25 薄氷の翼にのせたものですが
──女帝はいつも通りご壮健で。
アレクセイが母親と呼ぶ人にオリガの様子を告げた時、彼女の様子を真っ先に口にした。民にどう見られているかとか、評判はどうかとかそういったことよりも先に、彼女自身についてを。私はそれを思い出してアレクセイが彼女を気にかけているのは本当なのだろうと信じた。
「……莫迦な人」
溜息と共に兄の願いを一蹴してオリガは私たちのところまで足を進めた。アレクセイが眉根を寄せて、何処か痛む箇所を我慢するような表情を向ける。隣に立ったオリガに視線を向けて、私は彼女も彼と同じ表情を浮かべていることを知った。
「人の生を歌い聞かせながら流れていく生き方があなたにはお似合いだったのに。あなたにこの国は、寒すぎる」
──でもわたしは芸事を生業にする人を信用しないことにしているの。
彼女がそう言ったのは、どうしてだろう。言わなくたって良かっただろうに、どうして私にそう告げたのだろう。呪われていると口にした彼女。それはパーヴェルの妹を知らず犠牲にしたことを知ったからかもしれないけれど、彼女はそのパーヴェルを連れて此処へ訪れ、私を助けてくれた。今度は間に合ったと安堵したのは自分の行いというよりもパーヴェルのことを想ってのことに私には聞こえたのだ。
国の長としての彼女が、気にかけているのは。
「わたくしが妹のことを忘れない限り帰る場所は此処しかなく」
アレクセイは弱々しく微笑んだ。頼んでなどいない。頼まれてなどいない。けれどそれは、お互いを大切に想うからこそのことだと気づいて私は唇を引き結んだ。
わざと距離を取って遠ざけようとしたオリガと、近くにいてあげたかったアレクセイと。二つの願いが交差する時は今をおいて他にはなかったのかもしれない。
ひとりで生き抜くため鍛錬に励み女帝として必要なものを身につけて行ったオリガがアレクセイには遠く見えたのだろう。彼女と話すには理由が必要だった。大手を振って謁見が許可される理由が。そのため彼には儀式を成功に導く旅が必要で、もしかするとその開始を告げるためにも謁見を申し込んだかもしれない。生贄を探す旅に出る前にいずれその役を負うアレクセイを先代が赤の宮へお供として連れて行ったこともあるかもしれない。貴重な機会を逃すことなどできなかったのだろう。誰かの命と引き換えだと、知っていたとしても。
オリガもそうと知りながら彼が来ることを禁じはしなかった。政に口を出す村の目があったからかもしれないし、オリガ自身も、待っていたからかもしれない。想像したそれが真実かどうか私には判らないけれど。
「あなたがこの国に産まれこの国と共に滅ぶのなら、その時近くにいてやれるのはわたくし以外にいないかと」
「自惚れないで。供など必要ありません。処刑台には二人一緒になど登れないのですから」
オリガの声は冷たいのに表情は今にも泣き出しそうで、アレクセイが穏やかに笑む。彼女の表情が見えたのはアレクセイと、私だけだろう。家族への想いなんてないと彼女は言っていたけれどそれが本当ではないことなんて彼女を見ていれば解る。本当の兄妹かどうかは私には判らないけれど、少なくとも二人がそう思い絆があるならそれこそが本当なのだろうから。
「歌はいつもあなたの傍に。それがわたくしの歌声であるならばこれ以上ないほどの喜びというもの」
「……他人の人生など聞きたくありません。わたしの記憶にある歌がそんなものではないことくらい解るでしょう」
兄ならば。オリガが口にしなかった言葉が聞こえた気がしたのは私だけではなかったようだ。
幼い頃、アレクセイはどんな歌を歌い聞かせていたのだろう。二人でどんな歌を歌っただろう。明るい未来がこの二人には望めなくても、遠い昔の輝きを眩しく眺められるなら。
薄氷の翼に想いを託すような、そんな儚く溶ける一時のものだとしても。同じ色をした彼女の目が仕様のないものを前にした時のように細められれば、それも悪くないと思えるだろうか。
私は胸の奥を見えない手に握られたような苦しさを覚えながら、目を伏せた。
* * *
「こ、れは……」
麓の村で一泊するというオリガ達について行って、私は驚きのあまり言葉を失った。誰もが同じなようで続く言葉はない。
山を降りてすぐ、違和感には気づいていた。マーラ・エノトイースの村へ行くまでの間に通った道に雪がないのだ。正確には雪は残っているけれど、ところどころで土や草が見えている。雪の重みでしなっていた枝からはぽたぽたと雫が落ちていた。
大人数で移動したからか時間は既に夕刻に迫っていて空は暮れなずんでいる。空気はまだひやりとしたものを残しながら、それでも確かに私でも春を感じた。今朝までの様子から春にはまだ遠いだろうことは判るのに、目の前の景色は既に春を迎えている。
「“炎の娘”が怒っておるのじゃ! 自分達が何をしたか忘れたわけではあるまいて!」
アレクセイの“母親”が集団の中から声をあげた。村人の多くは怯えていたけれど、彼女だけは何処か喜んでいるようでさえあった。何か知っているのかと問おうとしたパーヴェルをオリガが止める。
「伝承の“炎の娘”とわたくしたちが討伐した魔物は非なるもののはず。これは“炎の娘”によるものではなく、他の何か別のこと……」
けれどオリガも思い当たる節はない様子で其処で言葉を途切れさせてしまった。
「何はともあれ宿を確保しよう。オリガ女帝の名前の元なら彼らは心配ないけど、ボクらはその恩恵がない。この異常事態に宿を開いているところがあるかは疑問だけど」
ロディののんびりした声に促され、私は躊躇いながらも頷いた。行き先が同じだっただけで私たちはこの騒動とはもう関わりがない。赤の宮へ戻れば村人もアレクセイもオリガもパーヴェルも、投獄される。その後のことはこの国に住む人たちが決めることだ。私は贄にされかけた当事者ながら、国の行く末に関してはもう、無関係なのだから。
けれど山を降りて目にした景色に、まだ騒動は落ち着いていないのではと、私の胸には不安が渦を巻く。
まるで溶けた薄氷が再び、体の内側から翼を広げるように広がっていくような感覚だった。




