18 幸せな夢を願う歌ですが
私は少年を抱きしめる手を緩めて落ち着かせるように頭を撫で、背中をとんとんとゆっくり叩いた。耳に聞こえる音は恐ろしいし私の手も体も震えているけれど、セシルの言葉を思い出す。
これは夢。ただの記憶。全部、終わったこと。
その夢にずっと囚われているなら恐ろしいことだと思う。毎日毎晩こんな夢を見て、助けられない声を、見つからないよう隠れる恐怖を、命の危険を感じながら過ごす夜は苦しいだろう。まるで今目の前で起こっているかのようで生きた心地はしない。途中で夢だと気づいたとしても目覚める方法は分からないし、ただ自然と朝が来て現実に目を開けるのを願うことしかできないならそれは紛れもなく、悪夢だ。
そして私はふと気づく。
全部終わったことならば、最後は変わらないのではないか。見つからないように隠れていたとしても、立ち向かったとしても、遠くへ逃げたとしても、結局は目が覚めて現実に起きるなら。現実にこの少年がどうしたのかは私には分からない。けれど途中の筋書きは、変えることができる。ポンセに途中で気づいた私のように、私が途中で乱入したセシルのように、モーブが途中で夢の本筋からは離れて行動できたように。
「ねぇ、ポンセ」
私は肩にいるポンセに話しかけ、なに、と短くポンセは返す。私は思いついたことを口にした。
「夢の筋書きは変えられるのよね?」
「……私からは何も言えないわ。掟だから」
「変えようと試みることは許されるかしら」
「フェデレーヴは干渉できない」
「そう、ありがとう」
ポンセにはダメでも、私は少なくとも制限はされていない。それを確かめて私は深く息を吸った。目に入る光景から本来であれば感じるであろう噴煙の匂いやいがらっぽさはない。これはこの少年の、記憶でしかないから。
「あなた、ずっとこんな夢を見ていたから疲れてしまったわね。全然ゆっくり眠れないと思うの。これは夢。あなたが見ている夢。知ってるかしら。夢だと気づくと、自分で見たい夢に変えられることがあるのよ。こんな怖い夢じゃなくて、もっと綺麗な夢を見ましょう」
「ゆめ……?」
私の声が聞こえたのか、しゃくりあげながら少年が尋ねた。そうよ、と私は頷く。震える唇を動かして笑ってみせて、幼子をあやすように少年の髪を撫でながら続けた。
「例えば私なら、暖かい毛布に包まって見上げた夜空。きらきらと木漏れ日から差し込む光。沈んでいく綺麗な夕日。色んな花が咲いた季節の庭。具沢山の美味しいスープ。羊がもこもこの毛皮をぎゅうぎゅう押し合いながら作る行列。干したてのシーツの匂いに手触り。そんな夢が見られたら幸せ。あなたは何が好きかしら」
オレ、と少年は小さな声で言った。
「グリムと一緒に走る風とか、寝転んだ草の匂いとか、あったかい毛皮とか、そういうのが好き」
うん、と私は微笑んだ。温かく穏やかなものを想像すれば体の震えは治まっていく気がした。喧騒は遠く、悲鳴は響かなくなっていく。
「あなたはいつもグリムと寝るのかしら」
「うん。グリムと寝るとあったかいんだ」
「素敵ね」
私は視線を動かしてグリムを見つめる。グリムは私の意図を察知したように近寄ると、少年の腰に腹部を当てながらぐるりと囲むように丸くなり、膝に頭を乗せた。少年はその感触にくすぐったそうな声をあげる。私にはそれが年齢相応の笑い声に聞こえた。
「もっとあったかくて幸せな夢を見ましょう。そのお手伝いをさせてほしいわ」
「お手伝い?」
尋ねられて、私はそうよと肯定する。
「私ね、歌姫が天職なの。きっと素敵な夢が見られる歌を、あなたのために歌わせてもらえるかしら」
「そんな歌が?」
あるのよ、と私は微笑む。夜を怖くないものにして、穏やかな眠りと優しい夢を見られるように願う歌が。
「聞きたい」
「ふふ、ありがとう」
それじゃあ、想像して、と私は囁く。彼を包むように抱きしめながら、その夜のような髪を撫でながら、幼い背中を一定の速度で叩きながら、少しでも安心できるように。
「あなたの好きな、風が頬を撫でていく感触。鼻をくすぐっていく草の匂い。じんわり背中から伝わる温かいグリムの毛皮」
少年の宵のような目が眠そうにとろりと溶けて行くのが見えた。私の言葉で想像してくれたのか周りの景色が変わり始める。ぐにゃりと歪んだ景色に、けれど少年は気づいていないようだ。私は周りに影響を受けないように目を閉じた。彼の口にしたものを想像しながら、記憶の底の幸せを願う歌を口ずさみ始めた。
頬を撫でていく風に、萌ゆる新緑の草の匂いが立ち昇る。抱きしめた彼の温もりが伝わってくる。どうか、私の温もりも微かにでも伝わりますように。彼が安心して眠るひとつになれますように。優しい夢を、見られますように。
願いながら私は紡ぐ。夢の中で新たな夢を見るのは難しいことかもしれないと思ったけれど、彼が力を抜いて寄りかかってくれたのが感じられたから私は安堵した。大丈夫。怖いものはもう見ない。傍にいてくれる存在がいるのだから。あなたの幸せな夢を願う私がいるから。
「あ」
ポンセが小さく声を上げるのが聞こえた。目を閉じていた私にも悲鳴や悪意に満ちた笑い声が完全に消えたのが分かった。目を開いてみれば穏やかな夜が広がっていた。重く響いていた足音も、赤く燃える光もない。違う夢を少年は見始めたのだ。
「お姉さん」
少年が寝言のような声で言葉を発した。
「お願いがあるんだ」
「なぁに」
歌うのをやめて、けれどあやすような動作は止めずに私は問う。少年は甘えるように、おやすみのキスをしてとねだった。
「聞いたことしかないんだ。夢の中なら、叶うかな」
「あなたの目が覚めてる時でも、其処に私がいればいくらでもしてあげるわ」
「約束、だよ」
「ええ」
私は少年の額にそっと唇を落とした。おやすみのキスを体験したことがないなんて、育ててくれた人は厳しかったのだろうかと私は切ない思いがした。勇者になれと願う子にそれくらいしてあげたって良いだろうに。
「お姉さんの名前も教えて。起きたら探すから」
「ふふ、私はライラ。あなたの名前は何かしら? 現実で会ったなら、お話しましょう。そしてまた、私の歌を聞いてちょうだいね」
言いながら私は既視感を覚え、けれどそれを手繰り寄せる前に腕の中から少年の気配が掻き消えた。足元から立ち上る泡に、ポンセがハッとしたような声をあげる。
「夢が終わるわ。出るわよ」
肩にいたポンセに有無を言わせず引っ張られるように、私は人の夢から覚めたのだった。