呪われた身体
暗闇のなか、床面に描かれた円陣が青白く輝きはじめ、たちまち部屋いっぱいに溢れ返った白い光は、右手にチャムニャンを乗せたラナクとザネマの姿を残して瞬く間に消失した。
「シャンティたちがまだ……って、え?」
「着ーいたいたいた着ーいたぞ!」
「着いたって、どこに? エレムネス? こんなたった一瞬で⁉︎」
「ほーらほらほらほらほらほーらほら、呆けてるてる場合じゃあねぇ! 俺は忙しいんだんだんだんだ、とーっととっととっとと案内内しーろしろ!」
姿の見えないザネマに向かい、ラナクが「案内しろって言われても……俺は店までの行き方を知らないんだけど」と困惑したように言うと、異形の魔導士は「なーんだんだんだんだなーんだとぉッ⁉︎」と耳障りな甲高い声できひきひと喚いた。
「だから、みんなを返せって言っただろ。あんたのシッマまで連れてってくれたのはミトシボさんだし、エレムネスを案内してくれたのはイブツって自動人形だ。それに店を知ってたのはシャンティで」
「おーいおいおいおいおい、おーいおいッ! そーれじゃれじゃれじゃ、まーたまたまたまたまた戻らどらどらなーくちゃくちゃくちゃ、なーらねぇのかかかかか?」
「案ずるな。私が道順を知っておる」
チャムニャンが声を上げると、ザネマは「そーれそれそれそーれを早く言えッ!」と苛立ったように言った。
「なぁ、ここは一体エレムネスのどこなんだ? 真っ暗だぞ?」
「どーこどこどこどーこかって訊ーかれかれかれ訊ーかれても、俺は他塔の町の地名名なんなんて、知ーりやりやりや知ーりやしねぇ!」
「はぁ? おいおい、ここって本当にエレムネスなんだろうな?」
「つーべこべつべこべ、こーべこべうーるせぇ! とーにかくかくかく外に出ーるるるるるぞ!」
「外?」とラナクが言うが早いか、扉の開かれる音とともに一条の白い光が暗闇に差した。
アービチを握ったままの左手を額の前に翳しながら、眩しさに目を細めて戸口から外へと出たラナクは、目が明るさに慣れてから背後を振り返り、それまで自分がいた場所を確認するや「へッ⁉︎」と調子の外れた声を上げた。
「なん、え? こんな、崩れかかった屋根もない家なのに、なんで中は真っ暗だったんだ?」
「真ーっ暗暗暗暗、真ーっ暗じゃねぇと、色々色色色、色々と面倒倒だーからからからだーからな!」
ズレた返答に「いや、そういう意味じゃなくて」と口にしたラナクは、ザネマの体色がくすんだ灰色に変化しているのを見るなり、「あんたの身体、そんな色してたっけ?」と不躾な質問をした。
ザネマはラナクの問いを無視して「さーてさてさてさてさて、さーてさて!」と仕切り直すように言うと、「さーっささっささっさと案内内しーろしろしろ、ゴーッサマー!」とチャムニャンに命じた。
「わかっておる。まずは、ここがどこかを確認する必要がある」
周囲に建ち並ぶ家屋は、どれもこれもが半壊しているか戸口のある前面の壁を残して倒壊しており、さながら廃墟といった様相を呈している。路面も大通りのように舗装されたものではなく、土が剥き出しのために雑草が伸び放題となっていた。
「あれ? ここって前にも通ったことがあるような……確か、貧しい人たちが生活している地区だとかってイブツが」
「ラナクルよ。こういった地区はエレムネス内に数多く存在しておるのだ。以前、おぬしが似た場所を訪れたのだとしても、ここが必ずしも同じ場所である可能性は低かろうよ」
「じゃあ、ここがどこかをどうやって判断するんだ?」と言ってラナクは周囲を見回し、己の左手後方の遠くに聳える赤茶けた巨大な動力供給塔を見つけ、「どこから見ても同じにしか見えないダジレオじゃ目印にならないよな」と独り言ちた。
「おぬしらただの人間ではできぬ方法がある。おそらく、そこな魔導士も風の塔であれば同じことをするであろう」
「そーうそうそうそうそう、そーの通り。早くシーンドウを読ーみ取れ取れゴーッサマー」
「今やっておる」
ラナクは右の手のひらに乗るチャムニャンを見下ろしながら「なにを読み取るって?」と訊ねたものの、しばらく待っても返事がないことに痺れを切らしたのか、今度は視線を上げて宙に浮いているザネマに「なにを読み取ってるんだ?」と同じ質問を繰り返した。
「感じるじるこーとこともでーきないない、おーまえまえが知ーるるるる必要要はないないなーい!」
「なんだか前にもどこかで聞いた単語だったような」
「判明した。ここはダジレオの東に位置するクレ地区である」と唐突にチャムニャンが口を開き、「道は私が示そう。言う通りに進め、ラナクル」と言ってラナクの手の上でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
偶然なのか故意にそうしているのか、チャムニャンの指示する経路はどこも人通りが少なく、異形のザネマを左肩に乗せているにも拘わらず、ラナクに注意を向ける人間は一人としていなかった。
「次は左に見える小径へ入れ」
影の落ちた石畳の小径は両側からの家屋に挟まれており、大人がかろうじて擦れ違えるほどの幅しかなく、不意に裏口の扉が開いたり角から人が現れたりでもしたら、いくら素早く動こうとも衝突は避けられそうにない。
指示を出すたびに飛び跳ねるチャムニャンに、ラナクが「あのさ、チャムニャン。くすぐったいからイチイチ跳ねるのやめてくれないか?」と困惑した顔で言い、続けて「それから手も疲れてきたから、シャンティにしてたみたいに髪の中に入っ」とまで言ったところで、白い監視役は「断る」と短く言って拒絶の意思を示した。
「なんでだよ」
「男の頭は臭いのでな」
「はぁ⁉︎ そんなことないだろッ! シャンティだって臭」
「彼女からは薫香の芳しき匂いがする。この小径を抜けたら右にある階段を上るのだ」
言葉に詰まったラナクは「薫香なんて使わなくても俺だって」と再び口を開き、左手でわしゃわしゃと黒髪を掻き混ぜて己の鼻へと近づけるや、「ゔッ⁉︎」と呻き声を上げて「まだあの腐ったような酸っぱい臭いがする」と顔を顰めた。
「ほれ、言った通りではないか」
「これはッ! たまたま、遺跡で臭い奴の、その……とにかく、いつもは臭くない!」
「まーだまだまだ着ーかねぇねぇのか?」と歩き出してからずっと黙っていたザネマが、突然ラナクとチャムニャンの会話に割り込むように口を開き、「少しばーかりかり、暗闇闇で休もうもうぜ」と力なく言った。
「そういえば、さっきからずっと静かだったけど、どうしたんだよ? 疲れたのか?」
「疲れたのとはとは違うがう……こーのこの身体に課ーせられられた呪いだ」
小径を抜けた先は大通りではなく、やはりまた民家の裏手のような狭い路地が左右に伸びていた。右手の道を覗くとさらに二手に分岐しており、右は建物の壁面に沿って築かれた手摺りのない石造りの階段が高台へと続き、左は人一人がやっと通れるかどうかといった狭い路地となっていた。
ラナクは階段を慎重に上りつつ、「呪いって……あんた、もともとそのシャンガの姿じゃないのか?」と己の左肩にいるザネマに話しかけた。
「違うがう。そーれそれそれそーれからから、そーのそのその忌ーまわまわしい名前前で呼ーぶんぶんじゃねぇねぇねぇ……」
「シャンガのことか?」
「だーからから、やーめろめろって」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ?」
「ニーンフだ」
それを聴いたラナクは、成人の儀でゾノフが口にした単語を思い出し、「あ、ニンフかッ!」と合点がいったように声を上げた。
「今今今そーうそうそう言ーったったっただろ」
「いや、だってあんたはニーンフって……あぁ、あんたの喋り方なのか。それで、なにが駄目なんだよ? ただの呼び名の違いだろ? 同じ生き物だってわかってるんだから、別にどっちだって」
「シャーンガは蔑称称だだだだだ。人間を惑わしわし、災いを齎たらすと謂れわれがあーってあってあっててってって」
「だからってなにも不都合は」
「うーるうるうるうるうるせぇ……美意識識の問題題だ」
「なんだよ、そりゃ? まぁ、それはともかく、あんた一体なにをしてそんな呪いを受けたんだよ?」
急に黙り込んだザネマは、ラナクが階段を上り切って高台の整備された広場に出たところで、「わーからからからねぇ……実験に使ったった、いーずれずれかの魔物物……から」と弱々しく言うなり彼の左肩の上で横になった。
「おいおい、大丈夫か?」
「暗闇闇か……せーめてめて……影のあーるある……とーころころへ」
周囲を見回しつつ、ラナクが「チャムニャン、どこかに暗がりや影になっている場所はないか?」と話しかけ、「なんだかザネマの具合が悪そうなんだ」と不安げに言った。
「そういったものは読み取れないのでな。おぬしの目で探してくれ」
「そう、なのか」
ラナクは広場を横切りながら、建物同士の隙間に狭い路地でもないかと忙しなく首を動かしているうちに、ザネマの息が次第に荒くなってきていることに気がついた。
「おい、ザネマ! あんた、明らかに大丈夫じゃないだろ?」
ザネマから返事がないことで、状況が深刻であると判断したラナクは、元来た階段を駆け下りるなり建物同士の影となっている小径へ身を滑り込ませた。
「とりあえず影に入」
そう言って己の左肩のほうへわずかに首を傾けたラナクは、息も絶え絶えに横たわるザネマの姿に目を見開いた。体色はくすんだ灰から炭のような黒ずんだ色へと変化しており、身体の各所には細かい罅がいくつも刻まれている。
「なッ……ザネマッ⁉︎ おいッ!」とラナクが声を掛けた直後、ザネマの白く濁った四枚の翅が粉々に崩壊し、彼は「チャムニャンッ! ザネマが、ザネマの翅がッ⁉︎」と激しく狼狽えた。
「落ち着け。たとえ異形の姿であろうと其奴は魔導士である。簡単にくたばるようなことはない」
「でもなんか、急に黒くなったし、それに全身にヒビまで入ってるし……今、翅だって」
言いながらラナクは、ザネマがすでに呼吸をしていないことに気がつき、己の右手を持ち上げてチャムニャンへと視線を動かすと、「ザネマ、息してないっぽい」と震える声で告げた。
「断ずるにはまだ早いぞ、ラナクル。見よ」
ラナクが再び視線を己の左肩へ戻すなり、ザネマの罅割れがたちまち目地のごとく全身へと広がって行き、メキョリという何かがひしゃげるような大きな音がするや、魔導士の黒く変色した皮膚の一部がごっそりと剥がれ落ちた。
「なんか剥がれ」
言うが早いか、皮膚の欠けた部分から薄紅色の細い腕が突き出したのを目撃したラナクは、「おわッ!」と声を漏らして顔を己の左肩から遠ざけた。
続いてもう一本の腕が突き出たかと思うと、ばりばりという乾いた音を立てながら、上気したかのような淡紅色に染まったザネマの上半身が黒い塊から現れた。撓垂れてはいるものの、その背中には朽ちたはずの四枚の透明な翅も生え揃っている。
「え? えぇッ⁉︎ なにこれ、脱皮⁉︎」
ぶるぶると身震いした新生ザネマは、「危あぶあぶ、危ねぇ!」と声を上げ、「やーっぱりぱり外外は危険険険、危険だぜ!」と言って翅をピンと伸ばした。
「なに? なんなんだよ? 人の肩の上でなにしてくれてんだよ」
「仕方方方ねーえだろ! こーれこれこれこーれが、こーのこのこの身体に課ーせられられた呪いなーんだからからよ!」
「これが呪いって」
「外光光を長いがいこと浴ーびるびると、こーのこのこの身体は崩壊壊しーちまうんだだだだだ!」
「じゃあ、あんな暗いところに住んでるのは、その呪いのせいなのか」とかねてからの疑問に納得がいったラナクは、続けて「でもそれだと、さっき身体が黒くなった症状はなんなんだよ? あれは身体の崩壊とは関係ないんだろ?」と新たな疑問をザネマにぶつけた。
「あーれあれあれあーれは、外光光からからこーのこのこのこのこーの身を守るもるもるたーめの、鎧みーたいなもーんもんもんだだだだだ!」
「魔法ってことか?」
「いーやいやいやいやいや、あーれあれあれあーれは俺が自らからを改良良しーたしたした結果っかっか、獲得得した体質質だだだだだ!」
得意げに言うザネマに対し、ラナクが「それなら、わざわざ暗いところに住まなくてもいいだろ?」と訊くと、魔導士は「そーんなんなんな何度も、でーきるきるわけねぇねぇだろ! だーからからから急げそげそげ、急げ!」と喚き散らした。
すでに四度目となる見慣れた路地を抜け、ルヴレーヌ通りの裏手に佇むスピリテアの前へとやってきたラナクは、一枚板でできた重厚な扉をゆっくりと手前に引き開け、その隙間から店内を覗き込みながら「メイナさーん?」と遺跡から戻ってきた時と同じように奥へ向かって声を掛けた。
薄暗い店内には血腥い臭気と異常なほどの湿気が満ちているだけで、やはりいつものようにメイナからの返答はない。
「こーれこれこれこれッ! こーのこのこのこの明るさるさるさるさは心地好い好いぜぜぜぜぜ!」
ザネマが大声を上げて飛び上がると、奥の暗がりから「ったく、誰だい? 人の店ん中でトンチキな喋り方で騒いでる奴は」と、メイナの不機嫌そうな低い声が聴こえてきた。
「メイナさん、ラナクです。ただいま戻りました」
硬質な靴音が響き渡るなか、「ふぅッ」と軽く息を吐く音がした後、メイナが「どうやら、うまく説得できたようだねぇ」と気怠そうに呟くのが聴こえ、「久しぶりじゃないか、ザネマ。歓迎するよ」と言葉とは裏腹な沈んだ声がするなり、ラナクの近くにある蝋燭の灯りに彼女の長身が照らし出された。
「おーいおいおいおいおい、メーイナァ! おーまえが一枚枚噛ーんでるでるとはなぁなぁなぁ!」
あからさまに舌打ちをしたメイナが「ったく、風の塔の連中はどいつもこいつも、揃いも揃っておかしな喋り方する奴ばかりだね」と嫌味を言うと、ザネマは「仕方方方ねぇねぇだーろだろ! 土地のせいせいで人付き合い合いが極端端に少ねぇんだからからよ!」と言い訳をした。
メイナは「あぁッ、鬱陶しいッ!」と苛立ちを露にし、「ラナク、マージュは離れだ。そいつを案内したら隣の客間に来な。話がある」と客間のほうへ向かいかけて足を止め、首だけをわずかに傾けてラナクを見ながら「店から出る時はどうするか覚えているかい?」と訊ねた。
「外の光が入らないようにする、ですよね?」
「ああ。そいつと同じような奴がいるからねぇ」と静かに呟いたメイナは、続けて「それと、旦那から金は回収してきたんだろうね?」と否定的な返答を許さぬような凄みを利かせて言った。
「はい、もちろん!」とラナクが答え、チャムニャンも「案ずるな。そのためについて行ったのだからな」と声を上げると、メイナは「ご苦労だったね、チャムニャン」と労いの言葉をかけた。
「あ、でも受け取ったのはカネじゃなくて、その、なんか硝子片みたいなやつで」
するとメイナはラナクに向き直って「硝子片だって?」と訝るような調子で言い、「まさか、セーネルじゃないだろうね?」と訊ねた。
「えっと、名称はわからないんですけど、一枚で二万リデの価値があるとか……それで、それが二十九枚あ」
「セーネルが二十九枚ッ⁉︎」と大声を上げたメイナは、「どこにあるんだい? とっとと出しなッ!」と勢い込んで言った後、ハッとした顔で慌てて右手で口元を覆うなり、わざとらしく咳払いを一つするや「確かかい、チャムニャン?」と冷静を装って言った。
「うむ。相違ない」
メイナはチャムニャンからラナクへと視線を移し、彼を見下ろしながら「ミトシボの旦那から受け取ったものを出しな」と威圧するように言った。
ラナクが唖然とした表情のまま荷袋から小さな木箱を取り出すと、メイナはそれを勢いよく奪い取るなり、「おら、いつまでそこに突っ立ってるんだい! さっさとそいつを連れていきなッ!」と吐き捨てるように言ってくるりと背中を向けた。
「え、ちょッ! だって今、まだ話して」
「つべこべ言ってんじゃないよッ! 来な、チャムニャン」
扉の閉まる音が響き、チャムニャンを連れてメイナが店内から確実に出ていったのを確認したラナクは、顔を顰めて「なんで俺が怒鳴られなきゃならないんだよ」と小声で不平を漏らしつつも、薄暗がりの中を奥へ向かってそろそろと進んでいった。
「メイナさん、話ってなんですか?」
ザネマを離れに案内して客間へとやってきたラナクは、白い光を放つ照明が灯った明るい部屋へ足を踏み入れるなり、窓辺に立って人気のない裏通りを眺めているメイナに訊ねた。
振り返ったメイナが「まぁ、掛けな」と椅子を勧め、ラナクがそれに従い部屋の中央に置かれたテーブルへと歩み寄る。
視線を落として椅子の背凭れに手を掛けたラナクだったが、急に顔を上げてメイナのほうを見るや「あの、それと、ガルの姿が見当たらないような……」と、最初にした質問の返事を待たずに新たな疑念を口にした。
「話ってのは、そのガルのことさ」
眉間に皺を寄せたラナクが、椅子に腰を下ろしつつ「もしかして、ガルになにかあったんですか?」と緊張した面持ちで訊くと、メイナは目を細めて彼を見返しながら「ああ。ちょっとばかり厄介なことになってねぇ」と気怠そうに言い、ふと視線を外して溜め息を吐き出した。
「厄介って、なにが」と言いかけたラナクは、メイナが視線を逸らしたまま無言でいるのを見るなり、落ち着かせたばかりの腰を再び浮かせて、「え、まさか……えッ? なんですか? なんで黙ってるんですか⁉︎」と少しずつ声量を上げていって彼女に詰め寄った。
「騒ぐんじゃあないよ。落ち着きな。まだあの金髪の坊やは死んじゃあいない」
心を見透かしたかのようなメイナの言葉に、ラナクは安堵の溜め息とともに腰を下ろしたものの、すぐさま顔を上げ「まだということは、今も危険な状態が続いているって意味ですか?」と訊ねた。
「そいつはちょいと違うねぇ。今日明日でどうにかなっちまうことはない、って程度の意味さ」
「どういうことですか? それならガルは今、一体どういう状態に」
「記憶を喰われちまってる」
聞き違えたと思ったのか、ラナクは顔を右へ傾けて左耳を前にする格好で卓上に身を乗り出すと、「記憶を、なんて言いました?」と離れた場所に立っているメイナに訊き返した。
「喰われたのさ。塔の怪物にねぇ。いわゆる記憶喪失ってやつだよ」
「記憶を喰われて記憶喪失ッ⁉︎」と目を見開いたラナクは、「そん、えッ? でもどう」とまで言って急に口を噤み、裏付けのないことを安易に信じるなといったガルの言葉を思い出し、「ただ混乱しているだけなんじゃないんですか?」と己の考えを控え目に伝えた。
「塔の怪物を近くで見たんだろ?」
「ええ。特にガルは怪物のそばに長くいたっていうか」
「塔の糧は知ってるかい?」
メイナの口から出た単語に、ラナクは「その名称だけ知ってます。でも禁忌ってことで、それがなにかまでは知りませんけど」と答え、わずかに俯いて左手を顎に当てると「確か……ガルの体調が悪くなった原因は、塔の糧を抜かれたせいだってイブツが」と独り言のようにブツブツと続けた。
「この祈りの塔で、怪物に糧として喰われるのは記憶なのさ」
ラナクが「はッ?」と顔を上げ、驚きの表情を浮かべたまま「あの、それ、禁忌なんじゃ」としどろもどろに言うと、メイナは「前にも言っただろ? 禁忌の技術を扱う魔導士が、禁忌を口にしてなにが悪いってんだい」と顎の先を軽く上げて彼を見下ろした。
「そう……でしたね」と決まり悪そうに右頬を指先で掻いたラナクは、「えっと……それじゃあつまり、ガルは塔の怪物の近くに長くいたから、その、記憶を喰われたってことなんですか?」と、己の発している言葉の意味が自分でも理解できていないといった様子で訊ねた。
「いいかい、ラナク。塔の糧ってのはね、塔の怪物に近づいた者だけが受ける影響じゃあないんだよ」
「それは、どういう」
「塔の糧は、塔内に住んでいる者全員に、生まれながらにして課せられている罰みたいなもんなのさ」





