14 浜辺に打ち上げられた少女ですが
緊張感からか、朝の目覚めは早かった。窓を閉めていても絶えず聞こえる波の寄せる音が慣れないのもあるかもしれない。
私は体を起こすと窓辺に近寄った。朝を迎えようとする海が見える。薄紫の空に、水平線の向こうから白い光が揺めきながら裾を広げていく。
「わぁ……っ」
私は窓を開けて風を浴びながらその光景に釘付けになった。光がどんどんと伸びていき、水面が美しく煌めいた。あの中に多くの魔物を抱えていることなんか微塵も感じさせない美しさだ。一定の間隔で寄せて返していく波の音も心地良い。
光が昇っていく様子と波の音に耳を澄ませていたら、波に紛れて違う音を拾った。そちらに意識を集中させてみる。途切れ途切れに聞こえてくるそれは。
「歌……?」
意図されたメロディーラインに聞こえるから風や波の音が偶然それらしく聞こえるということではないと思う。他の音に掻き消されそうなそれを拾って、私は聞こえた音を唇に乗せた。歌と思わしきそれは同じ旋律を繰り返しているようだ。妙に耳に残る、美しい旋律だった。段々と酩酊していくような、夢の中のような不思議な心地良さを覚えるそれは歌っていても気持ちが良い。
ばしゃん、と一際大きな水の音がして私は意識を現実へ戻した。ハッとする。夢中になって一緒に歌っていたことに気づいたのだ。父から新しい曲を教えてもらって覚えようとしている時に似ていた。まだ聞こえるような気がしたけどそれは私の中でまだ鳴り響いているだけで耳はもう拾っていない。久しぶりの感覚に、誰にも見られてなんかいないのに恥ずかしくなった。
水音がした方へ視線を向ける。魚が跳ねた程度ではこの広大な海の音なんて聞こえてこないだろう。誰か人でもいたんだろうかと思って海岸沿いを探して、ぎょっとした。女の子が波打ち際に倒れている。上半身だけ砂浜に何とか出している状態だ。ゆらゆらと長い髪の毛が海藻のように波に合わせて揺れているのが此処からでも見えた。
「大変っ」
私はすぐに踵を返すと外へ向かって走る。朝早いせいかお城の中は静かだ。誰も起きている気配がない。私の靴音だけが響いた。外へ出れば波の音が大きくなる。砂浜に足を取られながら、私は自分がいた部屋から見えた景色を探して進んだ。海岸沿いは何処も同じに見えてしまう。
「いた! ねぇ、大丈夫っ? どうしたのあなた……」
白い浜辺に倒れる少女を見つけて駆け寄った私は尋ねながら息を呑んだ。目を閉じた少女はぐったりとしていて、けれど息はしている。すぐに誰かに見せた方が良いと分かるのに私は躊躇してしまった。だって彼女には。彼女の、脚は。
魚の尾がついていたから。
魔物だろうか。こんなに人間の少女と変わらないのに?
私はおろおろして周囲を見回す。誰もいない。誰も頼れない。私の判断で考えるしかない。彼女は人間か、それとも魔物か。ウルスリーの村でアルフレッドから聞いた話を思い出す。
──ヒトの姿をした擬似餌を使うマモノも、ヒトそのものに化けるマモノもいる。
これがその、擬似餌を使う魔物だとしたら。私には対処する術がない。けれど此処を離れて誰かを呼んできたとしても、まだ此処にいるとは限らない。やるなら今しかないことも考えられる。でも、できるだろうか。ただ此処に流れ着いただけの可能性もあるのに。あぁどうしよう、分からない。
「うぅ……」
そうこうしているうちに少女が目を覚ました。長い睫毛を押し開いて中から現れた夕焼け色の目が彷徨って私を見る。ぼんやりとした様子なのはまだ意識が朦朧としているのか、人間を認識できないのか、それとも。
「……大丈夫?」
私は意を決して問いかけた。無垢な少女にしか見えない彼女を手にかけるなんて私にはできない。
「どうしてこんなところにいるの? 何があったの?」
私の声は聞こえるのか、少女は私を見たまま口を開いた。けれど声が聞こえない。ぱくぱくと動いた口が髪の毛を巻き込んでいる。私はそろそろと指を伸ばして彼女の髪を掬い上げた。頬が冷たい。冬場に水の中から出てきたのだから当然だろう。でも、尾が魚なら水から出てしまうとどうなるだろう。
「ごめんね、声がよく聞こえないの。話せる?」
それとも寒いだろうか。温めてあげた方が良いのか。分からなくて私は彼女の頬に指先だけではなく掌全体で触れた。少女は目を見開き、それから眠そうにとろんと瞼を下ろす。それを見て私は覚悟を決めた。水から引き上げた方が良い。温めるのが先だ。
「う、ごめん、持ち上げられないから少し引きずっちゃう。痛いかもしれないけど、我慢してね」
うつ伏せの少女を仰向けにひっくり返し、私は彼女の脇に両腕を差し入れた。ずるずると少しずつ砂浜へ引っ張り上げる。彼女はうめき声ひとつ出さず、ぐったりとまた目を閉じてしまった。水から出ているからだろうか。でも私は彼女の人間の部分で判断した。冷たい頬に手を当てたら熱に擦り寄ってきたのだ。震えてはいないけれど、きっと寒いのだろうと思うから。
「あんた、何してるんだ」
頑張っていたら後ろから声をかけられた。足音が全然聞こえなかったのは私の息が上がっているせいかもしれない。
「リアム、丁度良かった、手伝って」
人の脚で言うなら足首のあたりまではきていると思うけど、完全に引き上げてはいない。もう少しだけど私の体力も限界に近かった。足場の悪い砂の上で脱力している人を動かすのは大変だった。
声をかけてきたリアムの顔も見ずに頼めば、はぁ、と溜息を吐かれた。
「魔物の出る海で釣りでもしたのか。人魚を引き上げるなんて中々ないだろう」
「え、人魚、この子が?」
夢の中の大蛇に示された道にあった人魚。そのためにまずは海を目指した。彼女がそうと言うなら。
「此処に打ち上げられてぐったりしているのを見つけたの。元気がないみたいだし、ロディに診せたら治療してくれるかと思って」
人魚とはいえ魔物との違いが分からない。取り敢えず助けたいと思っているのだと意思を示してみれば、リアムはまた溜息を吐いた。
「人魚の再生能力は群を抜いているはずだが……まぁオレも定かな記憶じゃないからな。話せるなら情報になる」
話そうとはしていたけど声は聞こえなかったことは黙っておいた。彼女も体力を使い果たして声を出せなかっただけかもしれないし、リアムが助けてくれるならそれは二の次だ。
私が苦労して引き上げた彼女を軽々と抱えたリアムの後について、私もお城へと戻った。