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私の天職は歌姫のはずですが  作者: 江藤樹里
1章 炎の魔女

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8 魔物との一戦を見守るのですが


 藍に染まる空の下、黒々と茂る森を背にしてそれは現れた。家ほどもある巨躯は此処からでも分かる。むしろ、黄金の穂に隠れ潜んでいる此処からの方が他の魔物やラスとロディ達と比較できてしまう分、その凶悪さが浮き彫りになるようだった。


 体は大きいが姿は猪に似ている。ラフカ村の畑を荒らしていた猪が慌てて逃げ出さないところを見ると恐らく仲間なのだろう。ラスとロディも思わず距離を取って形勢を立て直そうとしているようだ。


「あんなのがいるなんて」


 エルマが怯えた声で呟く。テオも自分の目で見ているものが信じられないのか何度も目を服の袖でごしごしと擦っていた。


「……あの魔物は初めて?」


 私がかすれた声で尋ねれば、二人は小さく頷いた。視線は巨体の魔物から逸らさず、否、逸らすことができず、ただ頷く。


 二人は強い。強いけど、あんなに大きな魔物を相手にしたことがあるのか私は知らないから心配になる。私にも冒険者向きの“適性”があったならあの中で戦うこともできたのかもしれない。テオやエルマの方がもしかしたら、ずっとずっとこういう事態には対処ができるのだろうに。


 私は戦闘に参加することはできない。けれど私にだってできることはあるはずだ。そう思って周りに目を向けて頻りに探す。あの魔物使いの少年が近くにいるかは分からないけど、モーブを襲った時のやり方が彼の手口なら今回だって近くにいる可能性がある。ラスとロディは魔物にかかりきりだから、見つけて対処するなら私がやるしかない。


 陽が沈むにつれて見えないものの方が多くなる。闇の支配する領分が多くなるほど、この戦闘は不利になっていく気がした。


 早く。私の心は焦りと不安で一杯になる。もしも彼が関わっているなら早く見つけないと。また、あんなことになったら。


 緑濃い森で散った赤は鮮明だった。それだけが脳裏に焼き付いてしまったのではと思うほどに。ビレ村で木を切っていたアンクおじさんが間違えて斧を自分に向けてしまった時の大騒動とは比較にならない。悪意が、誰かを傷つけてやろうという強い思いがあの時は満ちていた。今もそうかは分からない。けれど悪意がまだあの少年の中に渦巻いているなら。


 ガキィン! と、硬いものがぶつかる音が此処まで届いた。驚いて目を向けるとラスの剣と魔物の牙がぶつかりあった音のようで、ラスは体全体で剣に体重を預けて魔物を押し返そうとしているのが見えた。最初に対峙していた魔物をロディが相手しながらラスの援護をしている。ロディの使う風の魔法の残滓が私達の髪や服をはためかせた。


 もうすぐで陽が沈みきる。ほとんど何も見えなくなってきたけれど、夜闇が覆う向こうで動いているのは辛うじて見て取れた。ラスの鬼気迫る雄叫びがこだまして、私達は三人揃って思わず身を竦めてしまった。魔物も同じだったのか、身を翻して走り去る音がする。地鳴りのような足音が遠ざかってから、私はあの巨大な魔物も尻尾を巻いて逃げだしたことを知ってへなへなと地面に座り込んでしまった。


 テオもエルマも同じで誰も身動きが取れなかった。ロディと剣を収めたラスがこちらに歩いてきて笑顔を向けられるまで、放心したように座り込んでいた。


「……や、やっつけたのかよ」


 テオが震える声で確認する。疲弊はしていても怪我ひとつしていない二人はお互いに顔を見合わせてから、優しく微笑んだ。


「追い返した、が正しい」


 ラスが苦笑混じりに言う。ロディも同意して頷いた。


「きっと逃げていった方に巣があるんだろう。この暗さでは流石に追いきれないけど、今日のところはもう来ないと思うよ」


 腹ペコだろうけどね、とロディは続けた。


「でも懲りずにまた来るかもしれない。今度は朝方に来る可能性もあるから、警戒は続けた方が良いだろうね」


 魔物が走って行った方に視線を一瞬だけ向けてロディはやれやれと息をついた。


「明るいうちに来て巣に戻ってくれれば其処を叩くという方法もあるけど、それは村の人と相談しないとならないかな」


 何でだよ、とテオが驚いた。


「お前ら、強いんだからパッと行って倒してこれそうじゃねぇか」


 そうもいかないさ、と今度はラスが言葉を続けた。


「縄張り意識を持つ魔物ならあいつらがいなくなったことで新しい魔物が入ってきたり、魔物同士の争いが始まることもある。無責任なことは出来ないからね」


 ラスの言葉にテオは黙った。何か言いたそうに見えたけれど、背後から聞こえてきた歓声に言葉を盗られてしまったようだった。


「あなた方が魔物を追い払ってくださったのか」


 着いたばかりの時は会釈しかしなかった村の人たちが数人、灯りを手に取り畑の奥まで様子を見に来たようだった。聞き慣れない剣戟や魔物の悲鳴に気になって出てきたのだろう。冒険者を見て驚きと追い払ってもらった喜びとを顔に浮かべ、誰もが一様に嬉しそうだ。


「また明け方にでも腹ペコでやってくるかもしれない。警戒はした方が良いですよ」


 ロディが物腰柔らかく答えた。村長に伝えろ、と誰かが口にして誰かが駆ける。エルマがまたびくりと肩を震わせたのが視界の片隅に見えた。


 話しかけてきた男性が大きく頷いた。


「いやぁ、何にせよありがたい。詳しくお話を聞かせてもらえませんか」


「我々としてもそうしたいと思っていたところです。お願いできますか」


 ロディとラスが歩き出す。私もついて行こうとしたけれど、テオとエルマが一歩も動かないのを見て思わず留まった。それに、腰も抜けたままだった。


「ロディ、ラス、私は此処で待っていても良い?」


「……良いけど、風邪をひかないようにね」


 何か言おうと口を開いたラスを諌め、目を細めたロディがそう答える。私は頷いて手を振った。村人は全員がラスとロディと一緒に村へ戻ってしまう。私はロディの残した風の守りの中でテオとエルマを見た。二人ともうつむいて口を引き結んでいる。


「……何で行かなかったんだよ」


 むすっとテオがぶっきらぼうに言う。私は首を傾げてテオの顔を覗き込もうとしたけどそっぽを向かれてしまって断念した。


「何となく」


「変なやつだな」


 答えた言葉に素直に反応して私の顔を見てくれたテオに、私は思わず笑ってしまう。テオはしまったという顔をしたけれど、その意味はまだよく分からない。


「まだ二人のことよく知らないから、お話してみたくなったの」


 付き合ってもらえるかな、と私が頼むとテオは勝手にしろ、とまたそっぽを向く。エルマは困惑した様子で私を見ていた。


「良いかな」


 私が尋ねると、エルマは小さく頷いた。ぎゅっと杖を握る手に力を込めるのを見たけれど気にしないようにして、私は空を見る。すっかり宵闇が覆った空はビレ村で見ていた時のような満点の星が広がっていて私は思わず感嘆の声をあげた。


「凄い! とっても綺麗!」


 わぁ、と感激する私に、エルマが思い切ったように口を開いた。


「あ、あの、何か言いたいことがあるんじゃ……ないですか……」



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