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私の天職は歌姫のはずですが  作者: 江藤樹里
3章 月下の牙

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14 夜闇の天使ですが


 周りの賑やかな喧騒はお祭りの雰囲気に合った明るいもので、誰も私の心の中の不安を感じることなんてできないんだろう。この誰もが笑う中を、怯えて歩く私がいるなんて想像さえも。


 私はセシルの金の髪を眺めながらも逃げ出すこともできず、ただその後ろを歩く。いつも誰かの後ろを歩いてばかりだと今日もアルフレッドの後ろを歩いて思って間もないのにと私は内心で苦笑した。でも逃げ出さないのは私の意思だ。逃げ出したいくらい怖い思いをあの時に刻み付けられたままでも、どれだけ怖くても、私は逃げ出さない。セシルがまだ明確に私を傷つける意志を見せないからだ。


 セシルは果物を鼈甲(べっこう)で包んだ飴を舐めながら、私の前を優然と歩く。セシルは教会前の広場に戻ってきた。天使像の前で足を止めたセシルは、やはり天使のように綺麗な笑顔を浮かべて私を振り返る。


「お姉さん、お祭りが始まる前にやっていた劇は見た?」


 セシルは舞台へ目を向ける。長い睫毛に縁取られた目は、今は少女達の踊る舞台を真っ直ぐに見ているけれど、私には別の何かを思い起こしているように見えた。


「ええ、見たわ」


 私は答える。声が震えそうになるけれど、セシルの目は穏やかであの日見た怒りは探せない。でもあの日も最初から怒りを見せていたわけではなかった。モーブの腕を千切ろうとしたその瞬間まで、この少年はその怒りを隠してみせた。


「お姉さんなら何か違う感想を抱いたんじゃないかな。この村の人とは違う、そう、僕に近いような感想を」


 魔物寄りでしょう、とセシルが笑んで続ける。私は言葉を飲み込んだ。その目は何かを諦めたくて、けれど諦めきれないような切実さで私に求めているような気がした。私は何と答えるべきなのだろう。セシルの望む答えは何となく分かるように思う。きっと勇者の冒険譚のほとんどに嫌悪を示すだろう彼なら、今回の劇も同じ筈だ。魔物を虐げ、人に感謝され、後世に語り継がれる。人の目から見た一方的な出来事は、人の都合でできている。それは当然なのだけれど。


 私が抱いた感想は不安だった。アルフレッドから聞いた湖の主が目覚めるのではないかという不安だ。きっとセシルの抱いた感想と近くはないし、かといって村の人と同じ感想というわけでもないだろう。セシルの求めるようなものではない。


「私は今でもあの主が湖にいるんじゃないかと思うの」


 正直に答えた私にセシルは首を傾げた。飴を口に含んでぺろりと舐める。貴方の求めるものとは違うかしらね、と私も笑ってみせた。


「勇者は本当に主を倒したのかしら。倒せなかったのか、倒さなかったのか、私には判らないけれど。主が完全にいなくなったわけではないから、村の人は不安から倒したという話を作って村に伝えさせたのかもしれない。それか、忘れないために。かつて主がいたことを忘れないようにと劇を作ったのかも」


 何のために、という言葉は続けなかった。眠っているだけならいずれ目を覚ますこともあるかもしれない。それが正しく残らなかったのだとしたら。不安から、もしくは悪戯に恐怖を与えないように。


「――聞こえるの?」


 セシルが小さな声で問うてきた。周りの喧騒に掻き消えそうな、すぐに紛れて見失いそうな小さな声だった。


「何が?」


 私も問い返す。声が、と返したセシルの目は揺らいでいた。けれどふいと視線を逸らすとセシルは頭を振った。金の細い髪がサラサラと音を立てるのが聞こえてきそうだ。


「そんなわけないか。お姉さんはきっと何も捨てたことなんてないでしょう? 聞こえるわけがないんだ」


「セシル?」


 思わず手を伸ばした私から距離を取るようにセシルは一歩下がった。私は手を下ろす。


「捨てられる前に捨てるしかなかった」


 ぽつりと呟いたセシルの言葉は、私の胸を強く締め付けた。何も知らない。けれどそんな私をこんな息が詰まるくらいの気持ちにさせるそれは、セシルをきっとずっと苦しめているものだ。私は直感した。そして簡単に手を伸ばせるものではないことも。


「捨てる必要のなかったお姉さんには、聞こえる筈なんてないんだ。忘れて」


 そう言ってセシルは笑った。とても綺麗なそれは、色々なものを諦めてきた笑顔なのだ。人から離れざるを得なかった少年が、これだけ綺麗に笑えるなら。


 天使に近付いたって不思議ではない。


「セシル」


 私は一歩近づいてその手を取った。セシルが驚いて目を見開く。持っていた飴が落ちて地面の砂がついた。私は両膝をついてセシルを見上げる。


「私は貴方じゃない。貴方とは違うわ。だけど解ることを諦めたくないの。貴方のことを知らないのに何か言うなんてできない。だから貴方のことを教えて。貴方もどうか、解ってもらうことを、諦めないで」


「な……っ」


「無理強いはしないわ。貴方を傷つけるつもりもない。きっと話すことで貴方は傷つくけれど、話さなくても貴方はどんどん傷ついていく。溢れる前に出してしまったって良いわ。溢れることで取り返しがつかなくなる前に」


 ばし、と音がして私は遅れてきた痛みに自分の手をもう片方の手で包んだ。不躾に、不用意に触れた結果がこうなると解っていたけれど、それでも触れずにはいられなかった。私もその傷に触れる覚悟があると彼にも知ってもらいたかった。


「分かったようなこと、言わないでよ」


 セシルの目には憎悪が滲んでいた。それなのに、泣きそうな顔をして私を見ている。


「僕を知ったって、何も変わらない。言ったよね、憐憫なら要らないよ。近付かないで、僕に、」


 人を恨ませたままでいさせて――。


「セシ……」


「ライラ!」


 突然腕を掴まれて立たされた。ラスの声だ、と認識するのとラスが剣の柄に手を伸ばしたのは同時で、私は思わずそのままラスに抱きつく格好で止める。やめて、と言うか細い声が聞こえた。私の声だった。


「何でもないの、何でもないのよラス。私が悪いの。土足で踏み込んだのは私なのよ」


「ライラ……?」


 ラスの困惑する声が降ってくる。周りが私たちの様子に気づく前に私はこの場を離れなければと思っていた。騒ぎを起こしてはいけない。注目されてはいけない。私たちはエミリーの呪いを解くために明朝、出なくてはならないのだから。


「ごめんなさい、セシル。謝るわ。でも決して嘘ではないのよ。それだけは信じて欲しいの」


 私の言葉にセシルは俯いた。ばっと振り返ると夜闇の中に走って行ってしまう。追いかけることはできず、私はラスにしがみついたまま息を整えた。ラスは困惑した様子だったけれど、何も言わずに剣の柄から離した手で私の髪を撫でる。


「心配かけてごめんなさい、ラス。本当に何でもないの。私が悪かったのよ。だからロディには言わないでね」


 ふぅ、とラスが息をついて分かったよと答えてくれる。もう一度お礼を言って私は目を閉じた。



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