12 怪鳥の呼び名ですが
「危ない、歌姫さん!」
「……!」
視界の隅から飛び出して来たのはパーヴェルだった。砂色の髪、栗色の目、間違いない。どうして、と思うより先に飛び込んで来たパーヴェルの腕に攫われて私はその場から──此処から出るなと示されたその場所から──離れた。怪鳥の嘴が地面を掠め、身を切るような冷たさの風が通り過ぎて行くのを感じる。初めてアレクセイの音が途切れた。
「パーヴェル……!」
彼の焦った表情を見上げて私は思わず名前を呼ぶ。名前を呼んだらパーヴェルが私を掴む腕に力が込められた。もつれる足にもお構いなしにパーヴェルはただ木立に入ることを優先しているようだ。確かに怪鳥のあの巨躯では木立に入られれば追うことは難しくなるだろう。
理由は分からない。けれど理由を問う場面ではないことも私には解っていた。助けに来てくれたのは事実だから、感謝もしていた。
私では、あの場から逃げる判断を一瞬遅らせただろう。自分の命を優先したい、でもそのまま自分がしたいことに従って良いか判らなかった。怪鳥が私を啄むのを成す術なく受け入れる外なかったはずだ。
「走って! 奥へ!」
パーヴェルの声が耳元でして、私は自分の意志で走り出す。整えられていない雪道を掻き分けて進めば薄着の体はすぐに冷えた。でも心臓が必死に血液を送り出していて寒さを感じる暇もない。すぐ後ろからぎゅむぎゅむと音をさせてパーヴェルが着いて来ているのに急かされるように私は進んだ。
「!」
後ろから、咆哮がした。鋭く、耳をつん裂くような声だった。魔物使いの“適性”がそれなりの私には言葉までは判らないけれど、乗った感情は解る気がした。怒りだ。何処へ行くのかと詰るような、竦ませて足を止めるための、強い感情の声だった。
「立ち止まらないで! 進んで!」
パーヴェルの声に背中を押され私は足を進める。木立に分け入り、気になってアレクセイを振り向いた。アレクセイの金の髪は太陽に輝きながらまだ其処にあった。怪鳥に襲われる前にどうか、逃げてほしいと願う。
「歌姫さん、こっちに!」
パーヴェルに手を取られて私は顔を前に戻した。私を追い越したパーヴェルが前だけを見て進んでいる。山の斜面を雪と共に滑り降りながら私はパーヴェルに続いた。
「はぁ……はぁ……取り敢えず、此処まで来れば……空からも探しづらいし追ってくるには木が邪魔なはず……」
汗だくで息を荒げながらパーヴェルがやっと足を止めて休憩をすることにしたようだ。同じ状態の私は少しだけ咳き込んで頷いた。訊きたいことが沢山あるのに話し始めるまでには時間が必要だ。息を整えないとこの先を進むのも難しい。
「……このまま行くと村に、着くわ」
絞り出すようにして紡いだ言葉にパーヴェルは驚いた顔を私に向けた。それから困ったように笑んで、息を零す。
「歌姫さんが最初に気にするのはそれか」
「この辺の地理に詳しいの?」
宮廷画家のパーヴェルがこの辺りを散策するようなことがあるとは思えなかった。あの夢で見た頃は村にいたようだけれど、この村の出身とも考えにくい。アレクセイが何の反応も見せなかったし村の人も誰もパーヴェルのことを口にはしなかった。儀式のことにもあまり詳しくなく、年数だって誤っていたのだから。
だから真っ直ぐにマーラ・エノトイースの村を目指しているように思える進路が不思議だった。尋ねたいことは沢山あるけれど、村の人に危害が及ばないかが心配だ。ラスやロディ、セシルが村にはいるけれど。
「歩いたことはないけど、一時期はずっと、眺めていた。何度も何度も描いて、それで覚えた」
パーヴェルの声は穏やかだった。目を伏せて答えたそれに私は首を傾げる。何故この村をずっと眺めるのかという新たな疑問が浮かんだからだ。パーヴェルは私の仕草で疑問を見抜いたみたいにまた息を零して笑った。
「この村には炎の娘の伝承が残っているから。儀式を行なって、それを誰も止めない。誰かの犠牲の上に成る明日にどれだけの意味があるかなんて考えもせずに」
「誰かの犠牲……?」
繰り返した私に、まだ気付かないのかい、とパーヴェルは疲れたように笑う。私を見る目に滲んでいるのは憐れみだ。
「歌姫さんは捧げられたんだよ、“炎の娘”に、生贄として」
「……」
パーヴェルの言葉に私はロゴリの村で同じような目に遭ったことを思い出した。神様と呼ばれた魔物に差し出されたあの時、私は村長の策略に嵌った。歌を捧げてほしいと言われて、信じて、そうして。
まさか今回も同じだと言うのだろうか。私は眉根を寄せて痛む胸に耐えながら尋ねた。
「“炎の娘”に?」
「そう。見ただろう、あの大きな鳥を。あれをこの国では“炎の娘”として崇める。五年に一度、生贄を捧げて他の誰も襲わないでくれと頼むんだ。五年前はぼくの妹レーシャを喰った。今年は歌姫さん、あなただ」
「──」
彼の夢で見たあの惨劇を思い出して私は息を呑む。あれは儀式だっただろうか。あんな広い雪原で襲われた幼い彼女は舞も歌も披露してはいなかったけれど。それでも彼は、それを信じているのだと目を見れば解った。恐らく見てはいなくて、人伝に聞いただけのことで想像して、それでもあんなに惨い夢を見てしまうほどに。
「このふざけた儀式を終わらせる。そのためにぼくは……オリガ様と手を組んだ」
パーヴェルの口から思いがけない人物の名前が出て、私は目を丸くしたのだった。




