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私の天職は歌姫のはずですが  作者: 江藤樹里
2章 病魔の通り道

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20 思わぬ救援ですが


 私は神様の口から出た言葉に驚いて目を見開いた。動揺して肩を震わせ一歩後ずさってしまったけれど、神様にはその反応だけで十分だったようだ。


「だが青い。勇者の肉はまだ賞味したことがなかったな」


 一歩、神様が近づいてくる。私は震える手でナイフを握り直した。けれどかたかたと震える手ではとても神様に狙いを定められない。


「振り絞り尽くしたか、勇者の娘」


 どうして私の“適性”が判ったのか、疑問に思っている暇はなかった。私は判断しなければならない。次の、自分の行動を。どう打って出るのかを。


「神相手に戦意を失くさなかったのだ、胸を張れ」


 気づけば神様は目の前にいた。艶やかな黒い(たてがみ)が、憎悪に滲んだ黒い目が、私の目の前にある。私はもう、呼吸をするのも忘れていた。


「そして息絶えろ」


 私の視界ががくんと下がった。神様の顔から胴、脚と目に入るものも変わる。腰が抜けたのだと気付くまでに少し時間がかかった。私、腰を抜かしてばっかりだ、なんて自分の情けなさに乾いた笑いが出そうになった。


「いや……」


 カラカラになった喉から無意識に言葉が零れた。掠れた、空気のような声だったけど、神様には聞こえなかったのだろう。私の肩をその脚で押さえつけて、少し離すと勢いをつけて振り下ろした。


 頭を砕く脚力を前に私の腕で防げる筈もない。私はぎゅっと目を固く瞑って意味がないと思いつつも本能で備える。けれど次の瞬間届いたのは、蹄に砕かれる衝撃ではなく大きな咆哮だった。びりびりと鼓膜と空気を震わせる、お腹の底から咆えたその声は獣のものに聞こえた。


 驚いて目を開いた私の視界に入ったのは、咆哮が轟いたすぐ傍へ思わず視線を向けた神様と、その神様に襲い掛かる大きな影だった。暗がりから巨大な影が伸びあがり、神様へ覆いかぶさるように襲い掛かる。獣の短い毛がそよいで、月灯りに浮かび上がるシルエットに私は息を呑んだ。


 丸い耳に丸い尻尾、大柄な体、切り裂かれればただでは済まない鋭い爪、私はそれらに見覚えがあった。ヤギニカの街を出て繰り返されるアメリアの寄り道癖に苦言を呈した時に遭遇した、あの獣によく似ていると。


 ヤギニカの森からロゴリの森までは長い距離だ。どのくらいの縄張りを持つのか、どのくらいの距離を移動できるのか、数日前に遭遇したのと同じ獣なのかどうか、私には分からない。けれどこの獣が今、神様に敵意を持って襲い掛かっているのは明白だった。


 神様はそれでもあまり大きな怪我は負っていないようだ。体格差はあるのに、大きな獣に怯んでいる様子もない。けれど警戒はしているように見える。私の時のような圧倒的な力量差ではないのかもしれない。


 獣は獣で低く唸りながら神様を威嚇していた。神様の脚に脅威を感じるのか少し距離を取る。長い爪が地面の土を抉る。大きな足跡に私は目を瞠った。私の両手を並べても全ては覆えない。


 神様は頭を振った。鬣が揺れて月灯りに動く。けれど目は油断なく獣を見据えたままで、獣は攻め込む隙を窺っているようだった。


「取り戻しに来たか、お前のいる場所など何処にもないと言うのに」


 かみさま、とアメリアはあの時口にした。もしかして湧水の神様が猛威を振るうより前は、この獣がこの森の主だったのではないかと私は直感する。神様の言葉はそんなことを彷彿とさせた。


「何度でも()してやろう。お前のその牙も、爪も、巨躯も、私の前では無力だと思い出させてやる」


 神様が再度頭を振ってぐいっと顔を上げた。こちらを見下すように上げられた顔は私でも分かるほど隙だらけで、挑発されているのが分かった。獣は一層低く唸り、牙を覗かせる。体の大きさも牙や爪も獣の方に分がありそうなのに、攻めあぐねるほど神様は強いのだろうか。


 それでも獣は踏み込んで飛びかかって行った。巨体と同じような咆哮を響かせながら、体当たりを仕掛けに行く。神様は後ろ足で立ち上がり、勢いと体重に任せて獣を踏みつけようとした。お互いにお互いの攻撃を避け、獣も神様も(くう)を掻いた。間髪入れずに神様は再度駆け後ろ足で立ち上がって踏みつけようとする。獣も後ろ足で立ち上がり牙を剥き出した。前足を伸ばし更に大きく見せようとする。神様の蹄と獣の長い爪が振り下ろされ、私は僅かな月灯りにそれらを見ていた。


 爪は確かに神様を切り裂いた、ように見えた。けれど神様は悲鳴ひとつあげず、渾身の力を込めて蹄を獣に振り下ろした。ぎゃん、と悲鳴をあげたのは獣の方だった。巨体ゆえに避けようもない神様の攻撃を胸で受けて(くずお)れるけれど、それでも獣は立ち上がろうとする。そして神様は、獣の頭目がけてまた脚を振り下ろそうとした。


「やめて――!」


 思わず私が叫ぶのと、暗がりの中からリアムの声がしたのはほぼ同時だった。


「――よくやった。後はオレが引き受けよう」




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