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私の天職は歌姫のはずですが  作者: 江藤樹里
9章 流浪の奏者
231/361

21 幻想の舞台ですが


「オリガ様……?」


 私は咄嗟に一歩足を退いた。けれどオリガは私など視界にも入らないかのように進んで行く。その目が私を向くことはない。


 夢の続きでも見ているかのようだ。起きたと思ったのは勘違いで、私はまた誰かの夢に移動しただけなのだろうか。でもそれならこれは、誰の?


 誰も通らない廊下、何の音もしない静けさの中でオリガが歩いて行く。何処へ向かっているのだろう。寝巻き姿で出歩くなど普通はしない。私は彼女の後について行くことにした。


 ポンセもいないのに、此処は本当に誰かの夢の中だろうか。けれど現実にしてはあまりにも静かで不気味だ。雪の夜は音が吸い込まれてしまって静かなことも多いようだけれど、でも。


 確信が持てないまま私はオリガの後について行った。パーヴェルの画廊に向かっているのを察して私は眉根を寄せた。


 こんな夜中に行く理由が見当たらない。昼間は公務で忙しいとしても、こんな時間に行くほどパーヴェルの絵に心酔しているのだろうか。私に気づかないほど、脇目も振らずに?


 画廊は開いていた。絵の具も画布も太陽の光は劣化を早めるものらしい。けれどこの雪国で貴重な燃料を絵の鑑賞のために使うわけにもいかない。光が直接入らないように、白壁に反射して多くの光源を得られるようにと作られていた。だから夜でも外の光は入る。白い雪に反射した、月の光が。


 オリガは中へ体を滑り込ませると薄闇の中で翅のある少女たちの絵を眺める。自分を題材に描かれた絵を一枚ずつ見て、苦しそうに表情を歪めた。それから顔を上げ、足早に画廊を出る。私はまた彼女の後について行った。


「オリガ様……何を」


 足早に彼女が向かった先は外だ。それも門番がいないような、厨房の勝手口から。


 この宮は周囲を城壁で囲っている。行商人はその中に入れてもらい、厨房へ食材を卸しているらしい。だからオリガが厨房の勝手口から外へ出ても完全に宮の外へ出たことにはならないのだろう。けれど空気は、寒々しい外のものであることに変わりはない。


 私は寝巻きの彼女が防寒もせずに外へ出るのを慌てて追った。私だって借りた寝巻きだから外へ出るには心許ないけれど、着替えに戻っては彼女を見失ってしまう。そのまま室内履きで冷たい雪の上を踏んだ。


「……」


 寒々しい夜だった。雪は微かに舞う程度で空を薄い雲が覆っている。星の見えない夜空に浮かぶのは大きな月で、薄雲に覆われてぼんやりと光る柔らかな眼差しを地上に投げかけていた。その中で薄着の少女が踊っている。蜂蜜色の髪を月光に照らし、きらきらと輝かせて。


 美しい光景だった。ひんやりと澄んだ空気の中で伸びやかに踊る少女のしなやかさと華奢さが儚く、幻想的でさえあり、私は暫し見惚れる。音のない雪の舞台で踊る少女が雪を踏み、寝巻きが擦れる僅かな音しか耳には届かない。まさに夢のような、光景で。


 はぁ、と吐いた息が白く空へ昇って行く。それを見て私は此処が現実だと実感した。肌に刺すような冷気も本物だ。肌に感じるものは現実だと訴えてくるのに、目の前で見ているものは現実感がない。この震えも寒さからくるものなのか、この世ならざるような美しい光景を見たことによるものか、判断ができない。


「オリガ様……!」


 けれど足元から這ってくる冷たさが現実だと私を突き動かすなら、こんなところで彼女を薄着で踊らせるわけにはいかない。私は足を出した。


 一歩踏み出せば、体は動いた。目は幻想的な光景を焼き付けたいとばかりに壊すことを拒否するけれど、心の内では異様なものであることを訴えている。彼女の表情がないのも気になった。あまりに美しく人形めいたその顔にはおよそ感情というものが見えない。彼女こそ夢でも見ているかのような、心此処に在らずといった様相だ。


 ずぶ、と足を雪に埋めながら私は進む。夜のうちにまた降ったのか、意外に沈んで冷たい雪が足首を舐めた。ぶるりと体を震わせて、私はオリガのところまで進み、その手を取る。


「オリガ様、戻りましょう」


 私は声をかける。最初は私の手を振り払って踊り続けようとした彼女が、私がもう一度呼び掛ければ足を止めた。とろんとした薄氷のような目が私を捉え、怯えた様子で周囲を見回す。サッと瞬時に青褪めた様子はとても女帝ではなく、年齢相応の少女に見えた。


「わたし、どうしてまた……」


「また?」


 初めてではないようなことを彼女が言うから私は首を傾げた。いいえ、とオリガは慌てて首を振ると私が取った手を払い、宮の方へ走り出す。私も慌てて追いかければ、厨房の中でオリガが蹲っていた。華奢な細い肩をぶるぶると震わせて、自分で自分を抱き締めるようにしながら。


「オリガ様、どうしたんですか……?」


「……ひっ、ご、ごめんなさい!」


「?」


 言葉で触れた私にオリガは大きく肩を跳ねさせて振り返る。その目に怯えが見えて私は一瞬立ち止まった。状況に怯えたように見えたけれど今は私に怯えている様子だ。その意味が分からず私は躊躇った。けれど震える少女をこのままにするわけにはいかない。


「……オリガ様、体冷えていませんか。私は少し寒くなってしまいました。今火をつけてお湯を沸かすので、一緒に温まりましょう。風邪を引いては大変ですし、落ち着きますよ」


 私はごそごそと厨房を借りて準備し、火を付ける。オリガは私の動作を怯えた様子ながらじっと観察しているようだった。ぱちぱちと薪の火が爆ぜ、沸いた湯をカップに注いでオリガへ渡す。勝手を知らない厨房をあまり触らない方が良いと思ったし、何も入れていないことを彼女にも見えるようにした方が良いと思ったのだ。怯える少女ではあっても彼女は女帝オリガなのだから。


 謁見した時とは大分雰囲気が違っていて私も驚きはするけれど、何か事情でもあるのだろう。私が関わって良いことかも判らない。だから風邪を引かないようにと気を配ることだけに注力した。


「……何も訊かないの?」


 カップに口をつけたオリガが私にぽつりと尋ねる。訊いても良いんですか、と私は彼女を向かずに問い返した。


「私はたまたま廊下でオリガ様を見かけてついて行っただけです。流石にこの薄着で外にいさせるわけにはいかないと思っただけで」


 苦笑すればオリガは目を伏せた。


「……話しても詮ないことなのだけれど。聞き流して頂戴。

 わたしは、呪われているのよ」



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