8 怒りですが
魔女が自分を殺そうとしている。そう思うのはどれだけ怖いことだろうと私は思う。想像だけなのか、現実なのかは判らない。魔女が何かも判らない。けれどそう信じて疑わずに過ごすことがどれだけ消耗することなのかは彼女を見ていると判る気がした。
「魔女の声が聞こえるの?」
私は尋ねる。ハンナは頷いた。怯えて震えている。
「魔女の声、だけ?」
そう訊くとハンナは驚いたように私を見て、それから泣き始める子どもと同じように顔をくしゃりと歪め、俯いた。
「あなたは本当に、天使様じゃないの……?」
ハンナは震える声で私に尋ね返す。違うの、と私は答える。ハンナは泣きながら顔を上げて、困ったように微笑んだ。
「わたしのこと、何でもお見通しみたいに訊くから」
「何となくで深い意味はないの。もし気を悪くしたならごめんなさい」
私が謝るとううん、とハンナは首を振った。逆、とハンナは言う。
「あなたなら、解ってくれるかと思って」
そうか、と私は得心した。彼女は理解してくれる人を求めていたのだと。私ならそうしてくれるかと思って此処まで近づいてくれたのだ。それなら私に求められているのは、理解すること、なんだろう。私ができるように努力するのも、恐らくは。
「解ってもらえなくてずっと籠っていたの?」
「此処に来る人は皆、大なり小なり、怒ってるから」
怒っている。私はそれに驚いて一瞬言葉を失った。私も怒ってるのかしら、と尋ねてみるとハンナはまた首を振って否定した。
「あなたからは歌が聞こえる。怒ってない」
歌。ウルスリーでアルフレッドが言っていたことを私は思い出した。彼も私からは歌が聞こえると言っていた。ハンナにも同じように聞こえているのだろうか。星が瞬いて、砂の落ちる音が。
「でも怒ってる声の方が大きいから、あなたの歌がよく聞こえないの。魔女の声は、もっと大きい。もっと大きな何かに、怒ってる。ずっとずっと、怒ってる。でも顔は笑ってるから、わたしは判らなくて、怖いの」
「貴女には聞こえてしまうのね」
他の誰にも聞こえなくても。私が確かめるように言葉をかけると、ハンナは小さく頷いた。
きっと現実の声ではない。魔力があれば聞こえる類のものでもないのだろう。もしそうなら私には聞こえないけど、ロディには聞こえているのだろうし、それが魔女と関係するならきっと言ってくれている筈だ。セシルが何も言わないのも魔物とは違うから。魔物が紛れ込んでいるのとも違っていて、恐らくはハンナにしか聞こえていないもの。嘘と言われても仕方がないものだと彼女も解っているから、解ってほしいと言う。そして私の疑いの音も、きっと彼女には聞こえるのだろう。私にできるのは、信じられることと信じられないことを、素直に伝えることだけだ。
「私には魔力がないし、貴女が聞いているのと同じものを聞くことはきっとできない。魔力があっても聞けるか判らないし、聞けたとしても同じように聞こえるかも判らない。だから教えてほしいの。貴女には何がどういう風に聞こえているのか」
真っ直ぐに見つめる私の目をハンナも同じように真っ直ぐ見つめた。まだ怯えの色は拭いきれないけれど、それでも求めるものは手を伸ばさないと手に入らないと彼女は知っているのだろう。だから、怖がりながらも手を伸ばすのを諦めない。
「魔女は、女の子が嫌い。綺麗で、可愛い女の子は特に。誰かに褒めて欲しくて、綺麗で可愛いのは自分でありたくて、邪魔なものは要らないって、捨てるの。でも誰かに褒められるためにはイイコトをしないといけないから、顔は笑ってわたしたちに優しくするフリをするのよ」
私は心に棘が刺さった気がして顔を曇らせた。それは怖い人だ、と思う。色々なものを押し隠して、誰かに見える面は善人であるとしたら。誰もその人の本性に気付かず、良い人だと誤解したままでいたら。その人が求めているものを与えられなかったら。容赦なく要らないと切り捨てられてしまう気がした。
「わたしたちのことなんて、ひとつも好きじゃないの。嫌いだとさえ思ってるのに、それでも優しくするフリをする。ミアやリナがどう思ってるかは知らない。リカルドがどう思ってるかも知らない。でも、魔女がわたしたちを見る目は、少しも優しくなんてない」
元の家と同じだ、とハンナは言う。自分を抱きしめるように腕を回して、寒さを感じているのか腕をさすった。
「わたしのことなんか要らないのに、優しくする気なんてないのに、モノだけ持ってくる。それで埋められると思ってる。それで充分だと、思ってる」
それでは埋まらないのだと彼女が訴えていることに私は胸を痛めた。彼女の中には空白があって、其処を何とかして埋めたいと思っているのに何があれば埋まるか判らないのだ。そして周りはモノがあれば埋まると、思っていた。けれど何を入れてもその空白には嵌らないのだろう。彼女自身もそれに、“怒って”いる。
「貴女は此処で、自分が必要だと思えている? 優しくされていると、感じられた?」
私は静かに尋ねた。ハンナははっとした様子で私を見て、しゅるしゅると怒りを収めた。思えたわ、感じられた、とハンナは答える。
「魔女から皆を守れるのはわたしだと思っているし、そうしたいのは此処で優しくされたから。リカルドが助けてくれた。ミアとリナは優しくしてくれた。だから今度は、私の番なの」
強い願いに、強い意志を感じて私は頷いた。
「貴女の力になれるように仲間にも助けを求めたい。今、貴女に聞いた話、私から皆に話しても良いかしら。例えばリカルドさんにも」
う、とハンナは一瞬躊躇うような素振りを見せたけれど、長考の末、了承した。私は微笑んでお礼を言うと、彼女を夕飯の席に引っ張り出す交渉に移り、それも見事に勝ち取った。
「私まだこの院をよく見ていないの。最初に貴女の部屋に来たものだから。もし良ければハンナ、この院のこと、案内してくれるかしら」