10 国境を超えてですが
「ようこそ、ぼくらの故郷、セシーマリブリンへ」
国境を超えてすぐ、馬車から顔を出したジョエルがそう口にした。私は頷いて同じく馬車の幌から顔を出して外を見る。
寒々しい空の下、キラキラと白く光るものが遠くに見えた。その横の崖に建つ、立派な白いお城も。夏には緑豊かになるだろう森が広がり、冬の今はその葉を落として寒々しい裸の木々が続いていた。森は広大で、お城のすぐ傍から国境付近のこの辺まで辺り一体を覆うように伸びている。
「冒険者の一行、きみたちをぼくらは歓迎する」
ジョエルが続けた。王子である彼が言葉にするのは、国境付近を守る若い兵士に聞かせるためでもあるのかもしれない。私たちとそう変わらない歳の頃に見える男性兵士は私たちを興味深そうに見ていた。
「フランツ、きみもお仕事いつもご苦労様。ぼくが留守の間、変わったことはなかった? 魔物の侵入は? 人の出入りは?」
「は、ジョエル王子、何もありませんでした。人の出入りもありません。昨日の昼間、少し波が荒れたようでしたけど魔物の襲撃ではなさそうです。奴ら、様子を見ているんじゃないですかね」
名前を呼ばれた若い兵士はそう答えた。ふむ、とジョエルは思案し、ちらりと視線を城の方へ向ける。すぐ帰ろうとジョエルはヴィクトルと御者に告げた。様子を見ているだけなら良いんだけどね、と続けるから警戒しているのだろうことが窺われた。
「王子、そういえばお妃候補を連れてくるとも仰ってましたけど、そのお嬢さんがもしかして?」
兵士が私を見て尋ねるから、否定しようとしたらジョエルに先を越されて否定されてしまった。
「シクスタット学園は今年、一番星の選出を行わなかったんだ。でも腕の良い冒険者たちに声をかけて来てもらった。彼女もそのひとり、歌姫だ」
「歌姫……」
あからさまにガッカリした態度だから申し訳なく思った。冒険者の中に歌姫がいるなんて、確かに戦姫でなければ戦力としては数えられないから落胆して当然だろうと思う。特に私は魔力もないからこと戦いにおいては役に立たない。
「まぁまぁフランツ。大丈夫だ。海の魔物たちは彼らの力を借りるとしても、陸の警備はきみにしか頼めない。きみの魔力感知と確かな腕前を信頼しているよ。これからも頼む」
「オレくらいしか此処のなり手がいないからって調子良いんですから、王子。心配しなくてもオレはこの国にいますよ。だから早く良いお妃様見つけてきてくださいね」
歳が近いせいか、気軽に話す兵士に王子は苦笑した。その様子を見て、ジョエルの無能という自己評価は少し違うのではないかなぁと私は思う。信頼できる人に国境の警備を任せるのは当然かもしれないけど、彼の態度はジョエルを無能とは捉えていないような気がしたのだ。
「また出かける時には此処を通るだろうから、その時はよろしく。それじゃ冒険者諸君、先へ進もう」
ジョエルが声をかけると馬車が進んだ。私たちが乗る馬車も後に続く。幌から顔を出したままの私は兵士を振り返り、ぺこりと小さく会釈をした。彼はそれに気づき、口角を上げると敬礼を返してくれたのだった。
「市街地を通って城へ向かう。大々的にきみたちと帰ってきたと喧伝するものではないけど、そう映るかもしれない。他の道は復興が遅れていて通れないんだ。奇異の目で見られると思うけど、なるべく愛想良く頼むよ」
「それは構わないけど……」
手綱を握るロディが答え、やれやれとばかりに首を振った。ロディが視線を向けた方を私も見る。確かに道のところどころに大きな穴が開いていたり、岩が塞いでいたり、馬車が通るには難儀しそうな道が隣にもあった。
元は栄えていたのだろう跡が其処彼処に見て取れた。馬車同士がすれ違えただろう広い道も、今は片方だけが辛うじて通れるように整備されているように見えた。舗装された地面も石床が一部めくれたままになっていたり、馬車が横転しない程度の穴なら修復されずに放置されていたりして、乗り心地が良いとは言えない。市街地に入ってからも、修復まで手が回らない応急処置のような状態のままの家屋が立ち並び、ひどければ放置された荒屋でとても人が住める状態ではなかった。半開きになった木製の扉に赤黒い手形のようなものがべったり付いているのを見て、咄嗟に目を逸らしてしまった。
「遠目に見えていた海が近くなったね。潮風の匂いがする」
ラスの言葉に私は疑問を浮かべた顔を向けた。ほら、とラスが人差し指を立てて風の流れを示す。くん、と鼻を動かして私も匂いを嗅いだ。少し変わった匂いがした。
「ライラちゃん! あれが海だよ!」
「ジョエル様っ」
馬車から顔を出したジョエルをヴィクトルが慌てたように止めていた。私も驚いてしまったけれど、ジョエルの顔を見ると本当に海が好きなんだと思って思わず笑ってしまう。それから視線をジョエルと同じ方角へ向けて、わぁ、と感嘆の声をもらした。
城のすぐ隣にあった白く輝くもの。あれが海らしい。太陽の光を受けてキラキラと光っているそれは、ずっと向こうまで続いていた。森が続いていたのに、ある場所から海側の木々がなくなっている。一面に広がるそれは、鈍色の空を写して白く、鈍色に、けれども輝いていた。
「綺麗!」
「空の色を映すから、空が青ければもっと綺麗なんだけどね。あぁでも、陽は沈むだろうから夕暮れ時はまた違った表情になるよ。きっとキミも気に入る」
ロディが御者台からそう声をかけてくるから、私はロディを見上げた。恐ろしい悪夢の中にいても、綺麗だと思う心は残っている。それを確かめたい気がして思い切って尋ねてみた。
「ロディは夕暮れの海が好き?」
「あぁ、好きだよ。昼と夜が曖昧になって、混じり合って、強い橙の色に呑み込まれていくような、そんな感覚がする」
それはどういうものだろう。まだ知らない私はその感覚が分からなくて首を傾げたけれど、ロディはただ唇に笑みを浮かべただけだった。