21 這入り込んだ魔物ですが
「……っ!」
私は咄嗟に校舎の壁に背を寄せた。それで隠れられたかは分からない。知らず短く浅くなる呼吸が漏れないように両手で口を押さえる。あの耳はどれだけの音を拾えるだろうか。それよりも匂いを拾われるかもしれない。人の匂い。近くにいると気づかれれば喉笛に噛みつかれるだろう。
ロディと別れて私が見に行ったのは、もう使われていない勝手口だ。いくつかあるその勝手口が開いていないことを確かめて、最後の扉を確認にきた。此処はメイジーたちの劇の稽古場とも近いから、少し心配だったのだ。この時間ならもう道具を運んだり準備をしたりしていて練習はしていないだろうけど、万が一ということもあるし、何より生徒が出入りする可能性がある場所だ。放ってはおけない。
そう思ってやってきたら、うろうろと辺りを窺う狼の群れのようなものを見つけてしまった。最初は一頭しか見つけられなくて、犬が迷い込んだのかと思っていた。でも群れが後ろから現れたのを見て反射で隠れたのだ。危険がないか最初に一頭が入ったのだろう。それから仲間を呼んだ。五、六頭はいる。足は当然、獣の方が速いだろうし囲まれれば逃げ場はない。あの牙は獲物を引き裂くのに適していて、対して私は胸当てといった防具もなくて丸腰だ。助けを呼びに行く間に背後から音もなく襲われる可能性が高い。
ロディのかけてくれた魔法と、パロッコのくれた花の防具。それしかない。二回は守られるとロディは言ってくれたけど、あの群れに襲われたら二回の護りはすぐに剥がれてしまう。噛みつかれ、喰い尽くされてしまうのではないかと思った。
私は何も持っていない。誰かに何かを知らせる手段も、群れに立ち向かっていく手段もない。どうしよう。
「……」
此処で立ち尽くしていても良いとは思えない。けれど動いたら、その音を聞きつけられてしまうのではと思うと怖くて動けない。私の戻りが遅ければロディは来てくれるだろうか。でもそれまであの群れが此処にいてくれる保証はない。
ぐるぐるとそんなことを考えながら、それでも何か使えるものはないかと辺りを見回した。校舎の石造の壁を見上げる。雨どいのガーゴイルが私を見下ろしていた。でも高すぎて手が届く距離にはない。いくつか箱が積まれているけれど、大した高さにはならないだろう。それにあの程度の箱なら狼たちも簡単に飛び乗れるに違いない。少し離れたところにも木箱が積まれている。あれならガーゴイルの高さには届くだろうけど、距離がありすぎる。でも、こんな平地のところで突っ立っているよりは良いはずだ。私は足音を立てないように進み、木箱をよじ登り始めた。
「……ん、ぐ……」
なるべく音を立てないように、声を出さないようにしながら登るのは難しい。勢いをつけるのも、何とかかんとかよじ登るのも気合がいるし衣擦れの音だってする。何か音がする度に狼がやってこないか私の心臓は跳ねた。
「わ……、わ、わっ」
不安定な積み方だったのか、木箱が揺れた。私は落ちないように必死に目の前の木箱にしがみつく。結構な高さの木箱をよじ登ってきた。このまま落ちたら凄い音がするはずだし、私も無事では済まないだろう。幸いにも木箱が崩れることはなかったものの、狼には聞きつけられたらしい。下から唸り声がして私は顔を足元へ向けた。
低く唸る狼が私を睨みつけるように下から見ている。灰色の毛は逆立ち、飛びかかろうとしているみたいだ。牙を剥いた口から唾液が滴り落ちるのが見える。空腹らしい。
あおん、と一声、鋭い笛のような音が空気を切り裂いた。それが狼の鳴き声だと分かるまでには時間がかかり、理解した頃には狼が木箱に突撃していた。
「あ、わ、わ、やめてっ」
不安定な木箱は揺れる。飛び乗るよりも体当たりして崩した方が、上の獲物が落ちやすいというのが本能で分かるのだろうか。私は体中の内臓がひっくり返りそうな恐怖を覚え、息を呑んだ。手が木箱から離れる。揺れた衝撃でしがみついていた木箱に弾き飛ばされてしまったらしい。何か掴めるものはないかと思って必死に手を伸ばしたけれど、空を掻いただけだった。
──落ちる……っ。
知らず見開いた目に映るのは綺麗な青空だ。澄み渡った、秋の空。それはビレ村がある山で見たのと同じ空だった。
「──お姉さん!」
セシルの声がした。次いで、旋風のような強い衝撃。目を開けていられなくて、セシルの姿を確かめることはできない。でもこの風は、知っている気がした。あの緑濃い夏の日、セシルに襲われて絶体絶命に陥ったあの日、私たちを助けてくれたあの風の感覚に、似ている気がした。
「お姉さん、大丈夫っ?」
風がおさまって、セシルに腕を掴まれた。私は目を瞬かせる。気づけば落ちたはずの私は地面の上にぺたりと腰を抜かした状態で座っており、心配そうなセシルの顔が目の前にあった。嵐のような灰色の目が焦りを浮かべている。その後ろでリアムが黒い剣を振るっていた。
「……逃した。中庭の方へ行ったぞ。騒ぎになる。お前も手伝え」
リアムは剣を払うように振ってこちらへ声をかける。その刃から赤黒いものが飛んだのを見ながら、私は我に返った。
「大丈夫。大丈夫よ、セシル。ありがとう。あなたたちが助けてくれたのね」
「リアムの風の精霊のおかげだ。落ちるお姉さんを受け止めてくれた。僕は何もしてない」
セシルは眉を寄せて答える。私は首を振った。心配して駆けつけてくれたのだと分かるから、そんなことは気にならなかったし充分だった。
「何頭くらい中庭に行ったの?」
抜けた腰を内心で叱咤しながら立ち上がる。リアムへ声をかければ、リアムは中庭を向きながら四頭と答える。リアムの足元には狼の骸が二体、横たわっていた。いずれもリアムが退治したのだろう。
「ただの狼じゃない。あれは魔物だ。中に一頭、親玉がいるな。何を狙って這入ってきたんだか知らないが、誰彼構わず噛んだら厄介だ。セシルといったか、お前、できるな?」
宵が降りる時の藍色の目がセシルを鋭く見やった。セシルは頷く。左手で右肩を解し、こきりと首を鳴らす。天使のような風貌の、少女にも見える綺麗な顔が真剣な表情を湛えた。
「勿論。魔物使いの腕、見せてあげるよ。殺したくないけど、お姉さんを傷つけようとしたんだ。言うことを聞かないなら仕方ない」
ほどほどにな、とリアムが忠告し、それから私を見た。
「あんたも生徒や客の避難誘導を頼む。見たところ護りの魔法がかかっているな。まぁ、一度や二度なら大丈夫だろう」
「えぇ、行くわ」
私も頷いた。走り出すリアムについていくように、私とセシルも走り出した。