8 夢の目撃者ですが
気づけば急な場面転換に遭っていた。夢の中ではままあることだけど、これもそうなのだろうか。ポンセを見ればポンセも周囲を窺っている様子だ。他人の管理している夢には本当に訪れることがないのだろう。此処がどんな夢なのか、ポンセも知らないのだ。
でも、アオイが甘いと称した夢だ。女王が気に入るほどの。穏やかで、よくある日常の一コマだったのだろうと思う。モーブの過ごした幼い日の、思い出のようなものだ。
「うぅ……」
呻く声に我に返る。周囲の景色も鮮明になった。場面転換があっても周囲がよく見えないのはいつの間にか夜になっているからかもしれない。細い月が照らす明かりでは充分に周りが見えない。けれどそれを頼りに辺りを窺い、私はひっと息を呑んだ。
ふごふごと荒い鼻息が聞こえる方向に視界が固定化され、黒い塊が蹲っているのが見えた。月明かりに教会の色硝子が反射する。その入り口のすぐ下、白く細い手足が時折震えた。その体を覆っていた筈の白い衣服は黒く染まり──否、あれは、赤だ。夜の暗に黒く見えるだけで、あれは、赤。臭いは届かないものの、きっとひどいはずだ。あんなに沢山、流れて。
「魔物の猪ね……人を、食べてる」
ポンセが小さく呟くのが聞こえた。私は咄嗟に口を両手で抑える。ポンセと一緒に渡った放棄された夢でも同じだった。どうしてこんな、ひどい。
しばらくして松明の灯りが遠くに見えた。まるで見えていたかのように大きな猪は帰っていく。獲物をその場に残し、脇目も降らずに。
命あるものの音がしない、風の音だけが時折聞こえるような夜の静寂の中、ギィ、と音を立てて教会の扉が開いた。中から幼い少年が出てくる。私は呻くようにその名を呼んだ。
「……ロディ……」
呆然としたような様子のロディがふらふらと覚束ない足取りで外へ出てくると、それに近づいた。もう物言わぬ、人の形を何とか留めた状態の、彼女を。がっくりと膝をついて座り込んだロディが、猪の駆けて行った方角を見る。その目は遠くてよく見えない。けれど表情は、泣くでもなく震えるでもなく、唇を真一文字に引き結んだその表情は、復讐に支配されているように見えた。
ロディは立ち上がるとよろよろとしながらも猪の後を追った。その後、松明の灯りが駆けつけて凄惨さに私と同じく息を呑んで立ち尽くす。
「シスター……!」
村人の呻く声が地面を這うようにして私のところまで届いてくる。その絶望と衝撃に彩られた声は見なくてもどんな状態なのか雄弁に伝えてきて、吐きそうになった。教会の中を探っていた村人のひとりが出てきて、いない、と告げる。ロディのことだろうと思って私は彼らを見守る。
「予言の巫女が言った通り……」
「しかしあの孤児はいずれ……」
「……俺たちじゃ判断できない。助けるにしても武器が必要だ」
数人でやってきたらしい村人は顔を合わせて相談し、ひとまず村に帰って装備を整えてからという結論に至ったようだ。踵を返して村へ戻っていく。
どうしてこんな夜更けにシスターが外へ出ていたのかは分からない。でも確かなのは外にいたシスターが襲われて、ロディはその復讐のため犯人の跡を追ったことだ。村人が助けに行くにしても、あんな幼いロディに何ができると言うのだろう。魔法は使えても、魔物と対峙することなんてそうないだろうに。
ラスが、初めて魔物と対峙した時のことを話してくれたことを思い出す。迷い出る魔物はいたけれど、大抵は走って逃げれば問題なかったと言っていたのに。これはその、大抵の例から漏れた出来事なのだろうか。
「シスター……?」
幼い声が聞こえて私は意識を戻した。帰った村人と遭遇しなかったのか、其処にはモーブが立っている。シスターの変わり果てた姿を見て顔を引き攣らせていた。無理もないと思う。どんな人が見たってきっと酷い状態だ。まして、あんなまだ十歳前後のモーブやロディが見るには、衝撃が大きすぎる。
「ロディ……ロディ……!」
モーブは手に小さな剣を持っていた。ラスが言っていた稽古用の剣に見える。子ども用の剣。その大きさや重さでなければまだ本物の剣を握るには難しいのだろう。そんなものでどう太刀打ちしようというのかと思えど、これは過ぎた記憶だ。モーブもロディも成長して私の前に現れたということは無事であったことに外ならない。セシルの時と同じで、変えることはできない。介入して一時的に変えることはできても、過去は消えない。モーブとロディの記憶から、この出来事は消せない。
「……っ」
ハッと気がついて目を開けた。暗い部屋の中でラスの寝息が聞こえる。どうやら勝手に目覚めたらしい。これがよくできた他の夢の続きでなければ、私は現実に目を覚ましたことになるのだろう。
「ポンセ……?」
小声で呼びかけてみるけれど返答はない。本当に現実なのだろう。私は枕元で眠るコトが欠伸をした声を聞いて毛皮をそっと撫でる。温かいその体を指先に感じて現実であることを確信した。
まだ胸がドキドキしていた。それは悪夢を見て飛び起きた時によく似ていて、すぐに眠ればまた同じ夢に引き摺られて続きを見てしまいそうだと思う。どうしてあんな夢を、モーブは見ているのだろう。
──僕が勇者として魔王討伐を意識した日だよ。
頬を緩めて言っていた。アオイが言うには甘い夢。ほっぺが落ちそうなくらい、甘い。
あれが?
悍ましさに体が震えた。とてもそうは思えなかった。モーブがどうしてあんな表情をしてそう答えたのかも。
あの出来事をきっかけに、モーブは確かに勇者として魔王討伐を意識したのかもしれない。魔物は魔王の眷属だ。魔王がいるから魔物が生まれる。魔物を統べる王。シスターはきっと、ロディにとって家族だった。その家族を食い殺されて平気なはずはないし、事実復讐のために魔物を追いかけていった。ロディが魔王討伐に拘ったという話は納得できるし、モーブの旅について行こうとするのも自然だ。だけど、でも、それって。
ロディのために、モーブは魔王討伐の旅に出たということ?
人に背負わせた夢を追うなと言ったハルンの言葉の意味をようやく知った気がして私は素足を擦り合わせる。手足の指先が冷たくなっていた。