19 回避した怒りですが
私は心配になって扉や壁の端からクララの様子を窺った。リビングではリカルドが夫人の相手をしているようで話し声が聞こえてきた。クララは緊張して肩を強張らせている。夫人が真っ先に気づいてクララへ目をやり、夫人の視線に気づいたリカルドがクララを労った。
「おや、良い香りがする」
リカルドはクララに微笑んだ。クララは小さく頷く。夫人が一口飲み、そっとカップをソーサーに戻した。
「お茶を淹れるのが上手いな。これはぜひ他の子にも教えてあげてほしい」
「まぁ。リカルド様に褒めて頂けるような腕前かしら」
夫人が驚いたように目を丸くした。クララはトレイを抱きしめて息を呑んだように頬を引き攣らせる。私はじっと覗き込みながら内心でハラハラしていた。
「この院に茶葉はひとつしかないんです。私が淹れるよりよほど良い香りがする。きちんと美味しくなる淹れ方を知っていなければこうはならないでしょう。私が教えるより子どもたちには有益だと思いますよ。この院では教えてませんから、彼女が生家で学んできたことなんでしょう」
リカルドがやんわり反論し、クララを守る。誰のことも傷つけず、クララにもできることがあると示す手腕に私は舌を巻いた。
「彼女が努力する姿を見て他の子も努力をするし、彼女が此処でのしきたりについて先にいる子に教えを乞うことで年齢に関わらず学ぶ姿勢を他の子も見ることができる。勿論、彼女はする必要がなかったから苦手なことも沢山あります。けれどそれをそのままにしない。すぐできるようにはならなくても、努力していればいずれはできることも増えていく。それを示してくれているんです。子どもたちにとって、良い手本を示してくれていますよ」
すぐに役に立つことがなくてもその姿勢を見せることが大切だと言うリカルドにクララは真っ赤になっていた。雪のような頬が朱に染まっていて可愛らしい。沢山褒めちぎられて、すっかり恐縮してしまっているようだ。
「この人形のような見目だけの義娘を其処まで買って頂いて身にあまるお言葉ですわ。嫁いでもただ微笑んで座っているくらいしか取り柄もないものと思っていましたの」
夫人は扇で口元を隠しながら笑ってみせた。細められた目が毒に染まっていて私の背筋を冷たいものが走る。怒らせてはいけない人だ、と直感で悟った。既に少し怒り始めている。きっとその視線だけで周りの人に言うことを聞かせて来たんだろうと思わせるに充分な迫力があった。
「令嬢ともなれば、そうなのでしょうか。これだけ様々な“適性”が診断され自分の長所をあらかじめ知ることができる世の中で、女性も自分の好きな職につけるようになってきた世の中で、令嬢は未だに人形のように扱われる。ホブワラン夫人、貴女のように才媛である可能性も多分にあるのに」
持ち上げられて夫人の気分は少し良くなったようだ。リカルド様のお考えですね、と視線を逸らして答える。私にはそれが興味関心の薄さに見えたのだけれど、リカルドは表情を変えなかった。
「だからこその教育、と仰っていましたわね」
「そのご支援をくださるのがホブワラン夫人です。私ひとりではとても。夫人が崇高なお考えをお持ちだからこそ子どもたちを学校に行かせることもできます。それぞれが自分の人生を進むために必要なのは、多くの選択肢ですから」
ええ、と夫人は答えるもののやはり興味はなさそうだ。彼女が求めているのは自分を賞賛しちやほやしてくれる周囲なんだろうと私は事前に聞いていたこともあって印象を強めた。でも無理もないのかもしれない。彼女だってまだ娘のような歳頃で、クララや私とそう変わらないように見える。彼女もまだ子どものようなものだとしたら。
「いつもご支援くださりありがとうございます。迷う子どもたちが自分で未来を決めて進んでいけるよう取り計らってくださって感謝しています。どうぞ今後とも、末長い交流をできますよう」
リカルドが差し出した右手を夫人はちらりと見やり、扇で表情を隠したままその手に手袋をした手を合わせた。握ったそれは対等なようでいて微妙な立場を示しているようで複雑な思いがした。夫人は早々に用事があるのでと帰宅を告げ、馬車に乗って去っていく。見送りまで済ませたクララは馬車が見えなくなるとへなへなと腰を抜かして座り込んだ。
「クララ」
子どもたちが集まりクララを心配し、クララはそれに大丈夫と返して笑った。リカルドが手を差し出してクララを立たせる。頑張ったな、と労う言葉にクララは言葉を詰まらせ、それでも嬉しそうに笑って頷いた。
私はそれらを見ながらホッと息を吐く。ラスが良かったねと私を見るから私も頷いた。
「ボクと話したいことがあると聞いていたけど?」
ロディに話しかけられて、私は簡単に概要を伝える。でもクララは怒りを爆発させず、心配していたようなことにはならなかったと言えばロディは頬を緩めてクララたちのいる方を眺めた。
「怒りを完全になくすことは難しい。同じところに立たない、というのは大前提だけど彼女は降りられたのかな。ふとした拍子に登ってしまうことはあるだろうけど、自分で気づいて降りられれば心配はないだろうね」
あとは許すことだ、とロディが続けるから、許す? と私はロディを見上げて尋ねた。金にも銀にも見える髪の下で優しく目を細めたロディが私に視線を移す。
「怒りの矛先が他人だろうが自分だろうが、それを許すこと。許すことができれば争いというものはなくなるんだよ」
モーブが利き腕をダメにされてもセシルを責めなかったように。提示し突きつける条件はあれど、許す気はないと言葉では言ってはいても、モーブはやり返さなかった。禍根を断ち切れと、諭しさえした。きっと彼の中ではもう、許しているのだろうと思った。
「まぁ、懸念としてはこちらが許したと言っても相手にそのつもりがなければ終わらないところだけれどね」
不穏なロディの言葉を裏付けるように、その夜、院からは火の手があがった。