5 ウルスリーの村での再会ですが
ウルスリーの村は朝靄の中で幻想的に佇んでいた。深い霧に包まれて、近くに行かないと建物の影もよくは見えない。けれど今はエミリーが何処か遠くの街まで療養のためオリビアと一緒に村から離れていることになっているらしいから、オリビアが戻ってきていることを知られにくいのは幸いだ。
私たちは静かに進んだ。馬車の音は抑えられないから、なるべく建物から離れて進む。エミリーが呪いを受けてから離れた場所の建物に住まいを移したとオリビアは言う。獣のように唸るエミリーの声を村の人が聞いてしまったら、恐れた村人達に追い出されてしまうだろうからとオリビアは疲れたように笑って言っていた。
「ウルスリーの村には魔物使いの一族がいるんです」
ガラガラと進む馬車の音に紛れてしまいそうな声でオリビアは言う。私とロディはオリビアに顔を向け、言葉の続きを待った。オリビアは村の外れに魔物使いの一族の住む家があること、村の警備を請け負う代わりに村から疎外あるいは迫害されないことを条件にしていることを口にする。村が魔物から守られていることは事実で、村人は恐れながらも食べ物を献上したり衣服を繕ったりしてあげているらしい。
「今は青年がひとり、魔物と一緒に住んでいると聞いています。きっとエミリーの呪いが知れたら、彼に手酷い目に合わされる」
だから誰にも知られてはならないし、誰にも相談できなかったとオリビアは体を震わせた。ロディが手を伸ばすより早く、私はオリビアの固く握られた手に触れた。膝の上に置かれた彼女の手は冷たく緊張して、小刻みに震えている。
「大丈夫、大丈夫です。新月までにはまだ時間があるし、解呪に必要なものもオリビアさんが頑張ってちゃんと集めました。残りのふたつもきっとすぐ手に入りますから」
笑ってください、と私は言う。久々に顔を出すのだから、やっぱり笑った方が良いと思うのだ。笑えるような心境じゃないだろうことは想像がつく。だからといって暗い顔をしていたって良いことなんて起こらない。苦しい時ほど笑うのだ。そうすればいつか、本当に笑えるようになるから。
オリビアは笑おうとしてくれた。唇が震えて口角は上がりきらないけど、笑おうとしてくれたことが嬉しくて私は微笑む。さぁ、と御者を務めるラスが声をあげた。
「何か見えてきたよ。あれがあんたの移り住んだ家で良いのかい?」
白い靄の向こう、朧げながら建物の輪郭が見て取れた。オリビアが肯定する。ご主人が残ってエミリーが脱走しないように日夜、言い方は悪いけれど見張っているという家だ。以前はウルスリーの村はもう少し大きかった。その時に誰かが住んでいた家が残っている。魔物使いの一族が警護してくれるまでは魔物に襲われることも多かったらしい。
馬車を建物の側につけて、私たちは降りる。馬車の止まる音がしても誰かが出てくる気配はない。朝靄に隠れてよく見えなかったけれど、近くで見る建物は風雨をやっと凌げる程度の荒屋だった。窓は板で塞がれて中を窺い知ることはできない。一見したただけではとても人が住んでいるとは思えないような有様だ。この中から獣のような唸り声がしたなら、私はすぐに尻尾を巻いて退散するだろう。
オリビアがそっと扉に手をかける。そのすぐ後ろにロディがつく。万が一エミリーが自由に行動できていて、こちらに理性なく襲いかかってきた時のために。ラスでは傷つけてしまうと危惧したから、風の魔法で怯ませるためにロディが杖を構えて立つ。そして私、ラスと続いた。
このご時世で、女ひとりの旅は大変なものだと容易に想像できるのにオリビアが旅に出てご主人が残ったのは、エミリーが人の姿に戻れる時間に制限があるからだ。月の出ている間だけ、エミリーはエミリーでいられるらしい。つまり、夜が明けた日中、この時間帯のエミリーは呪いに体を支配されていることになる。道具を集めるまでの間、そのエミリーを見張って世話を焼くのはご主人の方が良いだろうとオリビアはご主人と呪術師とで話し合って決めたと言った。万が一のことがあった時に対処ができるのもご主人の方が良いだろうと。
もしも月夜の間に情に絆されて手枷足枷をつけなかったら、もう殺してくれと嘆願されたら、その時にオリビアでは心がもたないと判断したという。それよりも集めるものが明確で、何処にあるかの見当がつきやすいものを探す旅の方が目的があって余計なことを考えなくて済む分、行いやすいと勧められたそうだ。いつ帰るかのあてどない日々を過ごすのは、確かに想像するだけで消耗するだろう。
けれどオリビアが旅に出て一ヶ月と少し、ご主人がもつかというと私には分からなかった。ご主人を知らないというのも勿論だけど、そんな生活で消耗するのはご主人だって一緒だと思うからだ。きっとオリビアも同じことを思っている。だから扉に手をかけたは良いけど、開けることができないでいる。
「さぁオリビア、先に進もう」
ロディが促して、ようやくオリビアは扉を押し開いた。ギィ、と古く重たい音をさせて扉が開く。薄暗い室内に差し込む朝靄の中の光は、室内に舞う埃をキラキラと浮かび上がらせた。
私も首を伸ばして室内を覗き込む。窓を塞がれた室内に光が入るのはこの出入り口以外にない。細く差し込んだ光に浮かび上がったものに、私は息を呑んだ。
床板を深く鋭い爪痕が抉っている。壊れたテーブルに椅子が散乱し、椅子の脚は折れているのが見えた。壁も同じように鋭い爪痕がいくつも残されており、激しく暴れ回ったことが窺われる。そして部屋の奥、細く差し込んだ光に照らされた目は金色に反射し、私は今朝方見た青年と同じその目に呼吸を忘れてしまった。
「……オリビアか?」
掠れた声がして、私たちは声がした方へ視線を向ける。開けた扉の死角になる位置に、男性がひとり立っている。あなた、とオリビアが言葉を漏らして、私は彼がご主人なのだろうと見当をつけた。
ぐるるる、と唸る声がして私はまた部屋の奥へ視線を戻す。それは確かに少女の面影を残しているけれど、確かに獣へ変貌を遂げようとしている途中であるものとも思われた。少女の服を着て、長い髪が頭頂部から流れる。けれど骨格は四つ足の獣のように曲がり、細い手足はまるで毛皮のように細かい毛が表面を覆っている。顔はまだ少女の面影を残すけれど、唇から覗く牙は人の歯にしては長く、金に反射する目は最早人のものではなかった。
「エミリー」
ご主人と思われる男性が声を上げる。その時、よしよしと暗がりから声がしてまだ幼さを残す手が伸びた。頭をゆっくりと撫でるその手に、エミリーは唸るのをやめた。
「怖くないよ。チャーリーの知り合いなら、君のお母さんじゃないかな」
私はまた息を呑んだ。暗がりから出てきたのは、金の髪をした天使のような容貌の少年だったからだ。可愛い顔をした、女の子のような少年。木漏れ日の下で魔物に襲われて泣いていた少年。嵐のような灰色の目を私へ真っ直ぐに向けて、何処を傷つけられたら悲しいかと訊いたあの、魔物使いの少年だ。
「勇者のお姉さんも、一緒みたいだけど」
モーブの腕を千切らんばかりに切りつけたあの魔物使いの少年が、あの日と同じように私を見て美しく笑ってみせた。




