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私の天職は歌姫のはずですが  作者: 江藤樹里
3章 月下の牙

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22 現れたヌシですが


 両脇から腕を差し込まれて強制的に立ち上がらざるを得なくなり、私は何が起きているのか理解できないまま目の前のセシルが遠くなるのを見ていた。ラスの硬い胸当てが私の後頭部に当たる。私は驚いてラスを振り返るように見上げた。


「素晴らしい反射神経だ、ラス」


 ロディの声がして、私は反対へ首を(ねじ)りながらロディの顔を見ようとする。それから二人は私を助けるために無理矢理に引っ張っているのだと遅れて理解した。


「この魔力のうねりは何だい」


 ロディが軽口のような口振りでアルフレッドに尋ねるけれど、アルフレッドも答えを持たない様子だった。駆けてきたドゥーグが低く唸り声をあげている。


「……ヌシ、だ」


 まだ迷うようにアルフレッドは口にする。そうでなければ良いのにと願うように。


 私は放心したように腰を抜かしてその光景を見ていた。ラスは私が動かないのを認めると手を放して背中の剣を抜く。ロディは早口に呪文を唱えて杖を掲げた。優しい風が頬を撫でるけれど、今までのような安心感はない。ドゥーグとアルフレッドは私たちよりも少しばかり前に出ていた。オリビア達は私より後ろで同じように腰を抜かしているようだ。


 セシルは体をくの字に折り曲げて未だ苦しんでいる。周りは恐らく見えていない。セシルの右手にある湖の水が波打ち、岸に激しく打ち寄せていることにも、水柱が上がって段々と背を伸ばしていることも。


 私は湖を呆気に取られながらただ見ていた。首が痛くなるほど見上げた水柱が渦を巻くのをやめ、巻き上げられていた水が辺りに降り注いだ。冬の近い湖の水は冷たく、ロディが咄嗟に杖を振って私たちの頭上で風を強く吹かせて散らしてくれなければ頭から被っていただろう。


 水柱の中から現れたのは巨大な大蛇だった。森の中で見かける蛇でもこんなに大きくはない。月光に鱗のひとつひとつが反射し、体をくねらせた大蛇が威嚇するように鋭い牙を覗かせてこちらを見ている。


「大きすぎる……」


 ラスが困惑したように呟く声が聞こえた。私も同感だけど、こんなに大きな蛇にどう太刀打ちすれば良いのかまるで思いつかなかった。けれどオリビアたちを危険に晒すわけにはいかない。それにセシルも今は無防備な状態だ。


 蛇が声なき声で叫んだ気がした。空気を震わすそれは私たちの体を震わせ、恐怖に身を(すく)ませる。私は自分の肌が細く引っ掻くように裂かれた気がして頬に触れたけど、気の迷いなのか血は流れていなかった。


(ヌシ)が起きたの……?」


 私は恐る恐る尋ねた。誰も明確に返事はしないけれど、誰も否定しないことが雄弁な返答だった。その昔、主を封じた勇者の魔法の剣はない。勇敢な勇者だっていやしない。それなりに勇者の“適性”がある私と、蹲ったセシルだけだ。


 今夜、此処では様々な人間の感情が大きく動いた。感情豊かな人間が近くにいると主を刺激してしまうからとアルフレッドは私を此処から遠ざけたのに、今夜は誰もが此処へ(つど)った。ロディは時間を気にしているようだったけど、長居しすぎたのかもしれない。


 主を、起こしてしまった。


 大蛇はお祭りの劇で伝えられてきた通りの姿だった。数人の黒子が動かさないとならないほどの大きさはでも、実物には届かない。張りぼてで出来た大蛇を遥かに凌ぐ巨大さで私たちの前に立ち塞がっている。その鋭い牙が誰の体を刺し貫いても、その大きな口が誰を呑みこんでも、太い胴が誰を締め付けても、その尾が誰を振り払っても、おかしくなかった。


 大蛇はゆっくりと移動を開始した。私たちはさながら蛙のようにその場に縫い止められ、どんな攻撃が飛んできても対応できるように瞬きひとつを惜しむほかない。大蛇はセシルに近づき、ぐるりと(とぐろ)を巻いていく。私は小さく息を呑んだ。それはまるでセシルを閉じ込めて一息に呑み込み、ゆっくりと消化していく準備のようだったからだ。


「あんまり良い状態じゃあなさそうだ。ラス、すまないが風でしか援護ができない。それでも行ってくれるかい」


 ロディの密かな提案に、ラスははっと短く笑って剣を握り直す。


「あの子相手じゃ見捨てるんじゃないかと一瞬でも思ったあたしを許してほしい。当然、行けるよ」


「そんな寝覚めの悪いことするもんか。全ては質の良い眠りから、さ。

 アルフレッド、ドゥーグ、キミらも戦い方には自分たちのやり方があるだろう。邪魔はしない。けど、できるだけの加護は授ける。相性の良い土の魔法が使えなくてすまないね」


 ロディの言葉を受けて、いいえ、とアルフレッドは答えた。充分だ、と言い終わる前にアルフレッドはまた狼の姿へと戻り、ドゥーグと視線を交わし合った。


 何の打ち合わせもなしに、それぞれが示し合わせたように駆け出した。大蛇は威嚇して牙を剥く。月光を浴びてその牙の先には毒液が滴っているのが見て取れた。あの巨体で精製する毒はさぞ強いのだろうと思って私は体を震わせた。


 足の速い狼二匹が先に大蛇の元へと辿り着く。左右からほぼ同時に飛びかかり、片方を対処している間にもう片方がその喉元に噛み付く算段だろう。しかし大蛇は素早く首を振って二匹を弾き飛ばした。その間を縫うようにラスが剣を掲げる。


「っだらあああああ!」


 雄叫びと同時に振るうその剣は、しかし巨体に当たらなかった。間髪入れずにラスは飛び退(すさ)るが蛇の動きの方が速かった。牙を剣で受け止めてラスも弾き飛ばされる。息を飲む私の横で早口で呪文を唱えたロディがラスに向けて杖を振った。ラスが地面に叩きつけられるより先に、ロディの風はラスを支えて着地の手助けをしたように見えた。


 大蛇が咆哮をあげる。シャー! と鋭い声はまた私の肌を薄く切り裂くように駆け抜けて私は思わず両腕で顔を覆った。


「どうにも相性が悪いね」


 ロディの呟きが聞こえて私はロディを見上げる。私の視線に気づいたのか、ロディは苦笑した。水の魔法に強いのは土の魔法なんだと教えてくれるロディが、ラフカ村の魔物を追いかけた際に土の魔法は使えないと話していたことを私は思い出す。


「風は優しいから誰にでも力を貸してくれるんだけどね、水と風は別段悪くもないが相性が良いわけでもない。むしろ水の方が強いなら結局は太刀打ちができない」


 風の力で水面を波立たせることはできても水を押し分けることはできない。ロディの得意な魔法は火と水だと言っていた。同じ水の魔法でも、結局は強い方に飲み込まれてしまうということなのだろう。


「それじゃあ」


 その先を言えなくて私はまたラスたちを見守る。弾き飛ばされても何度も向かっていく彼女たちは、手を変え何度も挑んではいるが蛇本来の素早さに勝てない様子だった。その間にもセシルは優しく締めあげられていく。蹲っていた彼は尾の先で背を撫でられ包み込まれるように(とぐろ)の中に消えていってしまう。


「セシル……!」


 なす術なく悲鳴に近い声を出すことしかできない私はただ見守っていた。そのうちにセシルは驚いたように顔を上げるが、諦めたように目を閉じるとその身を委ねてしまった、ように私には見えた。大蛇はセシルの体に尾を巻きつけると、そのままずるずると湖へ移動を始める。


「駄目、駄目よ、連れてかないで!」


 私は気づけば言い募って腕を伸ばしていた。けれど私の手は届かない。こんなところで伸ばしていたって、届くはずがない。


 思わず駆け出した私は腕を伸ばして大蛇に近づく。無謀だし、背後でロディの焦った声がするのも聞こえたけれど、足は止まらなかった。


「セシル! セシル! 目を開けて! 手を伸ばして! 諦めないで!」


 叫びながら駆け寄る私の眼前に、大蛇の顔が迫った。月下に光る牙が目の前一杯に広がったその時、ぱん、という音と共に視界を昼以上の光が広がった。


 痛みを訴える鋭い悲鳴とあまりの眩しい光に、私は思わず体を竦ませたけれど足を止めはしなかった。蛇の目が見えるのかは分からない。光に反応したのか、音に反応したのか、それとも別の何かに反応したのか私には分からないけど、足を止めれば蛇の速度なら私などひとのみにできるだろうから。


「セシル!」


 辿り着いた私は懸命に腕を伸ばした。主の体は思ったよりも温かく、滑らかな鱗を通して熱を感じた。私の体ほどもありそうな太さの胴を乗り越えるように私はセシルに届くよう手を伸ばす。セシルは目を開き、嵐のような灰色の目が私を見た。


 背中をぐいと押されて私の体は主の胴に挟まれ圧迫された。息が詰まった次の瞬間。


 私は冷たい水に飛び込んでいた。




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