15 泣き濡れた夜に表情を変えたものですが
夜、喉が渇いて起きた私は食堂へ降りて行った。近づくにつれ耳に啜り泣く声が聞こえる。子どもたちの誰かが夜を恐れて泣いているのかと思って少し足早に食堂へ向かってみれば、クララが床に屈み込んで身を震わせて泣いているところを見てしまった。
「……クララ……?」
おずおずと声をかければ、クララははっと顔を上げる。ランプの微かな灯りに浮かび上がった白い頬は涙に濡れていた。足元に豆が散らばり、籠が転がっている。ごめんなさい、とクララが言うから私は察して安心させるために微笑んだ。
「ひ、引っ掛けてしまって、悪気はないの、ごめんなさい」
「大丈夫よ、クララ。一緒に拾えば早いわ。私も手伝って良いかしら」
「い、良いの……?」
しゃくりあげながらクララが尋ねるから、勿論よと私は答える。近づいて一緒に豆を拾いながら私はクララの背をさすった。ダメなの、とクララがぐすぐす鼻を鳴らしながら言う。
「私、何をしてもダメで。ひとりじゃ何もできなくて。すぐに周りをイラつかせてしまうの。家にいる時から、そうで、お手伝いさんがいる時は助けてもらっていたけど、そうじゃなくなってからは全然、ダメで」
クララは細い指で自分の目元を拭う。透明な涙はランプの灯りに反射して、泣いているのにこんなことを言ってはいけないのだろうと思いながらも綺麗だと私は思った。
「それで、おかあさまは私を修道院へやろうって。行きたくなかったけど家にいてもできるように、ならないし。途中で襲われて、助けてもらって、此処に置いてもらえることになったのに私は何も変わっていないからできることなんて、ないし。迷惑かけてばかりで」
クララは堰を切ったように話し出す。それを聞いてしまっても良いものなのか判らないまま私は黙って耳を傾けた。
「ライラさんにもこうして迷惑かけてる。何かしようと思うと失敗ばかりで却って手間ばかりかけさせてしまって、何もしないでって言われてしまう前にって思うけど、上手く、できなくて。ライラさんは何でもできて凄いわ。いっつもにこにこ笑って、皆に優しくて、手際も良くて、頼りにされて、羨ましい」
「そんな凄いものじゃないのよ。そう言ってくれるのは嬉しいけど、本当に何でもないことなの」
突然褒められて驚いた私は謙遜したけれど、その何でもないことが上手くできないとクララは思っているのに無神経なことを言っただろうかと思ってすぐに言葉を続けた。
「でも貴女は、そう、なりたいのね」
クララがぱっと目を上げて私を見る。大きな栗色の目が何かを期待するように揺れた。
「解ってくれるの……?」
「解りたいとは、思っているわ。解るとは断言できないけど」
良いの、とクララは首を振った。解ろうとしてくれたことが嬉しいと綺麗に笑う。私もつられて微笑んだ。
「確かに、できないよりできることの方が多いに越したことはないわ。でもこの前も言ったけどいきなりできるようにはならない。貴女が刺繍を最初からあんなに上手にできたなんて思わないし、何度も何度も繰り返したから上達したと思ってる。基本的には同じなの。何度も繰り返すことで、物事って上達していくものだわ。だから少しずつで良いと思うのよ。拭いてるお皿を落とさないとか、バケツの水を零さないとか、そういうところからで。失敗したって大丈夫。お皿は割れにくいものになったし、水は零れてしまったら拭けば良いのだもの。そうやって頑張る貴女を、此処の人たちはちゃんと見ている。だから失敗したって怒らないし、手助けはしても過剰に手伝ったりもしない。貴女がまた自分の力で頑張れる人だって、信じているからよ」
私は散らばった豆を拾って籠に入れる。
「私も貴女のこと、凄いと思う。失敗してしまったと思っても自分にできることならまず自分で何とかしようとするところ。簡単に人に頼ろうとしないところ。きっと私が気づかないうちに自分で何とかした失敗もあるんじゃないかしら。何回失敗したと思っても、何回ひとりで泣いたとしても、諦めないところ。また失敗するかもと思っても挑戦するところ。人前では泣かないところ」
「う、う、褒めすぎですライラさん」
クララはランプの灯りでも判るほど頬を染めていた。涙は引っ込んだらしく恐縮して小さくなっている。私は小さく笑い声をもらして続けた。
「それでもこうして、どうにもならない時は話してくれるところ」
「え」
クララは目を瞬いた。私は目を細めてクララを見つめる。今挙げたところは本当に彼女の凄いところだ。そうやって頑張る彼女は、とても美しくて眩しい。
「簡単には人に頼らないけど、どうにもならない時は話してくれる。それはきっと、本当に困った時は助けてって言えるってことだと思うから。迷惑かけるって思って助けを言えなくなる人もいるだろうからそれを言えるのもきっと、大切なことだと思うの」
助けてあげられるかは判らないけど、と私は苦笑する。
「でも貴女は頑張る力があるし、背中を押してもらうだけで自分で進める力のある人だと思う。何もできないだなんてそんなことないわ。これからできることがどんどん増えていく人なの。それってとても、楽しみじゃない?」
ぱぁ、とクララの表情が明るくなった。うんうんと何度も何度も頷くから首が取れてしまうんじゃないかと心配した。
「そう考えたらとっても素敵。ありがとうライラさん、あなた、とても素敵な人ね」
綺麗な笑顔で臆面もなく言われて私の方が照れてしまう。ありがとうと笑えばクララももっと笑顔になった。それからふっと寂しそうに笑う。
「もうすぐこの院に支援してくださる方がいらっしゃるって聞いたわ。それがおかあさまであることも、名前を聞いて知った。私──こんなことを言って悪い子だと思わないでね──おかあさまが怖いの。何もできない私が悪いのだけど、家では怒られてばかりで。ライラさんみたいに言って欲しかった。私にもできるって、信じて欲しかった。でも歳が近くてあの人は頭も良くて色々なことができるから、私みたいなのがいるのが我慢ならなかったのね。私にだってそれは解る。自分がどれだけ優しくされて、甘やかされていたかって。でも、だからって、追い出さなくたってって、思ってしまったの」
「……それはあなたのおかあさまが、そう言ったの?」
慎重に私は尋ねる。クララは切なそうに微笑を浮かべた。いいえ、と静かに否定する。
「これは私が思っているだけ。もしかしておかあさまは私を追い出して、戻って来られないように修道院へ向かう道すがら、馬車を襲わせたのではないかって。そうだったら悲しい。其処まで嫌われていたなんて思いたくない。だから私、おかあさまがいらっしゃったらきちんとご挨拶をしようと思っているの。私を見て無事で良かったとすぐに喜んでくれたら、追求しないわ。でももし違うなら」
クララから明確な怒りを感じて私の背筋を冷たいものが走り抜けていった。自分を大切にできない怒りが自分を大切にしてくれなかった人への怒りとして矛先を変えたのを、そしてその舵を切ったのが私であると感じて、冷や汗が流れた。
「真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせて踊り狂わせたいくらい、憎んでしまいそう」
滲んだ黒色は、憎悪だった。