耐えろセリヌンティウス
セリヌンティウスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の友を恨んで死んでやると決意した。
セリヌンティウスはシラクス市の石工である。
数人の弟子は持っているが、市中でさりとて有名な存在ではない。ごく一般的な庶民の一人であった。
そんな彼が突如王宮に呼び出されたのは、三日前の深夜のことである。
セリヌンティウスら一般の人間にとって、国王は恐怖の象徴であった。かつて名君として名を馳せた国王ディオニスは、ここ数年の間にすっかりと変わってしまった。
その原因はセリヌンティウスのあずかり知らぬところであったが、猜疑心の塊と化した王は、謀反を企んだと疑いをかけて次々と人を殺すようになった。
初めは妹婿、次は自らの息子、皇后や、賢臣と名高かったアレキスまでも処刑した。
そのような恐ろしい暴君が、いったい何の用件で一介の石工であるセリヌンティウスを呼び出したのか。
王宮は、これが本当に一国の王がすむ場所かと思うほど陰鬱な気に満ちていた。
玉座に鎮座する暴君は、口元にニタリと残虐な笑みを浮かべている。そしてその傍には見覚えのある男が一人。
「メロス!」
「セリヌンティウス!」
セリヌンティウスは、竹馬の友との思わぬ再会に喜んだ。しかし、同時に得も言われぬ不安が彼を襲った。
良く見ればメロスの傍には屈強な衛兵が控えている。彼が何事かをやらかしてしまったことは、想像に難くない。
暴君はそんなメロスとセリヌンティウスを、わざわざ王宮に呼び寄せてまでひきあわせたのである。いったいなぜ。
「セリヌンティウス。君の命をくれ」
メロスの言葉に、セリヌンティウスはまさに石化した。竹馬の友、無二の親友、そんな相手の為なら命もいらぬ。その覚悟はしてきたつもりであったが、あまりに事情が呑み込めない。
メロスは語りだした。自分が暴君を暗殺しようとし、捕えられたこと。妹の結婚式に出席するため、処刑まで三日間の猶予を貰ったこと。そしてもし三日後に帰ってこなければ、身代りにセリヌンティウスを処刑するよう願ったこと……。
(嗚呼……!!)
セリヌンティウスは叫びたかった。昔から単純な奴だと思っていたがここまでとは……!
しかもメロスは、暴君を暗殺するために何の工夫もしなかった。買い物袋を背負ったままの姿で堂々と正門から侵入し、たちまち逮捕されてしまったという。
いまどきそんな刺客がいるものか。正直なのも結構だが、あまりに先を考える力が無さすぎる。
あまつさえ妹の結婚式のために親友を身代りにしようと言うのだ。
このときメロスの頭の中で、妹の結婚式>親友の命 という不穏極まりない不等式が組み立てられていたのは間違いない。
「セリヌンティウス……」
すがる子犬のような目つきで見つめてくる親友に対し、セリヌンティウスは黙ってうなずく事しかできなかった。
メロスという問題児を親友としてしまった後悔。しかしその親友を裏切ることのできない自らのお人よしぶりを嘆きながら……。
メロスは喜び勇んで故郷へと帰って行った。
代わりに獄舎につながれることとなったセリヌンティウスの表情は暗かった。
今日この日まで続いていた、平凡ながら平和な生活が、一人の人間の余計な行動によってあっという間に打ち砕かれた。
さらに三日後にはこの世とも別れなければならないかもしれない。そしてその生死を握っているのは、セリヌンティウスをこの境遇に叩き落としたメロスその人なのである。
セリヌンティウスが絶望に沈んでいる時、一人の面会があった。セリヌンティウスの弟子、フィロストラトスである。
「先生。なぜこのようなことに。なぜあんな男を信じられたのです!」
涙を流しながら訴えかける弟子に、セリヌンティウスは答えた。
「私が承諾しなければ、メロスがその場で殺されていた。友の死を見るのは、なによりも辛い」
その言葉は、本心からのものであった。
メロスの自分勝手な行動に憤りを覚えながらも、やはり親友は親友である。目の前で殺されるところを黙って見ていられようか。
しかし、獄につながれて少し冷静に考えてみると、結局メロスは三日後に殺されるのである。
そしてもしメロスが帰ってこなければ、メロスは助かるが自分が死ぬ。
先のことを考えていなかったのはメロスだけではなかった。セリヌンティウスは自分の不用意な発言に呆れかえった。
だが、同時にうれしくもあった。私もメロスも王とは違う。あの暴君と、同じ人間であるものか。
突然自嘲気味に笑いだす師を、フィロストラトスは気が狂ったのではと思ったのだろう。心配そうに師を労わる言葉をかけ続けた。
そして、一日目の夜が明けた。
メロスはもう故郷の村についただろうか。メロスの住む村までは約十里の距離である。メロスは深夜にシラクスを出発したのだから、日が高く登った今の時間ならば、もう着いている頃だろう。
しかしここでセリヌンティウスは不安になった。
メロスは妹の結婚式に出たいと言っていた。しかし、その結婚式の日程は、あらかじめ決まっていたのだろうか。
三日と期限を切るからには、今日か明日中に結婚式を済まさなければ、メロスはシラクスに帰ってくることができない。
先のことを考えないメロスの事、妹が婚約していることだけを思い出し、とりあえず三日以内に無理やり結婚式をしてやろうとでもかんがえたのではあるまいか。
そう疑いだして、セリヌンティウスは思い直した。
いやいや、さすがのメロスもそこまで段取りの悪い奴ではない。死を間近にすると、人間は悪いほうへと考えてしまうものだ。
今日も面会に来たフィロストラトスが心配そうにしていたが、セリヌンティウスは笑って、弟子を逆に励ましていた。
そうとも、私がメロスを信じず、誰が信じる。
その夜メロスは、村人たちに結婚式を明日にしてくれと懇願していた。
二日目、順当にいけば今日中には結婚式を終わらせ、村を出発しないとセリヌンティウスの命が危ない。
セリヌンティウスは、今頃は幸せの絶頂にあるであろうメロスの妹の姿を思い浮かべていた。
最後にその姿を見たのは二年程前であった。まだ幼さは残るものの美しい顔立ちで、将来この娘を妻に持つ男がうらやましいとさえ思ったものだ。
確か年齢は、今年で十六歳になるはずである。
両親は早くに亡くなっていたため、彼女の家族は兄であるメロスただ一人であった。そのたった一人の家族が、殺されるためにシラクスへと去らねばならない。
「不憫なことだ」
思わず言葉が口をついて出た。
「不憫なのは先生の方です!」
またしても来ていたフィロストラトスがすかさずツッコミを入れる。
せめてもの幸福は、その妹が結婚するという事だろう。
セリヌンティウスは、自分の境遇も忘れて、その薄幸なメロスの妹を憐れみながらその日を過ごし、眠りについた。
メロスは豪華な祝宴に酔いしれた後、そのまま寝た。
三日目の朝が来た。この日セリヌンティウスの獄舎に現れたのは、フィロストラトスではなく、暴君ディオニスであった。
「メロスは帰ってこぬようだな」
暴君は嬉しそうに笑って言う。
「期限は今日の日没まで。メロスは必ず戻ってきます」
そう言いかえしたが、セリヌンティウスは少しずつ不安になってきた。
たとえメロスが戻ってくるつもりであっても、この暴君が密かに妨害の刺客を放っている可能性も捨てきれぬのである。
なにしろ暴君の望みは、人がどれだけ信用できないかという事を、セリヌンティウスを処刑することで国民に示すことなのである。
正午を越え、日が傾きかけてもメロスは現れなかった。
暴君は嬉々として、セリヌンティウスを十字架に張り付けた。
セリヌンティウスは、赤い夕焼けに目を細めた。美しい景色が、まぶたの奥に焼き付いてくる。
毎日見慣れていたシラクスの夕焼け。何の変哲もないはずの景色が、これほど美しいものだとは、セリヌンティウスは知らなかった。
同時に、もはや避けうるすべのない絶対的な死に、セリヌンティウスの心は深く乱された。
くそったれめ! セリヌンティウスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の友を恨んで死んでやると決意した。
メロスの身代わりを承諾したこと、その行為自体は素晴らしいものだったと今でも思う。しかし、何の罪もない人間が、友の残虐なる行為によって命を奪われねばならないとは、なんと理不尽な話であろう。
「民よ見よ! メロスと言う男は卑怯にも友人を身代りにして逃げ出した! これが人間だ! これが浅ましき人間の本来の姿だ!」
暴君の演説が始まった。もはやだれも、メロスが帰ってくると信じている者はいなかった。
沈みゆく夕日に、セリヌンティウスは消えゆく命を見た。最後に残った一片の光と共に、セリヌンティウスは現世を去ることになる。
不思議なことに、先ほどまでめらめらと燃えていた憎しみの炎は、まるで日の光と連動するかのように、少しずつ小さくなっていった。
さらば世界。さらば友よ。いつかフィロストラトスが伝えてくれる。セリヌンティウスは黙って死んでいったと。
「刑を執行せよ!」
暴君の声に、セリヌンティウスは静かに目をつぶった。誰もが、セリヌンティウスの死を覚悟した。しかしその時、何かをわめきながら、群衆をかき分けて処刑台へと近づく一人の男が現れた。
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
男は枯れ果てた声で叫んだ。
そう、彼は約束を守った。メロスは三日後の日没直前、ついに帰ってきたのである。全裸で。
セリヌンティウスは、すんでの所で解放されたのである。
「セリヌンティウス」
メロスは眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」
セリヌンティウスはすべてを察した。おそらくメロスは、一度あきらめようとしたのだろう。だが慙愧の念に堪えかねて、血を吐くような試練を潜り抜けて戻ってきたに違いない。
セリヌンティウスは、メロスが何故フルチンなのかという問題は置いておいて、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。
そして、メロスにこう語った。
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
本当の所は一度ではないが、本気でメロスを恨んだのは殺される直前であった一回のみである。だからそういうことでいいのだ、とセリヌンティウスは思った。
メロスは、腕に唸りをつけて思う存分セリヌンティウスを殴った。思った以上に体力が有り余っている様子のメロスに、セリヌンティウスはちょっとだけメロスの必死さを疑った。
だが、これで友情は達成された。二人はひしと抱き合った。お互いに、友である相手をこれほど愛しく思ったことはなかった。
群衆の歓喜の声が、刑場に広がっていく。その様子を見ていた国王ディオニスの表情は、ついさきほどまでとは一変していた。
王は静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
暴君は生まれ変わった。メロスとセリヌンティウスの友情が、国王ディオニスの心に変化を与えたのだ。
「万歳! 王様万歳!」
群衆たちは、久方ぶりに国王を讃えた。手を振ってこたえる国王の姿には、暴君として名を馳せた面影はどこにもなかった。
そのとき、ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、意味が分からない様子でまごついている。
セリヌンティウスは呆れた。馬鹿だ馬鹿だと思っていたがここまでとは……。
「メロス、君はフルチンじゃないか。とにかく前を隠せ」
メロスは赤面した。
―完―