23 屋上の魔物ですが
屋上へ辿り着いた時、其処にいたのは生徒会長のマーガレットだけではなかった。予想外の人物もいて私は息を切らしながら驚愕する。
「ハンナ、メイジー……!」
「お姉さんっ」
「ライラさん」
二人も声をあげた。けれど視線をすぐに元の場所へ戻す。二人が対峙していたのは獣人だ。二本足で立ち、けれど体も頭も獣の姿をしている。ウルスリーの村で会ったアルフレッドのような姿を想像していた私は、逃げ出してきた生徒が青くなるのも無理はないと思った。異様なのだ。普段は四つ足で歩いている動物が二本足で立っているのも、自分の目線よりも高い位置から獣特有の鋭い眼光を向けられるのも、慣れなくて体が竦む。
獣人は猪の頭をしていた。毛むくじゃらで、脚は蹄で、獣のそれなのに腕の先にあるのは人間と遜色ない手だ。その手がマーガレットを抱えている。彼女は逃れようと藻搔いているものの、華奢な少女の力では敵わないようだ。
「マーガレット様が……! あの魔物、本当は私を狙ってきたんです。それをハンナが魔法で庇ってくれて、追撃しようとしたマーガレット様の魔法が届くより速く、あの魔物が……!」
メイジーの泣きそうな声に、私は状況を理解して頷いた。ハンナは短い魔法の杖を持ってメイジーの前に立っているけれど、体が震えているのが私の場所からでも見える。咄嗟のことに動けただけなのだろう。それも充分に凄いことだと思うけれど。
「離しなさい、この……っ。術者の言うことが聞けないのっ?」
マーガレットの言葉に、私はやはり彼女たちがあの獣人を喚んだのだと思って眉を顰めた。彼女のことは助けなくてはならない。でも、あの魔物も、知らない場所に突然喚ばれて困惑しているのではないかと思ったのだ。
「……相変わらず、自分と相手の力量差を測れないまま物事に臨む人だね」
背後から声がして振り向いた。セシルが嵐のような灰色の目を細めて立っている。ごめんね、とセシルは私を見て眦を下げた。
「お姉さんが走ってくのが見えて。下の魔物たちは門の外へ帰した。最初のはリアムが斬り殺しちゃったけど。生徒会長の言葉を聞いて納得したよ。誰かが学園に魔物を喚び込んだんだ。這入ってきた門のところに魔道具が使われた形跡があるのをロディが見つけた。これ、キミたちが使ったの? 今回のもそう?」
獣人に抱えられているマーガレットへ近づいて、セシルはひらりと手の中に丸めていた獣皮紙を見せた。私は逃げてきた生徒が持っていた獣皮紙を見る。そのどちらにも魔法陣が描いてある。形はよく判らないけど、魔物を喚ぶためのものなのだろうと思った。
「召喚士、という職業もあると聞いて僕も驚いたし興味もあるけど、こんなもので喚ばれるなんて魔物にとっても迷惑だ。それにキミ、魔物使いの“適性”はそれなりでしょう? 此処に入学できるだけの魔力量があっても、所詮、それだけだ。それだけじゃ魔物を扱うなんてできないし、召喚できてもその後の制御ができない。今が良い例だよ」
「な……っ。愚弄するなら許しませんよ……っ! それに早く、助けなさい……っ」
マーガレットは青くなったり赤くなったりと忙しい。セシルは冷たい声でふぅん、と返した。
「それ、命令? 僕に命令できるだけの何がキミにあるの? 権力? でもそれって、僕が此処を出れば何の意味もない。違う国に行けばキミの家がどれだけ凄かろうと干渉できない。そんなものに縋ったって、魔物は権力じゃ跪かない。言うことを聞かせることなんて一生かかってもできないよ」
例えば、僕がこの場でこの魔物を懐柔できたなら? とセシルは続けた。その意味に気づいたマーガレットの顔がサッと血の気を失う。
「ねぇ、魔物を召喚するって、そういうことだよ。その危険性をキミは此処で学んでいるはずだ。僕は“持っている人”は嫌いだけど、キミみたいに勘違いしている人は結構好きだな。滑稽だ」
「セシル……っ」
顔色が土気色になったマーガレットを見て私は思わず声をあげる。非難する色を含んだそれにセシルも気づいたようだ。肩をすくめて私を振り向いて、セシルはバツが悪そうに視線を逸らした。
「ごめん、お姉さん。これくらいにしておく。でも赦してほしい。虐げられる側のことなんて彼女のような人には想像もできないんだろうから」
「……それ以上は、ダメよ。そんなことをしたってあなたの気は楽にならない」
私が真剣な想いで言えば、セシルは瞠目してそれから何処か嬉しそうに頷いた。
「うん、お姉さん、ありがとう」
「ブオォォォッ!」
魔物が吼えて、誰もが瞠目した。痺れを切らしたのか、マーガレットを抱えたまま屋上から地上へ向けて飛び降りる。ハンナとメイジーが悲鳴をあげた。セシルが躊躇わずに後を追って飛び出して、私も慌てて屋上の渕まで駆け寄った。
「お願い……っ」
私の願いを風の精は聞いてくれたようだ。びゅう、と音をたてて通り過ぎ、セシルに追いつくと衝撃を和らげてくれた。驚いた顔のセシルが屋上を見上げるのが見えた。私はほっと胸を撫で下ろす。
セシルが獣人と向き直り、何事かを口にした、ように見えた。声は流石に聞こえなくて私は固唾を飲んで見守る。空に暗雲が垂れ込めて、気付いたロディたちが駆けつけるより前に私はあの湖の底で出会った大蛇を見た。夢の中でセシルと契約を交わした、あの。セシルが喚んだのだと気付いて息を呑む。
大蛇が現れたのは一瞬に近かった。瞬きひとつした後にはもう大蛇も、獣人も消えていた。垂れ込めた暗雲はまだ残っていたけれど、雨ひとつ降らずに風に流されていく。地面に這いつくばる格好になったマーガレットは無事に見えた。ロディが助け起こし、ラスがセシルの頭を撫でる。それで私も安心し、息をつくと二人を振り返って微笑んだ。
「みんな無事。大丈夫よ。二人は怪我をしていない?」
私が尋ねるとハンナもメイジーも頷いた。まだ心此処にあらずといった様子だったけれど、ひとまず予言が外れたらしいことを私はひとり喜んだ。
「学園祭に魔物が這入りこんでこの後どうするか判らないけれど、もしも劇を予定通りにするなら、メイジー、あなた準備をしなくちゃ。大丈夫よ。どんな舞台だって、今あなたが体験したものより怖くないわ」
私の言葉にメイジーはほんの微か笑って頷いたのだった。