25 星屑の歌に紛れた者ですが
「レティシア」
涙に濡れる彼女の頬が笑んでいるのを見て、思わず私は声をかける。良いの、と言うようにレティシアは頭を振った。海に帰るという彼女の選択を止められる者がいるとすればジョエルだけで、けれどそれには大きな責任が伴う。国のこともそうだけど、彼の人生も彼女の人生も関わることだからか、ジョエルは言葉を失った様子のままだ。
「明日の朝早く、帰ります。良くしてくださった皆さんにお礼をお伝えしてください。直接言いたいけど、怖がらせてしまうかもしれないから」
「そんな、ことは」
ジョエルが声を絞り出すように口を開いたけれど、レティシアに柔らかく拒絶されていた。他の誰でもないジョエルが提示した可能性だ。そんなに簡単には覆せない。
「ねぇ、レティシア。今夜は私も一緒に寝て良い? あなたが海に帰ってしまうなら一緒に寝る機会はなくなってしまうと思うから」
目を伏せたジョエルの次に出した私の提案は驚きを持って迎えられた。すぐの拒絶なく、レティシアは考える素振りを見せてくれる。せっかくお友達になったんだもの、と私が続ければレティシアの目が揺らいだ。
「ライラが、良いなら」
レティシアの答えに全然問題ないと返せば、ホッとした様子が見られた。孤独感や傷つきを覚えた彼女をひとりにするなんてできなくて咄嗟に出した提案だったけれど、受け入れられたようで良かった。私もホッと胸を撫で下ろす。
「話は纏まったようだね。泳いで帰るんだろう。そのための休息を邪魔してはいけないから、ボクらはさっさと退散しよう。おやすみライラ、レティシア。良い夢を」
ロディが話をまとめてしまって皆を連れて行った。部屋の中で呆然としていたジョエルをほとんど無理矢理に立たせて歩かせる。その目に苛立ちを見たような気がしたけれど、私が見ていることを知るとそれを隠して微笑んだ。
閉まった扉の向こう、足音も遠ざかってから私はひとつ息を吐いた。レティシアが肩を震わせるのをそっと抱きしめて、その背をさする。想いというものは複雑だ。他の海辺の国なら歓迎されるのかもしれないし、時期が違えばまた変わるのかもしれない。私はただこの勇気を出して陸に上がった少女の幸せを願うことしかできないけれど。
「お、王子様、悪い人じゃないの。優しい人なの。あ、あたし、解ってるのに。あんな言い方しか、できなくて」
レティシアが体を震わせながら言葉を零した。私の肩に大粒の涙がぽろぽろと落ちて染み込んでいく。けれどそれは拒絶ではないのか、もう浮いてはいない。背中をさすりながら、うん、と私は相槌を返す。
「あたしを傷つけないように、傷つけないようにって言葉を選んでくれてるの、解ってた。今日一日お話して、あたしのこと、知ろうとしてくれた。海の中はどんななのか、とか、あたしの家族はどんな人なのか、とか、あたしがどう過ごしてきたのか、とか。陸に来ることを決めた時、怖くなかったか、とか」
うん、と私はまた返す。不器用ながらもジョエルが彼女をそうやって知ろうと、近づこうとしたとしたと聞いて切なくなった。
「は、初めてなんだって、自分と結婚しようと思ってやってきてくれた女の子。どうして良いか判らなくてって、困ったように、笑って。そ、それなのに、最初にきたのが人魚だなんて、こ、怖かったんじゃないか、とか」
「ううん」
私はそれには相槌ではなく否定を返した。
「あなたも見たでしょう、レティシア。王妃様の遺品を手にしたあの人が、どんな顔をしていたか、何て言ったか。お母様が人魚なんだもの。怖いなんてきっと、思ってないわ。きっと本当にどうして良いか判らなかったのね。
お母様は赤ちゃんの頃にもうお亡くなりになって、普段から王家への風当たりは強くて、自分を守るだけで精一杯で。それなのに国のことも未来のことも考えて、背負って。何処か諦めてたのかなって思うの。人気のない王家だ、無能の王になるって自分のことを捉えていて、そんなところにあなたが来たんだもの。良いところ見せたかったかもしれないし、でも取り繕っても仕方ないって解っていて、あなたがどんな風に王家やジョエル様のことを聞いていたか判らなくて、それが怖かったんじゃないかなって。あなたが人魚かどうかより、自分がどう見られているのかって。現実を、真実を、見て、知られたら、その想いは離れていってしまうんじゃないかって」
ねぇ、と私はレティシアに話しかける。背中をさすりながら、顔も見ないまま。
「本当に海に帰ってしまって良いの? 私にはあなたたち、すれ違っているように見えるのよ」
せっかく話せるのに、せっかく海を越えてやってきたのに、もう帰ってしまっても良いのかと私は尋ねる。碌にお互いを見ないまま、よく知らないままで。
「で、でも、薬の効果は……」
「魚の尾があるままじゃ此処にきちゃいけない? 海の魔物は私たち……といっても私は何もできるわけじゃないけど……が討伐するから、きっと穏やかになる。一時凌ぎかもしれなくても、来られるようにはなると思うの。ジョエル様、また人魚の皆に訪れてもらえるようになったら良いって話してたのよ」
「そうなの?」
人魚に対して嫌な思いは持っていないと解ってもらえただろうか。信じきれなくても心が動いたのを感じて私は、そう、と頷いた。
「一旦は帰っても良いと思う。でも帰る前に、ジョエル様とお話、してみたら?」
うん、と小さくレティシアが頷くから私はまたホッとした。涙が落ち着いた頃、レティシアが海を鎮めなきゃ、と私から離れた。
「さっきので海、荒らしちゃったと思うから。海の上に顔を出さなきゃ他の人魚は海が荒れてるなんて気づかないと思うの。あたしがやらなきゃ」
私は彼女を支えながら窓辺に近づいた。窓を開ける。海風の匂いがした。波の音が少し激しく聞こえた。レティシアが息を吸って歌い出す。穏やかなそれは私も知っているメロディーの歌だった。ヤギニカの街で、モーブと二人話した夜。勇者の在り方を聞いたあの夜。星が綺麗に見えた丘の上でねだられて歌った、星屑の歌。
思わず私も合わせて歌った。私の声に魔力はないから海を鎮めるなんてできないけど、レティシアが驚いたように私を見て嬉しそうに目を細めてくれたから、良かった、と安心する。
夜の暗い海で大きな波音がひとつ、ばしゃん、と鳴ったのを最後に海は静かになった。私たちは窓を閉めて何処でこの歌を知ったのか話しながら眠る。吟遊詩人の父に教えてもらったこの歌は、人魚の間に伝わる歌らしい。
「ライラのお父様、人魚に会ったことがあるのかもしれないね」
「そうとは言ってなかったけど、そうなのかな。そうだったら何だか素敵」
くすくすと笑い合いながら、私たちは手を繋いで眠る。モーブを思い出したけれどレティシアと手を繋いで眠ったからなのか、星屑の歌に導かれ、モーブの夢に紛れ込むようなことはなかった。
まさかこの星屑の歌に紛れた者が暗い海に現れていたことなど、知る由もないままに。
2022/08/07の夜:登場人物の名前を間違えるというあるまじきミスをしていたのでコソリと修正!