23 美しの毒を克服するものですが
指笛はセシルが鳴らしたものだった。私が驚いてセシルを見るのと周囲の茂みが騒いだのは同時だ。森の獣たちが現れて夫人たちを取り囲んだ。数の多さに夫人たちはたじろいでいる。
「話は後。逃げるところだったよ。ご丁寧に魔法陣の置き土産までして」
「すまない。助かった」
責めるようなセシルの言葉に、ロディがすぐ返した。
「あと幸せなお姉さんには解らない。でもだからこそ届くものもある。あんたにも解ったよね。此処で殺すのは得策じゃない」
「……そうだね。此処から辿れる道筋まで潰えさせてしまうところだった。然るべき機関に渡して、然るべき調査を依頼しよう。その後に、然るべき処罰を」
「まぁ、お金のある人が然るべき処罰を受けられるかは疑問が残るけど」
セシルは話しながら前に進み出る。一頭の山犬が植物の蔦を嚙み千切っていた。その蔦を受け取ってセシルは犬の顎の下を掻いてやった。
「ありがとう。本当は腕の一本、脚の二本、折っておきたいところだけどお姉さんはそれを嫌がるだろうから」
視線を向けられて私は頷いた。さっき、襲おうとしてきた男の腕を折ったセシルの技量を目の当たりにしたばかりだから本気で言っていることは感じられた。それをやめてくれるなら私は何度だって頷く。
「死ぬよりつらい目っての、見せてあげたかったんだけどな。そうしたら流石に心を入れ替えるんじゃない?」
「キミがそういう目にあって心を入れ替えたならすると良い」
「……ないね。無意味だ」
ロディの指摘にセシルは苦笑すると蔦で追い詰めた夫人たちの腕を後ろ手に縛った。魔法陣を使おうとすれば自らが燃えるように円状に座らせて、さて、と私たちを見る。
「然るべき機関って、何処に誰が連絡するの」
「私がやろう。此処で起きたことの一切を私が責任を持って報告する。勿論、お前たちには迷惑がかからないよう配慮はする。助かった、ありがとう」
リカルドがそう言ってくれた。セシルが獣たちと残って見張りをしてくれると言うので、私たちは先に山を降りることにした。
まだ暗いうちに院へ戻った私たちはリカルドが馬を走らせてスノーファイへと向かい、ラスに事のあらましを伝えた。クララは消沈したように肩を落としていたけれど、流石に眠れはしないようでソファの上でじっとしていた。
夜明けと共にリカルドが自警団の男たちを連れて戻ると夫人たちの元へと再び向かい、朝を迎え院の子たちが起き出す頃、戻ってきた。院の前につけた簡素な馬車に夫人たちを押し込んで逃げ出せないように自警団の男たちが囲む。協力ありがとう、とリカルドが自警団のひとりと握手を交わし、馬車が出発しようとした時、クララが駆け出した。
「おかあさま」
クララは夫人に話しかける。夜明けまでにすっかり憔悴したらしい夫人にはもう恐怖を覚えなかった。
「私、おかあさまのこと何も知りません。どうしてそのお仕事をされているのかも、どうしてお父様と知り合ったのかも。一方的に嫌われていると思っていました。でも私も、おかあさまのことを知ろうとしてこなかった。此処に来て、私、解ったんです。誰かのことを知ろうとすること、それがどれだけ大切か。
おかあさまのこと、こわい、です。苦手です。今までしてきたこと、されてきたこと、どれも忘れられそうにありませんし許せそうにもありません。でも、だからといって知らなくて良いとは、ならないと思うから」
だから、と言葉を続けようとしたクララを遮って夫人は口を開いた。うるさい、と。
「お前のことなど知りたくありません。知らなくても良い。知る必要などないのですから。わたくしのことなど忘れなさい。あの家はそっくりそのままお前に返してあげましょう。たった今からわたくしとお前は赤の他人。お前の憐れみなど不要です。お前も他人を憐れむような余裕はないはずですもの」
「おかあさま」
「お前に母と呼ばれる謂れはありません。二度と呼ばないで頂戴。さようなら」
それを最後とばかりに夫人は押し黙った。クララも言葉が出てこない様子で、リカルドがその肩に手を置いて下がらせる。馬車はゆっくりと進み出し、そのうちに道の向こうに見えなくなった。
「……あなたは、選べる。生家に戻って今までの生活をすることもできる」
勿論、とリカルドは続ける。
「後ろ盾が必要なら私がなろう。しばらくは醜聞に耐えなければならないだろうから」
「でも、其処まで親切にして頂くわけには」
クララが目元を拭いながら答える。良いんだ、とリカルドは笑った。
「これは天使に対する恩返しだから」
「天使……?」
首を傾げるクララにリカルドは微笑む。
「ひとまず今日は、いつも通りの一日を子どもたちに過ごさせてやりたい。そのために協力してもらえると助かるんだが」
「はい!」
ぼろぼろの二人を見て子どもたちがいつも通りの一日と思えるかは判らないけれど、二人のやり取りを見守っていた私はほっと胸を撫で下ろした。美しの毒に晒されながらも染まらなかった二人ならきっと、子どもたちのために綺麗な道を歩いていけるだろう。汚れた道を、雪で覆い尽くし無垢に見せてでも。
此処での不安もひと段落ついて、朝食の席で私たちもそろそろ出発しようという話になった。ロディは前のように振る舞うから私も同じようにするしかなくて少し気まずさはあったけれど、話を蒸し返すのも違うかと思ってそのままにする。
「スノーファイを超えて海辺の国へ? それならひとつ頼みがある。ハンナを学校まで送り届けてやってくれないか」
勿論これは依頼だ、とリカルドが言う。食堂で全員が聞いている話だったからハンナもあんぐりと口を開けた。
私は驚いて皆と顔を見合わせたのだった。