3 祈りの本質ですが
真っ白な世界でよく晴れた夕暮れの前に悠々と聳え立つエノト山を見て、ほぅ、と私は思わず息を吐いた。私がいたビレ村も山間にあったけれど、こんな勇壮な雪山ではない。葉を落とした木々が続いていた平地とは違って山の木々には葉がついており、重たい雪を地面へと誘導しているようだ。アレクセイによれば葉のない枝は雪の重みに耐えきれず折れてしまうことが多いらしい。この白に合わせるように姿を変えてきた自然でさえ耐えられないことがあるのかと私は驚いた。
野営のために止まった馬車の車輪は雪道に深い轍を刻んでいる。私たちが此処を目指すのは女帝オリガにはとうに知られているけれど、今のところ追手はなかった。それが何を意味するのか、私には判らない。ロディは一足先に降りて魔物避けの陣を書いていた。
「本当に天気は崩れなかった。本当に予言者じゃないのかい」
御者を務めたラスが感心した様子でアレクセイに声をかけ、アレクセイは勿論と笑う。
「山に育てばある程度は山の天気がどう動くのか、身に染みて判るものでして。同時に雪国ともなれば空模様は生活に関わるが故、誰もがある程度のことは予測がつくのです」
そういうものかね、とラスが言うのを、はい、とアレクセイは肯定した。山育ちの私にも判るような気がしたから、うんうんと小さく頷いておく。夕立が来そうだとか、もうすぐ季節の変わり目だとか、明日はよく晴れるだとか、ある程度のことは確かに判る。きっとラスだって自分が生まれ育った場所に帰れば同じように思うだろう。
「ライラ嬢の準備も万端。これは踊りの方も覚える猶予があるやもしれず」
アレクセイが私を向くから、そうなの? と私は首を傾げた。村へ向かう馬車の中、アレクセイが私に儀式の歌を教えてくれたのだ。彼の奏でる竪琴の旋律は美しく、炎の煌めきのような音にはなるほどと唸らざるを得なかった。炎の娘に捧げる歌であればこそ、その印象が強まる楽曲であることは明白だ。
「最早、歌に関しては教えることはないと言えるかと。踊りは副次的なもの。日程的にも主として歌があればと考えておりましたが、これは中々に優秀と言わざるを得ず。歌姫としてだけでなく、踊り子の“適性”もあろうとは! 天に見放されたかと諦めかけていただけに喜びも一入でして」
アレクセイが嬉しそうに笑うから私も頬を緩めた。この“適性”で役に立てるなら喜ばしいことだと思う。父が育て伸ばしてくれたものだ。母が教えてくれた舞台に上がる心構えも。いずれはそれらで大きな舞台に立つ歌姫になれればと願う。
「よく解らないな。何かに祈ったからってどうにかなるものじゃないと思うんだけど」
私たちのやりとりを眺めていたセシルがそう零すのを私の耳は捉えた。視線を向ければセシルは私に問いかけたのか、私を見ている。その嵐のような目が合ったと同時にすっと逸らされて、独り言だよ、と私が答えない道を差し出してくれるから苦笑してしまった。
「セシル」
独り言だと言うなら離れた場所から答える必要もないと思って私はセシルの隣に腰を下ろす。四人が乗れる馬車だけれどそんなに大きなものでもないから、そう移動距離はない。けれど私が隣に座ったことでセシルは少し気まずそうにした。
「……気を悪くしないで欲しい。お姉さんが熱心に祈ってるのはその、知ってるから」
シクスタット学園の聖堂で私が一生懸命に掃除をし、女神像に祈っていた姿を見ているからかセシルは決まり悪そうな声で零す。うん、と答えて私はセシルから少し視線を外す。私も独り言のつもりで言葉を落とした。
「祈っても、願っても、確かに女神様が直接に何かをしてくれることはないのかもしれない。どれだけ願っても、どれだけ祈っても、普段からどれだけ歌を捧げていたって、流行り病から私の両親は逃れられなかった。貴方も自分の力で何とかしてきたから、そう思うのかもしれない。でもね、セシル」
私は思うの、と紡ぐ続きを聞きたがるようにセシルが私を向いた。それに気づいて私もセシルを向く。
「私の両親は女神様を悪く言うことはなかった。祈って、願って、そういうの全部、自分で望んでやっていたの。義務じゃなかった。強制でもなかった。見返りも求めてない。自分ができること全部をやって、それでもダメだったら受け入れることができるんだってことなんだと思う。私にはそれを宣言する相手が女神様なだけ。だから他の人はもしかしたらお友達かもしれないし、家族かもしれないし、師と仰ぐ人かもしれないし、遠く遠くの人──例えば語られる勇者様かもしれないし、一番身近な自分自身かもしれない。誰でも良いの。その相手を裏切らないように、生きられれば」
セシルは目を見開いた。だから、と私は反対に目を細めてセシルに微笑んだ。
「これから行く村の人が炎の娘を祀って、その暖かさに厳しい冬を過ごせますようにと祈り願うそれも決意の表明なのかもしれない。必ず春を迎えて生き抜くぞって自分で決めたことを示すためのものなら、それは必要なことなのよ。そのお手伝いができるなら、私は嬉しい」
セシルは何かを言おうとして口を開き、はぁ、と息を吐いて視線を下げた。それから息を零すように笑って私を見上げ、仕方がないとばかりの表情を浮かべる。
「お姉さんって……お人好しだよね。まぁ、お姉さんが行くところに着いていくって決めたのは僕だ。あぁそうか、そういうことか」
「?」
ふふ、とセシルは笑ったけれど私はセシルがどうして笑ったか判らなくて首を傾げた。けれどセシルは笑うばかりで教えてくれるつもりはなさそうだ。さぁ、と宵闇迫る外へ視線を向けて野営の準備をしようと私を誘う。
「夜の山を登るのは危険だからね。しっかり休んで明日登ろう。大丈夫、何があっても僕がお姉さんを守るから」
そう言って真っ直ぐにわたしを見たセシルの目から、憂いは取り払われていた。




