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私の天職は歌姫のはずですが  作者: 江藤樹里
3章 月下の牙

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23 月下の牙が守るものですが


 ひやりと冷たい水に頭から突っ込んで、意識を一瞬だけ手放したような気がした。口から空気の泡が出るその感触に私は自分を繋ぎ止める。


 目を開けてみれば昏い水底に差し込む月光で大蛇の鱗が反射して光るのが見えた。セシルの金糸のような髪が揺れる。私は急いで水を掻いた。


 指先から感覚がなくなっていく。肺の中の空気も少ない。けれど此処で私が上に戻ってしまったら、セシルは二度と戻らないと私は確信していた。


 大蛇は鋭い目で私を見ている、気がした。暗くて水の中では視界もぼやけてよく分からないが、大蛇はセシルを大切そうに抱えている。それなら取り返しに来る私の動向を注視するだろうと思った。


 水は冷たく、けれど柔らかくて私は其処に優しさを覚えた。長らく大蛇を包んでいた湖の水だ。勇者に封じられたとしても、眠ることを許してくれた場所だ。きっとこの水は大蛇の味方だろう。それでも私を拒みはしない。その内に飛び込んだなら等しく抱き留める、そういう場所だ。


「セシル」


 声にはならなかった。唇だけを動かして私はセシルに呼びかける。冷たい指先が冷たいセシルの頬に触れた。セシルは目を開けて眉根を密かに寄せると首を横に振る。行かない。そう返事をしたように感じた。


「戻りましょう」


 私は微笑んだ。心の底からセシルと一緒に帰りたいと願っているのが伝わるように。けれどセシルは首を振り続ける。私も同じように首を振った。浮こうとする体に抗って足を動かし、私はセシルに顔を近づけた。触れていた頬から両手をずらして彼の髪を撫でる。怪訝そうにする彼に私はまた微笑んだ。


「セシル」


 私は再度出ない声で呼びかける。尚もセシルは首を振った。


「帰る場所なんて、ない」


 セシルの唇が動く。本当にそう言ったかは私には分からないけど、少なくとも私にはそう言ったように見えた。もしもそう言っていたとするなら、何て悲しいことだろうと私は胸が痛んだ。


 これまでのことから帰る場所がないのは嘘じゃないのだろうと思う。アマンダが彼を育て、自力で生きていくために彼は何でもしてきたと言っていた。人に頼らず、魔物と過ごすことを選んで。時にはナイフを突き刺して。そうまでして彼は生きてきたのに。


 此処で眠るのかと問いたい私の胸の内を読んだのか、セシルは悲しく笑った。良いんだ、此処で終わると声なき声が聞こえた気がして私は思わず腕を伸ばしてセシルの頭を抱き締めていた。そのまま私は大蛇を向く。


「あなたは彼を守りたかったのね。だから安全な此処へ連れてきた。でも、お願い。返して。彼を、此処から帰して」


 まだ、と私は唇を動かして必死に訴えた。


「まだ、セシルには生きていて欲しいの」


 それはただの我儘で、ただの願いだった。生きていくことは大変で、彼はそれをとっくに経験していて、それでも私は彼にまだそれを続けて欲しいと強いている。ともすれば此処で大蛇に優しく抱かれて眠りに就く方が穏やかで静かなのかもしれない。決して褒められたことで生を繋いできたわけではないだろう彼を生かそうとするのはもしかして間違っているのかもしれない。けれど私は、セシルを見捨てることはできなかった。


「お願いセシル、生きて。願って」


 私だけが強く願っているのだとしても。生きて欲しいと願う存在が確かにいることが彼に伝われば良いと思う。


 思い出してセシル。貴方はエミリーのためにずっと側にいてくれたわ。チャーリーに危害を加えないよう、エミリーが傷つかないよう宥めてくれていた。エミリーを一緒に探してくれた。アマンダに頼まれたからだとしても、拒否をしなかったのは貴方がそうすることを選んでくれたからだわ。そしてそれはもしかして、貴方がして欲しかったことではないの?


 ごぼ、と最後の空気が音を立てて私の口からいなくなった。肺の中は空っぽだ。意識が水に融けていく。体から力が抜けるのを感じた。セシルが遠ざかっていく。私の体が浮いているだけだと思い直し、私は最後の力を振り絞って笑った。セシルが最後に見る私は微笑んでいると良い。


 貴方を脅かさない人間もいるんだと知って欲しかったけど、最後まで追いかけてきて自分の望みを押し付ける人間にしかなれなかったかもしれない。ごめんなさい、セシル。あのお祭りの夜と結局同じことをしてしまったのかもしれないわね。


 ぐっと腰を抱えられ、私の体は一気に水から外へ出た。卒然に入ってきた空気に私の体は反射的に空気を求め、ロゴリの泉で神様に沈められそうになった時と同様に咳き込んだ。その間にも私の体は岸に押し上げられ、頬にぽたぽたと冷たい雫が落ちてくるのを感じていた。


「ライラ!」


 ロディとラスの声がする。私ひとりの力では戻ってこられる筈がない。何とか咳を抑え込もうとしながら私はうっすらと目を開いた。月の光に照らされたずぶ濡れの天使が私に馬乗りになりながら見下ろしている。冷えからかカタカタと震えるその手に私の腰のナイフを掲げながらも、灰色の目には怒りとも怯えとも期待とも取れる色が見える気がした。


「離れるんだ!」


 ロディの声がする。あぁ、心配してくれている。その心配は私に向けてくれたものであるだろうけど、其処には間違いなく彼に向けた心配も含まれている。私を傷つければ、貴方だって傷つくのよ、セシル。


「セシル、おかえりなさい」


「……っ、お姉さんは、変な人だ」


 絞り出すように掠れた声がする。そうね、と私は肯定した。


「どうして、僕なんかを追いかけて来たんだ」


「貴方に生きていて欲しいと思うからよ、セシル」


「こうしてお姉さんを殺そうとしてるのに?」


「嫌ならやめられるのよ、セシル。貴方は選べるの。今までもそうしてきたように。けれど今までとは違う選択だって、貴方にはできるのよ」


 私は(かじか)んで震える手を伸ばしてセシルの膝に触れた。


「貴方がしてきたことは消えないわ。でもこれからもするかもしれなかったそれを、取りやめることはできる。貴方がそうしたいと願うなら、貴方は変われるわ、セシル」


 大丈夫、と私は口にして笑おうとした。震えていてできなかったけれど。


「大丈夫よ、セシル」


 私は腕を更に伸ばしてセシルの腰を抱き寄せた。体勢を崩してセシルは私に倒れ込んでくる。慌てて放ったナイフが遠くの砂利に当たる音がして、私は息だけで笑った。


「ありがとう、セシル」


 鎖骨の辺りに乗っかったセシルの頭を撫でながら私は言う。お互いの胸が接しているせいか、とくん、とくんとセシルの鼓動が響いてきた。セシルにも私の鼓動が伝わっているだろうか。もぞ、と動いたセシルが控え目に私を抱きしめてくれたような気がして私の胸には愛おしさが込み上げた。皆が駆けてくる音を聞きながら私はセシルを震えながら抱きしめる。お互いに冷えた体では熱を奪い合うだけだろうけれど、私は確かにセシルの生きる意志を感じたのだった。


「ライラ!」


 ロディが一番に辿り着いて私のすぐ横で膝を折る。私はロディを見上げたけれど、ロディの顔はよく見えなかった。月の光に照らされて銀のような髪が金に見えて、ただ綺麗だと思った。


「ロディ、ごめんなさい。セシルを助けて」


「あぁ、勿論キミも助けるさ、ライラ。まったく無茶をする」


 ロディが早口で何かを唱えた。暖かな空気に包まれて、私は安心する。視線をずらして湖を見れば、大蛇がこちらを見ているような気がした。私は大蛇にも微笑んだ。


「ありがとう、セシルを守ろうとしてくれて」


 月下に光る牙が守ろうとしたのは、自分の力で頑張ってきた少年だった。少年の叫びに呼応して現れた大蛇はただ、助けを求める声に反応しただけなのかもしれない。


 私には大蛇の声は聞こえないし、表情も読み取ることはできない。けれど大蛇は満足そうに笑った気がした。そして私は暖かなロディの魔法に身を委ね、意識を手放したのだった。






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