浮遊する大地
ラナクが口にした魔導士の名を聴くなり、座面の広い大きな椅子に踏ん反り返っていたミトシボは、剥き出しになった大きな眼球で彼をギョロリと睨みつけ、「ザァネマがどうしったぁ?」と訝しさと忌々しさを凝縮したような調子で問い返した。
「その魔導士は、治療に特化した魔法を使えるんですよね?」
「治療? あぁいつが使うのはそぉんな高尚なもっんじゃねぇわい」
「でも、メイナさんが」
「ザァネマのあぁれはな」と言葉を切ったミトシボは、突然「そっだ、そっだぁ」と何かを思い出したかのように声を上げ、床から拾い上げた両手に収まるほどの大きさの木箱をテーブルにドンと置くと、「残りの五十八万リッデだぁ」と言ってラナクの前へと押し出した。
木箱を目にしたラナクが「あの、こんな小さな箱に五十八万も、その、カネが入ってるんですか?」と不躾に訊ねると、ミトシボは「あぁん? そぉんなら開っけて確認しってみろぉ」と特に気にした様子もなく言った。
言われるまま木箱を開けたラナクは「この」と言いつつ、箱の中に一定の間隔を空けて整然と並んでいる透明な板を一枚取り出し、「こんなものがカネなんですか?」と天井の明かりに翳して透かし見た。
「そぉいつぁ一般に出回ってるやぁつとは、少しばぁかり違っててよ」
「あれ? でもこれ、全部で二十九枚しか入ってませんよ」
「だぁからぁ、そぉれ一枚で二万リッデの価値があぁるんだわい」
「こんな、硝子片みたいなものが二万……」
ラナクが驚嘆の声を漏らしているところへ、シドミレが三つの湯呑みの乗った盆を両手に持ち「旦那様。お茶をお持ちしたでごぜぇますよ」と、艶やかな紫色の髪を揺らしながらおずおずと客間に戻ってきた。
「俺じゃねぇ。まぁずはおっ客様におっ出ししろぉ」
「ですが旦那様! このお客様どもはクソッタレな人間で」
「シッドミレェ。主人の俺に恥かっかすんじゃあねぇ。茶ぁおっ出ししったらさぁがれぇ」
渋い顔でラナクとシャンティにそれぞれ茶を配ったシドミレは、次いで部屋の隅で立ったままでいるイブツへと目をやり、「もしや、あなたは著名な魔導士様ではねぇですか?」と上目遣いで訊ねた。
「わたくしはただの自動人形です」
さらに何事かを言いたそうな顔をしていたシドミレだったが、しばらくイブツの水色の瞳を見つめた後、「そうでごぜぇますか」とだけ言って部屋から出ていった。
「そぉれで、ザァネマになぁんの用だぁ?」
ミトシボの質問にラナクが「その魔導士に、治療してもらいたい人がいるんです」と簡潔に答えた。
「だぁから、治療なんて大したもんじゃねぇって」
「たとえそうだとしても、少しでも人を治したり癒したりする力があるのなら」
「悪いこっちゃ言っわねぇ。医者に行ぃったほうがいいんじゃねっかぁ?」
「医者じゃ駄目だって、メイナさんが」
「あぁん? 医者じゃ駄目ぇ? なぁんだぁ? 治しってぇやぁりてぇやぁつってのは、魔導士ってこっとかぁ?」
「そうです! だから、お願いしますッ! その魔導士を紹介してください!」
ミトシボは巨大な腹をさらに突き出し、「まぁ、別に紹介しってやぁらねぇこっともねぇけっどよ、あぁんまり気乗りはしぃねぇなぁ」と言って大きな目玉をぎょるぎょると回した。
「それでも……どうか、お願いしますッ!」
しばらく黙り込んでいたミトシボだったが、シドミレが運んできた湯呑みを掴んで一息にぐいと飲み干すなり、それを音を立ててテーブルへと戻すや「わぁがったぁ。ザァネマんとっこまで連ぅれてってやぁるわい」と観念したかのように言って立ち上がった。
ミトシボとともに派手な橙黄色の飛空船に再び乗り込んだラナクとシャンティは、上昇するものとばかり思っていた船が、本来地面のあるべき場所に蹲る底の見えない巨大な穴へと斜めに滑空してゆくのを、まるで死者の世界への旅路ででもあるかのような不安そうな面持ちで窓から眺めていた。
ラナクが「えっと、ミトシボさん?」と声を掛けると、操舵装置の前で皆に背を向けて立っているミトシボが、「あぁん?」と言って橙色の蓬髪を軽く右へと傾けた。
「なんだか、その……どんどん暗くなってきてるっていうか」
「そぉりゃそっだぁ! 下のほうは明っかりがほぅとんど点っかねぇかっらなぁ」
「どうしてですか?」と訊ねたラナクに、ミトシボが「俺が知ぃるかよぉ」と迷惑そうに答えた。
ラナクとは反対側の窓から外の景色を見ていたシャンティが、「それでその、ザネマって魔導士はどんな人なの?」とミトシボに訊ねた。
するとミトシボは大きく溜め息を吐き出してから、「んまぁ、一言で言ぃやぁ、個性的っちゅうか、独特っちゅうか」と曖昧な言い方をして「魔導士の典型みったいな奴だぁ」と続けた。
「魔導士の典型、ですか?」とラナクがミトシボの言葉を繰り返し、「それはつまり、人嫌いとか、人目を避けるためとか、そういう……だからこんな深いところに住んでる、みたいな」と歯切れ悪く言った。
「いんや。あぁいつは人嫌いなぁんかじゃねぇわい。むっしろ逆だぁ」
「それなら、なんでこんなところに住んでるの、その人? せっかく空に浮かぶ大地があるっていうのに、わざわざ暗い穴底を選んで住むなんて理解できないわ」
シャンティが苛立ったような調子で疑問を口にすると、ミトシボが「あぁ……そぉりゃあ、あぁれだぁ。あぁいつの体質のせぇいもあぁるんだわい」と大きな頭を左に傾けながら言った。
「体質?」とシャンティが上げた声に被せるようにして、ラナクが「そういえばさっき、ザネマの魔法は治癒じゃないって言ってましたけど、それじゃあ一体なんなんですか?」とミトシボに訊ねた。
「そっだなぁ。あぁいつの魔法は、言ぃうなっれば人体の改造っだぁ」
「人体の改……それじゃあ、治療とはまったくの別物じゃないですかッ!」
「初めっからそぉう言ぃってるわい」
突然、飛空船の中が暗くなり、シャンティが「ミトシボさん、明かりを」と心細げな声を上げるや、ミトシボが「大丈夫だぁ」と一蹴し、「島の陰に入っただっけだわい。すぅぐに明るくなぁるから、心配いぃらね」と説明した。
ところが、知らぬ間にかなりの深さまで潜ってきていたようで、いつまで経っても船内はおろか窓の外にさえミトシボの言う明るさは戻らず、ただかろうじてお互いの顔が確認できる程度に闇が薄まっただけだった。
「シッマっていうのは、浮いている大地のことですか?」
ラナクの問いにミトシボは「そっだぁ」と頷き、「遥か昔にはよ、海っちゅうよ、恐ろしく沢山の水が溜ぁまってたとっころがあぁったらっしんだぁ。そんの海の上に浮っかんでた大地をよ、島って呼ぉんでたらぁしっくてな」
「あぁ、それじゃあ空に浮いてる大地をウゥミに浮かんでたシッマに見立てて」
「そっだぁ」と再び頷いたミトシボが、「そぉろそろザァネマんとっころに着っくぞい」と言い終わるが早いか、先ほどと同じように船内からすぅっと明かりが失われていき、代わりに夜空にも似た漆黒の闇で空間が満たされていった。
視界が完全な闇に閉ざされる直前、皆が見据える正面の大きな硝子窓の向こうに、濃紫色の煙が揺曳しているのを確認したミトシボが、ギョロ目を見開いて「しまッ!」と声を上げるや船体が大きく左へと傾き、急に浮力を失ったかのようにして飛空船が落下しはじめた。
空腹で目を覚ましたガルは、がばりと身を起こすなり素早く左右に頭を振って周囲を見回し、反射的に己の腰の左側へと右手を伸ばした。
あるべき場所に聖剣ダマスカスがないことを確認した後、ガルは左手側の窓から差し込む外の光に目を細めるや、右を向いて隣の寝台で横になっている銀色の髪の女性へと視線を走らせた。
険しい表情を浮かべた女性の口からは、ひゅぐひゅぐという苦しそうな浅い呼吸音が小刻みに漏れており、少なくとも健康な状態でないことだけは誰の目にも明らかにわかる。
ガルは女性の顔をしばらく見つめていたが、見覚えがないとわかるや興味を失ったのか、視線を外すと寝台から抜け出して床上に立ち上がった。
「ぐッ」
左半身と背中に走った激痛に呻き声を漏らしたガルは、歩こうとして身体を思い通りに動かすことができず、その場にしゃがみ込んで片膝をつくと「クソッ!」と悪態を吐いて歯を食いしばった。
次の瞬間、部屋の扉が内側に向かって唐突に開き、陰から濃緑色のうねった長い髪を顔に垂らした、妖艶な体付きの背の高い女性が姿を現した。彼女の身につけている衣服にはところどころ縦に切れ込みが入っており、そこから覗く滑らかな素肌からは大人の色香が漏れ漂っている。
女性はガルが床に蹲っているのを認めるや、カタク語で「起きられるようになったのかい」と低い声で言った。
顔を上げたガルが「あんたは誰だ? それから、ここはどこだ?」と不躾に訊ねると、女性が「あんたは誰だ、だって?」と眉を顰め、「ふざけているのかい? こっちは寝場所を提供して看病までしてやってるってのに。ご挨拶な坊やだねぇ、まったく」と苛立たしげに言って漆黒の瞳で彼を見下ろした。
「看病? なら、あんたは医者で、ここは診療所か」
「いいや。あたしゃ医者でもないし、ここも診療所なんて気の利いた場所じゃあないよ」と女性が無感情に言い、「まさか坊や。冗談や悪ふざけじゃなくて、本当に覚えていないのかい?」とガルに訊ねた。
「それはどういう」とまで言ったところで言葉を切ったガルは、顔面を覆うようにして右手を額に当てて俯くと、「これは……なん⁉︎」と呟くなりその場へ横ざまに倒れ込んだ。
息苦しさに咳き込んで目を開けたラナクは、左半身に圧迫感を覚えつつ、視界が真っ暗なままなのを不思議に思って数度瞬きを繰り返した。
何度試しても何も見えず、もしや失明してしまったのかもしれないと、ラナクが恐怖に慄いて身を震わせた刹那、「ラナクルよ。そこにおるのか?」という老齢の男性を思わせる落ち着いた声が聴こえてきた。
「チャムニャン? どこだ? 俺……目が」とラナクが呟くと、チャムニャンの「案ずるな。私がそちらへゆこう」という渋い声が再び暗闇に響いた。
ラナクは「俺、目が見えな」と言いかけるや、視界の端に仄かに発光している白い球体が現れたのを目にし、失明は己の早合点だったかと安堵の息を吐き出した。
「無事か?」
顔の前まで移動してきたチャムニャンに訊ねられ、ラナクは「まぁ、なんとか……身体中が痛いけど」と横になったままの姿勢で答えてから、緩慢な動作で身体を起こして尻を地面に落ち着けると、「一体なにが起きたんだ?」と苦しげな声を絞り出した。
「飛空船が墜ちたのだ」
「墜ちた⁉︎ じゃあここは穴の底ってことか?」
「そう結論を急くでない。もし穴の底まで墜ちておったら、おぬしが生きておるはずがなかろう」
「それもそうか」とラナクは苦笑し、「他のみんなは?」と訊ねた。
「わからぬ。一人ずつ声を掛けてはみたが、返事をしたのはおぬしだけだ」
そう言って跳ねるような動きでラナクの左肩へと飛び乗ったチャムニャンは、「それではゆこう」と威勢よく言うと、何かの合図なのかわさわさと頼りなさげに身体を上下に揺らした。
「ゆこうって、どこへ?」
「決まっておろう。船外へ出て皆を探すのだ」
「でも、こう真っ暗じゃ動きようがないだろ」
チャムニャンは「むぅ」と唸り「多少不服ではあるが、致し方あるまい」と独り言ち、「ラナクルよ。右の手のひらをここへ」とラナクの左耳に向かって言った。
ラナクが右手を左の肩口に近づけると、そこへ飛び移ったチャムニャンが「さほど明るくはないが」と呟き、白い光を放っているその身体をさらに明るく発光させはじめた。
薄ぼんやりと照らし出された範囲には誰の姿もなく、船体が上下さかさまになっている上に、飛空船前部の大きな硝子には罅まで入っている。
「便利な身体だな」
「私の身体を道具のように言うのはやめてもらおう。不愉快である」
「悪かったよ」
「わかればよい」
「でも、凄いな。それは体毛が光ってるのか?」
「いや。これは私の体質ではなく、魔力で発光させておる。あまり得意ではないので微々たる明るさだが」と言葉尻を濁したチャムニャンは、「そんなことより、さっさと立ち上がるがよい」と口調を変えてラナクに命じた。
「わかったよ」と言ってゆるゆると立ち上がったラナクに、チャムニャンが「足元に注意せよ。船外では特にな」と手のひらの上から助言を飛ばした。
「え? あぁ、ありが」
「勘違いするな。おぬしを気遣って言ったのではない。落ちたら這い上がるのに私の骨が折れるのだ」
「あ、そ。ていうか、おまえに骨なんてあるのかよ」
チャムニャンはふぅっと溜め息を吐き、「愚かな質問はやめたまえ」と呆れたようにラナクを制すると、「口ではなく足を動かしたらどうかね、ラナクルよ」と皮肉を口にした。
「へいへい」
ラナクは手に乗せたチャムニャンで足元を照らしつつ、扉の失われた出入り口へそろそろと歩みを進めながら、「なぁ、チャムニャン。おまえ、シャンティの髪の中にいたんだろ? だったら彼女がどうなったかわからないのか?」と訊ねた。
「わからぬ。落下する時に投げ出されたのでな」
船外は闇が満ちており、ゴツゴツとした黒っぽい地面に雑草の類はなく、頭上を仰いでも空の一部どころか浮遊する大地の輪郭すら確認できない。
「空が見えないのはどういうことだ?」
ラナクの発した問いにチャムニャンが「おそらく、ザネマとやらの魔導結界であろう」と答え、「ひょっとすると、あの紫煙は防壁の一種だったのやもしれぬ」と独り言のように続けた。
「シエン?」
「墜落する直前、紫色の靄に突っ込んだように見えてな」
「もしかして、飛空船が墜ちたのはその靄が原因なのか?」
「確証はないが、その可能性は高い」
「じゃあ、それもザネマが」
「十中八九そうであろうな。魔導士は各塔に三家系ずつしかおらん。ミトシボとザネマとやらが同じ地域に住んでいるだけでも稀有なことなのだ。さらに別な魔導士まで近くにいてたまるものか」
「つまり、ここはザネマが住んでいるシッマってことか」
右肘を腰の辺りに固定し、チャムニャンの助言通りに足元付近を照らしながら俯き加減に歩いていたラナクは、突然、前頭部を硬い物体にぶつけて「がッ⁉︎」と声を上げるや、反動で体勢を崩して地面に尻餅をつくなり「だはッ!」と間の抜けた声を漏らした。
「痛ぇ!」
「まったく、なにをやっておるのだ」
ラナクが左手で額を押さえながら、「今なにかに頭をぶつけて」とチャムニャンの乗った右手を伸ばしていくと、上方から下へと向かって無数に突き出している、緑青色をした八角柱状の結晶が光の中に照らし出された。
「これは……煌空石が上から生えてる、のか? 一体どうなって」
「おそらく、ここは島の土台から張り出した部分なのであろう」
立ち上がったラナクは、「じゃあ、地表部分へ行くには」と右手をさらに上へと伸ばしながら頭を反らしていき、「この結晶の崖を登らなきゃいけないのか」と嘆息を漏らした。
「そう急くなと言っておろう。まずは周囲を探るのだ。横穴があるやもしれぬではないか」
「そんなものが都合よくあるとは思えないけど」
ぶつぶつと文句を言うラナクに、チャムニャンが「断言はできぬが、ある可能性は高い」と言い、「ここに他の皆が投げ出されていないとすれば、横穴のようなものがあると考えるのが普通であろう」と続けた。
「だとしたら、皆なんで俺のことは起こしてくれないんだよ」
「さぁな。おぬしの人望のなさではないか」
チャムニャンの言いように眉間に皺を寄せたラナクが、「人望のなさって……俺は別に、誰にも嫌われるようなことは」と言いかけ、数日前にシャンティを怒らせてしまったのを思い出して口を噤んだ。
足元と頭上を交互に照らしながら、煌空石の結晶の崖に沿って歩いていたラナクは、チャムニャンの「見よ」という言葉で足を止めた。
「まさか、本当にあるなんて」
チャムニャンによって照らし出された先には、ラナクが腰を屈めなければ通れなさそうな小さな横穴が開いており、それが地表まで続いているかは判然としないものの、ただの窪みのようなものでないことだけは見て取れた。
ラナクが歩き出そうとすると、チャムニャンが「待て、ラナクル。何者かがいる」と制し、手のひらの上でぴょんぴょんと興奮したように飛び跳ねながら、「そこのおぬし。何者ぞ」と動作にそぐわぬ鋭い口調で言った。
ほどなくして、横穴の奥から濃灰色の汚らしい毛並みをした、ラナクの膝ぐらいの背がある小動物らしき生き物が、身体を左右に揺らす特徴的な二足歩行でとぼとぼと姿を現した。
「おぬし、ザネマの使い魔か?」
チャムニャンの問いに灰色の異形は答えず、しばらくラナクたちを体毛に埋もれた卑小な黒い眼球で見つめていた後、唐突に踵を返すや現れた時と同じような歩き方で奥へと引っ込んでしまった。
「言葉がわからないのかな?」
「むぅ。使い魔には人語を解さぬ連中も多いからな」
「どうする?」
「ここ以外に横穴はなかった。崖を登るのが嫌なら、他に道はあるまい」
「なぁ、罠ってことは考えられないか? なんだか胸騒ぎがするっていうか」
「なに、少なくとも先ほどの奴は姿を現しておる。罠に嵌めるつもりであれば隠れているはずであろう。過剰に警戒する必要はないと思うが」
ラナクは「ふぅ」と溜め息を吐き、「よし!」と覚悟を決めたように声を上げると、チャムニャンを乗せた右手を前方へと突き出し、穴の奥へと向かう異形の背中を照らして「行ってみるか」と呟くなり足を踏み出した。





