3 人魚の喪ったものですが
私は歌い続けた。レティシアが戻るまで歌い続けるつもりだった。
海は静かで、起きている人も浜辺にはセシルとリアムしかいない。私の声をレティシアの声と海が思ってくれるなら。魔力のない私の歌に、レティシアが力を貸してくれているなら。
いつも私の歌に力を貸してくれていたロディはいない。優しいあの風は、今は吹かない。
それでも海風は吹いて私の歌を運んでくれているように感じられた。湿った、潮の香りがする海風。この風がどうか力を貸してくれますように。ロディを、レティシアを、守ってくれますように。
私は願いながら歌う。レティシアは魔女様とやらに会って平気だろうか。あてがあるとは言っても必ず助けてくれるとは限らない。でもどうか、助けてくれますように。
一時間は経とうという頃、流石に喉が嗄れ始めたのを感じた。魔力のない私の歌を途中で止めてしまったら折角レティシアのくれた魔法の効果が切れてしまうような気がして水分補給ができていない。加えてロゴリの時と違うのはアメリアの調合した薬がないことだ。あの時は喉に良い薬を舐めることができたし、反響する場所だったから最小限で良かった。でも今は外だし、海に向かって聞いて欲しいと歌うから抑えるなんてできない。
「──かはっ」
遂に思うような声が出なくなり、私は咳き込んだ。セシルが慌てた様子で私に駆け寄って歌い過ぎだよと眉を顰める。でも、と私は言い募った。歌わなきゃ、と。
「レティシア、が」
「いや、戻ってきたな……様子が変だが」
リアムも私のところまで砂を踏んでやってきて言った。え、と私は顔をリアムへ、そしてまた海へ向ける。ぱしゃ、と水面を打ったレティシアの尾が見えた。私は砂を蹴って波打ち際まで走る。レティシアも波から顔を出してにっこりと笑うとギリギリまで近寄ってくれた。
「レティシア! 良かった!」
波が寄せては引いていく濡れた砂をぐにぐにと踏んで私はレティシアに両腕を伸ばした。濡れた彼女の頬に自分の頬を寄せる。服や髪が濡れても気にならなかった。戻ってきた時レティシアは歌っていなかったから、魔物に襲われなくて本当に良かったと胸に安堵が広がって泣きそうになった。
レティシアも私を一度、腕を回してぎゅっと抱きしめてくれる。それからそっと離されて、首から下げた二枚貝の小物入れを探った。ぱかりと開いたその中、レティシアが人間になったのと同じ大きさの真珠が三粒転がる。魔女の薬なのだと思って私は目を見開いてレティシアの顔を正面から見つめた。レティシアも嬉しそうにはにかんでいる。
「これ、まさか、魔女様の薬……?」
震える声で確認すればレティシアは大きく頷いた。凄い、と私はまたレティシアを抱きしめる。凄い、と何度も伝える。
「凄いわ、レティシア。あなた本当に、本当に、私たちのために? ロディを助けるために?」
出会って数日の私たちのために人魚にとっても危険な海を往って戻ってきたなんて。その優しさに私が感謝すると、レティシアは息を零すようにして笑った。
「レティシア……?」
私は彼女から離れた。微笑んでいるけれど、何処か寂しそうにも見えるレティシアの表情に私は目を見開く。どうして。
「どうして何も言わないの……?」
まさか、と思った。レティシアは眉を下げて微笑んで、口をぱくぱくと動かす。何も聞こえない。波の音はするから私の耳が聞こえなくなったわけではなさそうだ。とするなら、彼女の、声が。
「あなた、声をどうしたの? 出なくなったの?」
レティシアは長い睫毛を伏せて微かに頷いた。どうして、と理由を問う私に答えたのはリアムだった。
「魔法には代償が必要だ。あんたも聞いたことくらいあるだろう」
「代償って」
そうだ。私は知っている。魔法は生命を使う技だとロディが教えてくれた。それを軽減するのが宝石であり、そのための杖だと。
私はレティシアの顔を穴が開きそうなほど見つめた。レティシアは私から目を逸らしたままだ。このやり取りはちゃんと聞こえているんだろう。そしてリアムの指摘が事実だから、否定しない。顔を上げない。
「そんな、あぁ、レティシア……まさか、そんな」
三人分の魔法の代償。それが彼女の声だと言うのだろうか。人魚の歌がなければ彼女はもうこの海を自由に行き来できない。いくら度胸があろうと、魔物の出る海は、もう。もう、陸に上がることはない。顔を出すことも、胸の内に秘めた想いを遠くから眺めることさえ。
「分かってたの? だから、あなた……」
海へ潜る前に、あんな表情を見せたの? ジョエルへ、あんな視線を向けたの?
尋ねたかった言葉はレティシアの微笑に溶かされてしまった。込み上げるものを抑えきれず、私はまたレティシアに抱きつく。レティシアの腕が優しく私を抱き締めてくれた。震える私の背を、宥めるようにさする。
レティシアのかけていった魔法が解けて、ジョエルたちが目を覚ます声がした。口々にお互いを起こし合い、海で泣き濡れている私たちを訝っている。どうしたんだ、とジョエルとヴィクトルが走ってくる声がしても私は顔を上げられなかった。