16 相談ですが
どうしよう。
素直に私は頭を抱えた。クララはすっかり自分で決めてしまったみたいで晴れやかな顔をして豆を拾うとぺこりと頭を下げて自室へ引き上げてしまった。私はあの後一睡もできずに朝を迎え、目の下に真っ黒なクマを作って皆に心配された。
「どうしたんだい、寝不足?」
「ラス……ちょっと相談が……」
朝食後に声をかけてくれたラスに私は正直に告白した。馬車の馬の世話をするという口実で二人になり、周りに人がいないのを確認してブラシをかけながら昨晩のことを話す。ラスはどんどんと難しい顔になっていって、私は泣きそうになった。
「私、そんなつもりじゃ」
「解ってるよ。あんたがそういうつもりじゃないのは。でも、困ったね」
ラスも弱ったように視線を逸らした。誰かに話したかと訊かれて、ラスが最初だと私は答える。
「誰に言って良いかも判らなくて」
「そう、ありがとう、最初に話してくれて。慧眼だよ。あたしで良かった。
今回はそうだね、まずはリカルドに話すべきだろうね。彼は此処の責任者にあたるし、夫人がそういう反応をしそうか訊くにも適任だと思う。ロディにはあまり言いたくないけど、まぁ、最後は言わざるを得なくなるか。まずはリカルドだよ」
私は頷いて馬の世話を終わらせるとリカルドに声をかけてことの次第を話した。リカルドも難しい顔をして考え込むように腕を組んでしまった。
「あなたが彼女のためを思って励まそうとしてくれたのは解っています。だからそんな顔をしないで。
しかし夫人については私も数回会った程度でよくは知らない。もしも夫人が彼女を本当に売ったとして、結果が失敗に終わったことは報告を受けている筈だ。だが当の彼女が此処にいることは知らない。尾行がないように護衛を頼んだのは私だから」
リカルドは眉間に皺を刻んで考える。
「クララを夫人と会わせないようにすることはできない。何より本人が会うつもりでいるなら、止められない。夫人がどう反応するかだが……この場合は最悪の事態を想定しておいた方が良い。クララが望む結果が出なかった場合、即ち夫人が自らの罪を認めるもしくは認めたも同然の反応をした場合、クララを止められるように警戒しなくてはならない」
それもずっとだ、と私は思う。その場では何ともなかったとしても怒りには種類がある。その瞬間に燃え上がらなくても、限界を超えて噴き出すのがいつになるかは判らない。どれほどの憎悪を彼女が向けるかも判らないのだから。
怒りは、傷ついた分だけ蓄積されるものだと私は思う。其処に時間や回数が加算されて深さを増していくのだろう。後妻として迎えられた夫人と過ごした時間がクララにどれくらいあるのか私は知らない。けれど彼女の傷の深さは昨夜の様子から少し窺うことができた。大きな劣等感に、蔑まれた記憶、歳があまり変わらないのに優秀な人が母として家に来たらどう思うだろう。自分の物事を行う不器用さを自覚しながらもそれを責められたら、心は弱ってどんどんと塞ぎ込んでいくのではないかと私は思う。
そしてどう頑張っても上手くできないから他所へ行けと言われたら。それに従って乗った馬車が襲われたら。そう指示したのが、まさに他所へ行くよう言ったその人だとしたなら。
怒るのも無理はない気がした。
「私も彼女の様子は注意深く見ておくし、相談があれば対応します。きっと大丈夫。彼女はああ見えて強いし、何より優しい人です。環境が人を変えてしまうことはよくあるが、身につけた優しさというのはそうそう変質しないもの、ですよ」
リカルドは私を安心させようとそう言ってくれる。私はそれに頷くしかなくて、私も安心させたくて笑いたいのに不安から上手く笑うことはできなかった。リカルドが小さく笑うように息を吐く。
「ひとつ、昔話をしましょう。スノーファイの街には裕福な商人一家がいました。仲睦まじく、いつも幸せそうで。ひとりの貧しい孤児はいつもその家を羨ましく思って見ていました。
あぁ、まだあなた方は行ったことがなかったか。スノーファイは貧富の差が大きい街です。富める者は煌びやかに、持たぬ者はその日の寝床さえ取り合いになる」
見てきたかのような説明に私は目を丸くした。そしてそれは事実、見てきたことなのだろうと思う。少し前に彼が畑で語ってくれた身の上話がまさに、それなのだから。
「貧しい少年はいつも周りを警戒して、物を盗んで咎められては噛みつき、だって誰も助けてくれないじゃないかと自分を正当化していた。責めることのできる大人はいない。大人がそういった街を作っているのだから。だからせめてもの償いのようなことのために、慈善事業をする。それが義務だと口にしながら僅かな金で“可哀想な子ども”を救おうとした。
けどそんな薄っぺらくて浅い善意なんてもの、子どもにはすぐ分かります。本気ではない。ただ戯れに愛玩物のように気紛れにその場だけ助けようとしているだけ。彼らが欲しいのは善人であるということを示す行動であり、認識であり、見られることであって、感謝だとか人間の人生だとか、そんなものには微塵も思いを寄せられない」
責めるつもりはない、とリカルドは言う。理解もすると。初めから持っていれば失うことが怖くなる。それを回避できるのがそういう行動だけならば心がこもらなくても仕方がないと。
「でも純粋な憐れみは、この心を酷く焦がした」
リカルドは自分の胸を片手で抑えるように服を握り締める。それは今でも彼の心を焦がしている想いなのかもしれないと私は思う。
「自分よりも幼い、美しい少女でした。パンを盗んで余裕のない大人に嬲られる小汚い子どもを庇って、怒った。弱い者いじめをするなんて最低だと、彼女の持てる語彙の中で一番強い言葉で叫んだ。いつも羨ましく思って見ていたからドロドロとした汚い想いが紛れ込んでいるのに彼女は気づかなかったみたいに、純度の高い憐憫が向けられた。私はそれを、天使だと、思った」
リカルドは目を伏せる。それから自嘲するように笑った。
「純粋で、だからこそ残酷で、言葉を失った。言えますか、自分よりもずっと大人に向かって最低だなんて。言えますか、小汚い子どもに向かって大丈夫かなんて。どれだけ惨めに思ったか。でも同じくらい、どれだけ救われたか」
胸に切ない痛みを覚えて私は泣きそうになるのを堪えた。彼が彼女を人売りから助けたのは、恩返しだったのだ。誰よりもまず、彼女を。それを令嬢だからなんて理由しか言えなかったのは、手段がお金しかなかったからなのかもしれない。言葉だけでは助けられなくて、もっと正義に則って助けたかったのにできなくて。
「彼女は誰かのために怒ることのできる人だ。誰かのために怒ることができる人は、自分のために怒ることができる人だ。何が正しいと自分の中に基準があって、其処を越えれば怒ることができる。今は少しその基準が狂っているだけ。つらい思いが目を少し曇らせているだけ。身につけた基準も、優しさも、彼女はちゃんと持っている。私はそう、信じる」
リカルドの真っ直ぐな視線に私も頷いた。今度は心から、微笑むことができた。
その後、ロディとは中々話す機会が得られないまま、夫人がこのフォーワイトへやってくる日を私は迎えたのだった。