8 嵐が去ったようですが
「みんな、無事?」
ラスが全員を見回して声をあげる。それぞれ状況がよく呑み込めないまま微かに頷き、かすり傷程度で済んだことに首を傾げた。
「何だったんだ……? 誰か分かるか?」
キニが頭を振りつつ尋ねるが、誰も答えられなかった。何も見えなかった、とパロッコが言うとラスが同意する。
「あいつらの気配はなくなったみたいだね。何が何だか分からないけど」
ラスも眉をひそめて何事か考えるが、ハルンが駆けて行く方を見てすぐにハッとした。
「ロディ、モーブは」
首を巡らせてラスは尋ねる。光の壁の向こうは風の影響を全く受けなかったようで、ロディもモーブも髪の毛ひとつ乱さずにそこにいた。
「ボクもモーブも頑張ってはいるけどね。薬草を大量に煎じてくれるかい」
敵がもういないことを確認したロディが光の壁を解除しながら誰にともなく頼んだ。傍に駆け寄ろうとしていたハルンが身を翻して馬車に走る。身軽に飛び乗ると袋を漁って薬草を大量に取り出し、水筒と鍋も取りだした。
「落ち着けハルン。火が先だ」
兄に止められ、ハルンは睨むようにキニに視線を投げる。私は何が何だか分からないまま困惑していた。パロッコに声をかけられて、私は彼女と巻き上げられ風圧に耐え兼ね折れた木の枝を拾い集める。その間ハルンは鍋に水筒から水を入れ、キニは薬草をいくつか見繕ってすりつぶした。ラスは周囲を警戒しながら、集めた枝に火打石で火を入れてくれる。どんどんと枝を放り込んで大きくした火の周りを石で囲んで鍋をかけた。沸騰したお湯にハルンが薬草を入れる。葉はくたりと力を失い、お湯に緑の色素が溶けだしていく。薬草をぐつぐつと煮込みながら、ハルンはちらちらとロディとモーブに視線を向けていた。
「今夜は此処で野営か」
キニがラスに確認するように尋ねた。そうね、とラスは頷く。ちらとロディとモーブを見てまだ動かさない方が良いでしょう、と判断する。
「ヤギニカの街までもう少しなら医療魔術師を呼んでくる手もあるんだけど、そろそろ日も沈むし何にしても移動は難しいわね。獣たちの気も立ってるだろうし」
ラスの言葉に導かれるようにして空を仰いだ私は、空が橙色に染まり始めていることにようやく気付いた。怒涛の展開に頭はまだついていっていなくて、ふらふらしている。
「ロディ、煎じた薬草はどうする」
キニが尋ねるとロディもモーブと同じく額に玉の汗を浮かべながら困ったように笑った。
「体温が下がらないように間隔を空けて飲ませる。皆も飲んでくれ」
「懐疑。モーブは大丈夫なのか」
ハルンが思い切ったように尋ねた。誰の目にも大丈夫には見えなかったが、ロディは微笑んでみせた。
「力を尽くすよ。けど皆の怪我までは見られないから、各自の怪我は薬草で対処してほしい。食事の介助も頼んで良いかな」
「当然。任せろ」
ハルンは心配そうに眉を寄せてすぐに頷いた。ハルンは早速と食事の準備を始め、キニはすりつぶした薬草を怪我をした面々に分け与える。それを受け取ってラスは周囲を見て来ると立ち去り、野営の準備に向かった。パロッコも食事の準備を手伝うために休めていた腰を上げる。私は茫然自失のまま、キニから薬草を受け取り、擦りむいた箇所に薄く塗る。傷口にぴりりと痛みが走って少し意識が明確になった気がした。
「ライラ、良ければ手伝ってくれるかい」
ロディに声をかけられ、私は二人の傍に近づいた。キニが椀に入れた薬草の煎じ薬を、寝ているモーブを少し起こして支え、薄く開いた唇にゆっくりと流し込んで飲ませる。防具を外したモーブは衣服を切り裂かれ腕も千切れかけた状態で、私は真面に見ることができなかった。彼の顔の汗をハンカチで拭い、煎じ薬を飲ませることだけに集中した。
飲ませ終わってゆっくりとモーブを地面に横たえた私に、ロディがすまないね、と小声で謝った。
「ボクらは戦闘に慣れてはいるんだよ。それでもああやって、決して多くはないけれど勇者特性を持っていないと傷をつけられない存在がいる。キミを巻き込んでしまったこと、本当にすまないと思う」
私は何と返して良いか分からなかった。いえ、と目を伏せて答えるだけがやっとだ。分かりきっていたことだけど、何の役にも立てなかった。それが何だか凄く歯痒かった。
「ライラ、キミも煎じ薬を飲んで。喉にも良いんだ。それを飲んだら、食事の時間まで歌を歌ってくれないかな。ボクらを励ます歌を」
予想外の頼みに私は驚いてロディの顔を見た。ロディは視線をモーブの腕に向けたまま、それでも口元はいつものように微笑んでいる。冗談で言ったのかとも思うけど、冗談を言うような場面じゃないことは私だって分かっている。
「だけど私、魔力がないし……」
言い淀む私に、構わないさ、とロディは言う。
「魔力があれば歌に乗せて回復を手伝ってもらったりできたりするんだろうけど、キミはそういうのはできないだろう? けれど不思議とね、キミの歌は心地良い。代償もなく痛みや苦しみを鎮めるようなことはできなくても、聴き惚れて痛みを忘れることはあるかもしれない。森の獣たちの昂りを鎮めるためにもキミの歌は良いだろう。それにモーブのためにも、ボクが集中を切らして眠ってしまわないためにも、キミの歌は必要だよ」
教会で歌っていた歌が良いな、とロディは続ける。
「モーブも今はまだ喋れないけど耳は聞こえているよ。熱で意識が朦朧としているかもしれないけど、聞こえてはいるから。癒しを届けるように願い、祈って。それを歌声に込めてくれないか」
全ての命を慈しむように。
そう言われても、私は困惑したままだった。私にそんな力はない。想いを込めれば伝わると信じてはいるけれど、そんな魔法みたいなことはできない。
「さあライラ、お客さんからのリクエストだよ。此処は決して立派な舞台ではないけれど、キミがいつも歌ってきた森の中だ。いつもと何も変わらない。ただ人間の聴衆がいるだけ。求める者がいる限り、リクエストをもらったら歌姫のキミは歌わなければ」
そう言われてしまったら私は歌わざるを得なかった。歌姫になるために彼らに護衛をお願いし、旅に同伴させてもらっているのだから。せっかく歌ってと言ってもらえているのだから。
たとえそれが、初めて戦闘に遭遇した私に対するロディの優しさだったとしても。
私は煎じ薬を喉に流し込むと咳払いをひとつ、ふたつして調子を整え、目を閉じて息を吸った。微かに震えて始まった歌を自分の耳で捉えながら、私はいつもの私を取り戻していく。次に来るフレーズと音の移動を意識しながら、込めたい想いを強く祈る。
どうか、この歌を聞く全ての命あるものが穏やかな夜を迎えられますように。そしてまた、輝かしい朝を迎えられますように。痛みに震えて眠ることがありませんように。苦しみにうなされることがありませんように。
どうか、モーブが少しでも楽に眠れますように。どうか、あの魔物使いの少年が抱えた痛みが緩和されますように。傷ついた全ての命が、癒されますように。
そう願いを込めて歌い終わった私が目を開くと、ロディは穏やかに微笑み、モーブも気のせいか苦痛に寄せる眉間のしわが薄くなったように見えた。陽は傾いて夜の帳が降り、たき火の爆ぜる火花が美しく煌めいた。私は自分の膝の近くにリスのような小動物が近寄っていることに気付いて思わず手を差し出していた。小動物は躊躇いなく私の手に乗り、そのまま腕を駆けのぼって肩に収まる。くるんとしたふさふさの尻尾が頬を撫でて私はくすぐったさに笑った。
「素敵な歌をありがとう。さあ、ご飯だよ。ふさふさしっぽのその子も、食べていくのかな」
パロッコがにっこりと笑いながら私に夕食のスープを差し出した。私の肩に乗った小動物は、めぇーと小さく高い声で鳴く。甘えるような声に私もパロッコも思わず笑顔がこぼれた。私は自分の分のパンを少し千切って小動物にあげた。はぐはぐ、と美味しそうに食べる小動物に私は頬が緩むのを止められない。
「可愛いけど見たことないね。魔物かなぁ」
パロッコの言葉に私も首を傾げるが、害はなさそうなので小動物のしたいようにさせることにした。
「さ、食べたら寝る寝る。見張りはあたしがするから、皆は寝なさい。ロディは寝たら叩き起こすからね」
「手痛いねぇ、ラスは」
ハルンに食べさせてもらっているロディは苦笑いをした。だが現状でモーブの治療ができるのはロディだけだ。眠ってしまってはモーブの治療も進まないのだろう。
「ハルンも心配だろうけど寝るのよ。明日、寝不足のあたしは護衛としてあまり役に立たないだろうから。貴女にお願いするわ」
何か言いたそうな表情をハルンは一瞬浮かべるものの、ラスの言うことも道理と受け入れたのか頷いた。ただ、モーブに薬湯を飲ませてから、と強い調子で主張するからか、ラスもそれは承諾した。
私も起きていても役に立てることはなさそうだったのでお言葉に甘えて横になった。懐に入り込むように小動物がふさふさの尻尾を丸めて一緒に横になる。そのしっぽを撫でながら、私は眠りに落ちていった。