18 想いの連鎖ですが
「クララ」
私は思わず声をかける。クララは慌てて目元を拭い、何でもないの、と口にした。指先は震えている。それにミアやリナ、フィンも気づいている。けれどそれに触れられたくないとクララが示すから、どうして良いか判らないのだろう。困惑した表情を浮かべていた。
「おかあさまに、お茶を出さなくちゃ」
可哀想なくらい震える手でクララはお茶の準備を再開した。私はそっと近づいてクララの手を止めるように触れる。クララは息を呑んだ。クララ、と私はまた彼女の名前を呼ぶ。
「早く出さないとおかあさまが怒るわ」
「クララ、此処はあなたのいた家じゃない」
「……っ」
クララは私の顔を見た。その目に縋るような、助けてほしいという切実さを見て取って私は泣きそうになる。彼女は一体どんな仕打ちを受けていたのだろう。夫人の顔を見ただけでその頃のことを思い出して囚われてしまうような、そんな関係性が透けて見えて私は胸が痛んだ。怒るなんてできなかったのだろう。真っ赤に焼けた鉄の靴なんて、とてもではないけど履かせられるようには見えない。
「此処に貴女を傷つける人はいない。夫人には早々にお帰り願いましょう。貴女が確かめたかったことを彼女はきっと喋らない。その真偽を確認するには時間が必要だと思う。はっきりするまでにも、それを受け止める、貴女にも」
クララは泣きそうに顔を歪めた。私はそっとクララを抱き締めて背をさする。小さな嗚咽が漏れるのが聞こえて、私は目を閉じた。
「良いことを教えてあげるわ」
「よぉく聞いてちょうだいね」
ミアとリナが口を開き、私たちは二人へ視線を向けた。二人はお茶の準備をしていて私たちを見てはいない。けれど言葉は確実に、クララへ向いていた。
「この院へ来る子は大抵、傷ついているものよ」
「大人を見限ろうと利用していようと、誰もが」
この二人もそうだったのだろうか、と私は思う。語るかどうかは別として、誰もが自分の辿ってきた物語を持っている。そして此処へ辿り着く子というのはリカルドの方針もあって、誰かからひどく裏切られ傷ついてきた子が多いのだろう。今までにどのくらいの子が此処を訪れて物語を話していったのか私は知らない。けれどこの二人はきっと聞くこともあったのだろうし、話したこともあったかもしれない。そうして思ったことも、恐らくは沢山あるのだろう。
「でも彼女の言う通り、此処はあなたのいた場所とは違うし、あなたを傷つける人はいない」
「どう過ごすかは自由よ。恨みに身を焦がしても忘れて新たな一歩を踏み出しても、それは」
ミアとリナの目がクララを見た。優しい色を湛えた穏やかな目だった。
「あなたの選択だから」
「誰も怒ったりしない」
「……」
クララは目を見開いた。自分より歳下の少女に諭されることも此処に来なければなかっただろう。
「でも私たちがいることは覚えていて」
「不幸になる選択をしたら悲しむから」
その言葉はどう届いただろう。それは、フィンにも届いただろうかと私は思う。誰かが大切に想ってくれる体験は、自分ひとりでは得られない。誰かといなければ知ることはできない。
それはきっとリカルドが受け取った想いで、そして二人がリカルドから受け取った想いなのだろうと私は思う。今度は二人からフィンとクララに渡されたその想いを、二人はどう受け取るだろう。温かな想いが連鎖していくことをただ、願う。
「貴女の幸せを願っているのよ、クララ。過去の怖かったことに支配され続ける必要はない。でもそう思えるようになるまでには時間が必要だって、やっぱり思うわ。上手くなんてやろうとしなくて良い。今日はそうね、夫人に挨拶できただけでも凄いことなのよ。その上お茶まで出そうとしてるんだから、それはもう頑張りすぎなの。だからもし思うようにできなくても、それは悪いことじゃない。しようとしたことが力にはなっても、できなかったことで責められる謂れはないわ」
本当はそれも、それさえ、彼女の自由さを縛るひとつになるのではと懸念もするのだけど。何をしたって良い、何を選んだって良いと言いながら、期待通りのことをしなければ悲しむと言うのだから。矛盾していると捉えられてもおかしくはない。
関心がないなら言葉通りになるのだろうとは私も思う。もしクララに関心がなくて本当にどうなっても良いと思っているなら、何をしても何を選んでも良いと心から言えるだろう。その結果に興味もないし、彼女が喜ぼうが悲しもうが、どうでも良いからだ。でも私は、私たちは、彼女の幸せを願うから。悲しい未来へ進んでほしくはない。
「……ありがとう。此処の人たちは本当に、優しい。でも私、頑張りたいの。おかあさまから、逃げたくない」
クララが静かに口を開いた。まだ夫人が怖いのだろう。頬が引き攣ってはいるが、それでも笑おうとする。健気なその様子にフィンが息を吐いた。
「あんたがそうしたいなら、良いと思う。乗り越えるのはあんただ。逃げるのも、逃げないのも、あんたが決めろ。敵わないと判断してから逃げたって良い。でもどっちを選んだってオレたちは味方だ」
クララは目を丸くした。味方、とフィンの言葉を繰り返せば、そう、味方、とフィンはにっかと笑って頷いた。
「選択ってのはあんたが自分で決めて自分で責任を持つもんだ。でも、ひとりで背負って立たなくたって良いんだぜ。まぁオレがあんたの選択の責任を持つことはできねーけどさ、応援したり手助けしたり、できることならやるぜっていう気持ちはあるんだから」
ひとまずはお茶ね、とフィンは茶葉が入っている缶を手に取った。火にかけていた水がぐつぐつと湯に変わる。クララが茶葉の量を選択し、湯の量を選択し、運ぶ選択をする。それらを決めるのはクララであっても、その準備を手伝うことは他の子にだってできる。それを示されてクララは苦笑するように微笑んだ。
「ありがとう。私、頑張ってみる」
子どもたちと、私とにそう言ってクララはお茶を入れた。迷わない手つきで、お茶を入れる動作は慣れていて、あたりにはふんわりと茶葉の香りが広がった。このお茶こんなに良い香りがするのか、とフィンが驚いた顔をしていた。
「リカルドってお茶を入れるのあんまり上手じゃなかったのね」
「私たちが習って上手になったら驚かせられるかしら」
「良いじゃん、それ。オレもやる」
クララの腕前を褒める三人に勇気をもらったのか、クララは笑う。トレイにカップをのせてクララは持ち上げる前に深く深く、ゆっくりと大きく息を吐いて、それから吸った。
「よし、行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
「頑張ってね」
「此処で待ってるぞー」
応援を受け、クララは頷くとトレイを持ち上げる。扉を開けるために私は数歩進んだ。
開いた扉が閉じないよう支えながら見たクララの決然とした表情は、凛としていて美しかった。