18 閨での対峙ですが
思い至って私はぞっとした。もしも、もしも本当に私を生贄としてロゴリの村の人が選んだと言うならば。私ならきっと上手くいくと彼が言ったのが、そういう意味だったならば。
見えない視界が滲んだような気がした。けれど零している暇はない。泣いたって、神様は許してはくれないだろう。
「今までも、こうやって?」
私は震える声を何とか絞り出した。見えているなら私が声を出したって関係ない。神様に話してもらわなければ、この暗闇では何処にいるかさえ分からない。
そうだ、と神様は答えた。反響するけれど、右側から聞こえた気がする。けれどそちらに顔を向けるようなことはせず、私は少し俯いてじりじりと後ろに下がった。転んだ時のまま尻もちをついている私の後ろ手にかさりと何かが触れた。
「一体いつから、ロゴリの村とそんな約束を」
藁だ、と私の頭は手に触れた物の名称を弾き出す。昨夜腰を下ろした、神様が横になった、あの、藁。
「数える必要が私にあると思うか?」
神様の寝床から入口までの距離を私は必死で思い出す。正しい方向へ走ればそう遠くはない。けれどどちらが入口か、暗すぎて分からない。反対方向へ走ってしまえば自分で自分の首を絞めることになってしまう。
「村の人たちは大人しく従ってきたんですか……一度も立ち向かわなかった……?」
神様が低く笑う。私の質問が気分を良くさせたらしい。
「人如きでは、私に傷ひとつ負わせることさえできない」
生きる上で不可欠な水を毒され、けれど元凶に報いることさえできないなら、人は諦めてしまうかもしれない。生贄を差し出して水の毒だけでも許してもらおうとするかもしれない。せめて村人ではなく、やってきた旅人で代用しようと、するかもしれない。
でも私は、ロゴリの村の人がそんなことをすると信じたくなかった。アメリアがお日様に愛された植物のように真っ直ぐに笑って語る村の人が、そんなことをするなんて信じたくなかった。村の事情なんて私はこれっぽっちも知らないけれど。
「私を、どうするつもりですか」
「さて。何処から喰ってやろうか」
神様の楽しそうな声に私の肌は無意識のうちに粟立つ。震える足がちゃんと立つか自信もない。でも私は、此処でやられるわけにはいかない。
アメリアがこのことを知っているにしても知らないにしても、私が此処で命を落としたなら同じことが永遠に続いていくだけだ。また誰かが此処に来なくてはならなくなる。誰かが、同じ思いをすることになる。
「嫌です」
「どの娘もそう口にした」
そして神様はそのどれをも聞き入れずに娘を口にした。此処だったのか、それとも別の場所だったのか分からないけれど、彼女達は泣いただろう。その声を今となっては聞くことができないし、その涙も今となっては触れることもできない。
「足掻いても無駄だ」
かか、と乾いた音がした。その音のすぐ後に神様の声が近くで聞こえて、私は思わず腕を上げて顔を庇う。吐息を感じたような気がしたその瞬間。
ぱん、と大きな破裂音が響いた。先に走った閃光に私は目を瞑りながらも、其処に神様を見た。その後ろにぽかりと夜闇が口を開けているのも。
「――っ!」
神様が息を呑む音が聞こえた。私は両手を前につきながら足を動かす。ずるりと藁を踏んだ靴が滑ったけれど、私は出口へ走った。深い夜闇へ手を伸ばしながら。
アメリアが込めてくれた魔力で、パロッコの贈り物の花が私を守ってくれた。昼間、神様に水へ沈められた時には効果を発揮しなかったけれど、今は私を守った上で道筋さえ照らしてくれた。
暗闇でも見えていた神様の目は、多少なりとも眩んだだろう。けれどあの脚で駆けられれば僅かな差などすぐに縮められてしまう。せめて、外へ出なくては。
走る足が傾斜を捉えた。上へ、と私の気持ちは急く。夜の森は相変わらず暗いけれど、水の流れる音や緑の匂いがして私の意識は明瞭になっていった。甘く芳醇な毒の花の香りは、私の思考をゆっくりと奪っていたようだ。
私は石から草や土を踏んで外へ出たことを知る。どちらへ行けば良いのかはまるで分からない。風が揺らす木々の葉や流れる水の音、虫の鳴く声が溢れる外も、神様の音が反響する閨と変わらなかった。
頭飾りの花はもう私を守ってはくれない。空気中の魔力を集めてまた使えるようになるという話ではあったけど、今すぐに使えるようにはならないだろう。これから先は、私自身が何とかして神様から逃げる必要がある。
検討をつけて私は走り続けた。とにかく立ち止まってはいけない。閨から離れなければならない。走りながら背後から神様の足音が聞こえるような気がした。恐怖に私の胸はばくばくと鳴るし、何処へ行けば良いかも判らない。けれど進まなければ、神様に追いつかれてしまう。
「あっ」
私は足を滑らせてよろめいた。思わず前に出した両手が、ぱしゃん、と水を打つ。沢が多い場所へ来たのだろうか。水で足を滑らせてしまったようだ。
「――娘」
「!」
今度は私が息を呑む番だった。逃げた筈の神様の声が背後でして私の体は強張る。
「人の脚で私に勝てると思ったか」
私は意を決して振り向いた。




