19 祭祀場に降り立ったものですが
「でも……」
躊躇いはあった。私に何ができるかも分からず、できたとしても何を呼び出すかも分からず、かといってリアムの言う通りこの場所までは一本道で他に行けそうな場所があるわけでもなく、打てる手が限られていることも事実で。
何がどうなるか判らない。そもそも私には魔力がないし、召喚士にも神職にも向いていないとリアムが言ったのだ。それなのに、聞こえる音をなぞれと促してくる。
「何も起きないかもしれないわ」
「それはその時考えれば良いだろう」
「呼べたとしても何が来るか判らないのよ」
「神殺しを厭わないオレが今更相手に構うと思うか」
「か、神殺しは良くないわ」
神殺しは大罪だと教えてくれた当人に言い返して私は声を大きくした。リアムは意外そうに私を見て、ふいと視線を逸らす。供物の魔物を見遣り、それから祭壇の上の空間を見上げるように顔を動かした。
「降りてくるのが何かは判らないが、神に近いものではあるんだろう。オレなら神を殺せる。流石の魔女も神殺しを相手に出てくるとは思えない。あんたは陸に帰れる」
「何言ってるの。あなたも一緒に帰るのよ、リアム。セシルも、この海の何処かにいるロディも一緒。誰も欠けないわ。神様が降りてきたら、そうね、その時は、話し合いましょう」
私の返答に、リアムが目を丸くして振り返った。は、と驚いた声が遅れて届く。
「神が話し合いに応じると思ってるのか」
呆れたような声だった。だから、思うわ、と私は返す。
「女神様はきっと私たちを見守っていてくださるもの。此処で崇められたものも、人に何かを与える存在なら人の言葉に耳を傾けてはくれる筈よ。聞くかどうかは別として、問答無用じゃないなら可能性はあるわ」
願いを聞き届けてくれる存在なら、あるいは。それでも人の理の外にあるものではあるだろうから、どれだけこちらの理屈が通じるかは判らない。でも話し合う余地があるならそれに賭けるしかない。そうじゃなければ私たちはこの行き止まりの魔女の棲家で使い魔に追い詰められながら、薬の効果が切れるまで足止めを食うことになる。
「他に手立てがないんだもの。やるだけやるわ」
リアムが何かを企んでいるような様子を見せたのは不安だけれど、他にできることもない。此処でこの歌が聞こえるのが私だけなら私以外にこの音をなぞることができる者もいないのだろう。
供物を捧げた祭壇の前へ進み出て、私は息を吸う。リアムは反対に下がった。鋭い視線を背中に感じながら、私は集中するために目を閉じた。絶命した魔物に手を触れて、かつて此処で崇められ祈られたものに思いを馳せた。当時、壁画に描かれた人は何を願ったのだろう。何を乞われ、何を与えたのだろう。人が望んだものだったかどうかも判らない。何のために残った壁画かも判らない。でも残っているということは、儀式を再現できるということで。
悪いことのためではない。そう信じて、私は此処で願われたものへ語りかけるように耳に聞こえる歌の音をなぞった。もしも降りてきてくれたなら、私は何を話そう。そうだ最初は、まず。
はじめましてを言おう。それから、応えてくれたことへのお礼を。
「異邦の娘よ、我を呼んだな」
聞こえる音をなぞりながらそんなことを考えていたら、不意に話しかけられて私は目を開いた。目の前には魔物の亡骸があるだけだ。光り輝く何かがあるわけではない。目を閉じる前と変わらない景色だ。気のせいだっただろうかと思いながら、私は歌い続けた。
「言葉のない、形だけをなぞるものでも感じるぞ。我に用があるのだろう。声に力を授けた一族に似た声を持つ娘よ、何を望む。いつかのように尾が欲しいか。水の中で暮らすだけの力か。それとも後ろで禍々しい力を放つあの男の排除か」
「ま、待って、何処から話しかけてるの」
私は周囲をキョロキョロと見回した。リアムが反応して剣に手をかけるけれど私と同じで見えていないのだろうと思う。声の主は明確に私へ話しかけてきていて、でも私はその姿を見ることができない。
「どうした、降りてきたか」
リアムの問いに、私は小さく頷いた。たぶん、と答える声も小さい。怪訝そうにリアムが眉を顰めたけれど、仕方ないじゃない、と私は思う。
「我は水の精。此処に揺蕩う全てが我。お前の涙に、血液に、命に、我は宿る。眠りに就いておったところ、お前の声に起こされた。懐かしき人の声だ。此処で歌うものはとうに絶えた。尾を与え、歌に力を与えた後、人は此処を去った。全てが流れ着き果てるこの場所で、我はただ微睡んだ。音は遠ざかり滅んだとばかり……再び願いの歌を耳にするとは思わなんだ」
「もしかして……喜んでくれてますか……?」
水の精、と聞いて驚いた。でもそれ以上にこの歌を聴きたかったと聞こえたような気がして私は恐る恐る尋ねる。姿が見えないから取り敢えずは目の前に。ぐる、と目の前の水が渦を巻くように動いたのを感じた。
「捧げられたは我の望みし音。言葉はなくとも供物はあり、願い乞われるならば手を貸そう。異邦の娘、陸の娘、お前は何を望む。我は今気分が良い。久方ぶりの捧げものだ。何が欲しい。言ってみろ」
問われ、どう答えたものかと思っていた私の背後から声が飛んでくる。心の底から願い、縋る先を探して手を伸ばす切実な声が。
「あたしの願いを叶えとくれ!」
驚いて振り向いた私とリアムの視線の先、祭祀場の出入り口から使い魔を従えた魔女が雪崩れ込むように入ってくるところだった。