げる。
「魔力を動力源とした半永久機関です」
「じゃあ、そいつ自体を動かしている力はどこから来てるわけ?」
「魔導核に封じられた魔力が循環する際に発生する力を利用しています。ですが」
訊ねるたびに新しい情報が出てくることに混乱しそうになりながらも、ラナクは「ちょっと待ってくれ」と己の頭を整理するためにイブツの話を遮り、「魔力ってやつは、魔術や魔法を使うのに必要な力じゃないのか?」と訊ねた。
「正確には魔法を使用するのに必要な力です」
「ってことは、やっぱり魔法は滅んでいない技術なのかよ⁉︎」
「それは、世界の禁忌に触れるため、お答えしかねます」
「禁忌って?」
イブツはラナクの問いには答えず、徐に右腕を上げると「あちらの建物の間にあるのがクシャッテナラ小径です」と指差し、「スピリテアは小径を抜けた先、ルヴレーヌ通りの裏手にある四軒目の建物です」と無感情に言った。
ルヴレーヌ通りの裏手に佇むスピリテアの外観は、一見するとただの民家のような造りで、それが何らかの商売を営む店であることが容易に知れないようになっていた。
「看板も出ていないけど、本当にここで合ってるのか?」
「間違いありません。本日も営業しているはずです」
ラナクがイブツへ再三の確認をする横で、シャンティが「こんにちはー」と言いながら木の扉を手前へと引くなり、躊躇いもせずにさっさと中へと足を踏み入れて姿を消してしまった。
「ちょっと待っててくれ」
そうイブツに告げて扉を開いたラナクは、動物を捌いた時に香る内臓の生臭さと、ジャルジャマ草に似た嗅覚に突き刺さるようなツンとした匂いを感じ、咄嗟に左手で口元を覆って中へと入った。
外の通りはまだ明るいというのに、窓がないのか蝋燭で照らされた店内は薄暗く、そのわずかな暖色の光の中に乾燥した植物の束や小動物の切断された四肢らしきもの、鈍い光を反射する鉱石の塊のようなものなどがぼんやりと浮かび上がっている。
そこらじゅうに闇が蟠っているせいで、奥行きがわからないどころかシャンティの姿さえ見えない。どこからかグツグツと鍋の煮える音だけが微かに聴こえてくる。
「シャンティ?」
店の奥へ向かってラナクが呼び掛けると、「こっちよ」というシャンティの声が闇の何処からか上がり、彼女の姿が明かりの輪の一つにぬぅっと現れた。
「ここは一体なんの店?」
シャンティは一瞬だけ視線を左斜め下へと逸らした後、再びラナクの瞳を見つめて「精霊術や魔術に必要な材料や、それらに使う道具を扱うお店なの」と抑えた声で静かに答えた。
「じゃあ、キミが魔導士なのかッ⁉︎」とゾノフの言葉を思い出したラナクが大声を上げた。
「マドウシ? 違うわよ」
「違う? だって魔術道具を売る店に用があるなんて、そんなの魔導士ぐらいしかいないに決まってるだろ!」
「ちょっと、ラナク!」とシャンティが押し殺した声でラナクを窘め、「あんまり魔術だの魔導だのって大きな声で言わないでよ。魔法に関しては禁忌だってイブツも言ってたでしょ? このお店だって、表向きは精霊術に関する道具だけを扱う専門店ってことになってるらしいんだから」と囁くような声で説明した。
「そういうシャンティだって」
突然、何もいないと思っていた背後から、「壊れてしまう……」という呻き声を聴いた気がしたラナクは、驚きのあまり「ほわッ!」と間の抜けた声を上げて前方へ数歩出るなり、足を縺れさせてシャンティの胸の辺りへと顔面から飛び込んだ。
「き……ぃやぁッ!」
ラナクは甲高い悲鳴とともにシャンティに突き飛ばされ、棚に載った種々雑多な商品を振り回した両手で叩き落としながら、石の敷き詰められた床面に後ろ向きに倒れて尻を強かに打ちつけた。
「ってぇッ!」
「ごめん……だって」
「いや、俺のほうこそ」
差し出されたシャンティの手をラナクが掴み、立ち上がりかけたところで「さっきから人の店でバタバタとうるさいね」と苛立ちを帯びた女性の低い声が響き、続けて「盗人か? それとも、人に成り済ます類の魔物かい?」と冷たく沈んだ声が飛んできた。
立ち上がったラナクが「あの、すいません!」と謝り、シャンティが「私たちはただ商品を見ていただけで、なにかを盗もうとしていたわけじゃ……」と弁明するのを、女性の声が「アンタたち、この町の人間じゃないね」と闇の中から指摘してきた。
「さっき話していた言葉、カタク語だろ?」という女性の低い声と、床面の石を一定の間隔で叩いているような硬い音が、ラナクたちの元へ向かってゆっくりと近づいてくる。
「つまり、『取り残された町』ラトカルトの出身ってわけだ」とカタク語で言う声がするや、濃色の波打った長い髪を顔面の右側に垂らした、肉感的な体付きの長身の女性が明かりの中に姿を現した。