17 惨劇の続きですが
まるで下から突き上げられたかのように視界は揺れた。けれど夢の中でそこまで鋭い感覚はない。振動も衝撃も、体感としてはほとんどなかった。ただ目に見える景色は揺らいでいて、立っている地面そのものが震えていることが窺われた。
「なっ」
私は突然のことに驚いてポンセを見る。翅を震わせて飛んでいるポンセもこの揺れの影響は受けないものの、一斉に飛び立つ鳥たちの姿や騒々しくなった周囲のざわめきに顔色を変えた。村の方からギャアギャアと騒がしい声が聞こえてくるのを聞き取って、ポンセも私を見た。黒目に不安が浮かんでいる。それでも行かなければ何が起きているのかを確かめることはできない。
「行きましょ」
意を決してポンセが言う。私が手を差し出すとポンセは驚いた表情を浮かべたけれど、私の指先に小さな手を合わせ、私の肩に移動する。ポンセの微かな重さを感じながら村に向かって走り出した。
揺れている感覚はないのに視界の中では揺れているせいか、上手く走れない。何度か躓きそうになりながら私は進んだ。木立の向こうに、赤色に揺れる家の残骸が見えてきた頃、私は足を止めた。地面の揺れは断続的に起こり、間隔から足音のようだという感想を私は抱いていた。炎の灯りに浮かび上がる様子を窺いながら、私は木立の影から村を覗き込んだ。
「……っ!」
最初に見た時も地獄絵図だと思ったのに、更なる惨劇が広がっていて私は悲鳴が出てしまわないかと咄嗟に自分の口を両手で押さえた。悲鳴は出ていなかったけれど、あまりのことに思わず嘔吐く。夢の中の私が生身なのか分からないから胃の中に食べ物が入っているかも判らない。けれど体の内側から迫り上がってくるものはあるような気がして、私は必死に耐える。
赤い炎の中、ぬっと大きな黒い影が我が物顔で既に半壊している村を更に蹂躙していた。丸い背中は硬い殻に覆われていて、下から伸びた首が上下左右に縦横無尽に振られてその度に息のある人たちの悲鳴と呻き声が響いた。下を向いた首が持ち上がると同時に甲高い悲鳴が響き渡り、遅れて啜り泣く声がする。上げた首の口元からぶらり、と力なく垂れ下がっているものを見て私は絶句した。悲鳴に紛れてぶちぶちと肉が引き千切れる音がして、私は口を押さえた手で今度は耳を塞ぐ。けれどいくら耳を塞いだところで聞こえてくる音は小さくならなかった。
魔物は一歩、鈍重な足を進める。その衝撃で地面が揺れ、私は足音という印象を受けたのは間違っていなかったことを知るが、最早そんなことは何の意味も持たなかった。大きな魔物の近くでも違う種族の魔物が村を壊滅させようと言うのか悪行の限りを尽くしている。瓦礫をひっくり返し、隠れていた村人を見つけては引きずり出して顔を覗き込んで何かを確かめると笑いながら生きたままかぶりつく。阿鼻叫喚の光景に、私は目の前が滲んだ。見つかっては同じ目に遭うだろう、と躰が恐怖に震えた。
こんな惨劇は本当に起こったのだろうか。もしもそうなら、それを見ていたのは先ほど別れた少年に他ならない。これはまさしく、悪夢と呼ぶに相応しい光景だった。
私は慌てて辺りに視線を向けて少年を探した。村を助けにきたと剣を抱えていた少年は何処にいるのか。まだ息ある人たちを助けようと向かった彼は、無事なのか。
視界の隅に降りてきた月の化身を見かけた気がして私はそちらに顔を向けて目を凝らす。ずるずると森に引き返すように白い狼が重たいものを引きずっている。グリムと少年が呼んでいた狼ではないかと思い、私は見つからないように震える足を叱咤しながら静かにその場を離れた。
悲鳴に紛れて多少茂みを鳴らしても聞こえないだろうが、本能がそれを忌避するように警鐘を鳴らしていた。なるべく陰になる場所を選んで私は進む。耳元でポンセが浅い呼吸を繰り返しているのが聞こえた。私も同じようなものだろうと思う。息苦しい。それは燃え続けて吐き出される煙のせいだけでは決してない筈だ。
私が近づくとグリムは足音に気づいたのか低く唸って威嚇を始めた。私は周囲に魔物がいないことを確かめるとグリムが見えるように屈んでいた腰を上げる。この血臭に紛れてグリムもさっき会った私の匂いなど判らないだろうし、そもそも夢を渡ってきた私に生物としての匂いが残っているかも疑問だった。私を認めるとグリムは警戒心が多少薄らいだようだったけれど、それでも得体が知れないのは変わらないのだろう。警戒を解くことはない。
「大丈夫、何もしないわ。ねぇ、怪我はしていない?」
私はグリムに話しかけながら横たわる少年を思しき人物へ目を向けた。グリムが怪我をしていないのは真っ白な毛皮を見れば一目瞭然だったけれど、彼を此処まで運んできたことには意味がある筈だ。立ち上がることさえできない状態なのは、怪我をしたのではと思ったのだ。
グリムは答えないので私は恐る恐る一歩、近づいた。グリムは鋭い目で私を見ているけれど、威嚇はしない。少しずつ近づいて私は少年の傍まで辿り着いた。屈み込んで様子を窺えば、怪我はしていないようだ。ただ最初に出会った時のように震えている。恐怖か、衝撃か、あるいは両方か。私はそっと声をかけながら彼の肩に触れた。
「ねぇ、さっき会ったわね。大丈夫?」
私の声は届いていなかったのか、肩に触れた感触に驚いた様子で少年は弾かれたように顔を上げて私を振り返った。怯えに彩られた表情は私を認めるまで宵のような瞳を揺らし、目尻に溜まっていた涙はぽろぽろと溢れる。
「おね……さん……?」
少年は私を認識してくれたようで震える唇から掠れた声を出した。私は頷いて、安心させるように微笑もうとした。そうして初めて私は自分の唇も震えていることを知る。上手く笑えなくて、そうと自覚すれば私も泣きそうになった。
「お姉さんは敵……? あの魔物たちの仲間……?」
少年が怯えた声で問う。私は急いでかぶりを振った。絶対にあんなことはしない。あんなことをする魔物と仲間と思われたくない。
「怖い思いをしたわね」
辛うじてそれだけ言えば、少年はくしゃりと顔を歪めた。顔を伏せて必死に唇を噛み締める様子に、私は思わず腕を伸ばして彼を抱きしめる。びく、と少年は体を震わせたけれど、ふるふると震える手を恐々私の背に伸ばして躊躇した後に縋るようにしがみついてきた。私は応えるように更に力を込める。しゃくり上げる小さな嗚咽が耳元で聞こえて私は目を閉じた。
まだ少し離れた場所で聞こえる悲鳴を聞かないようにはできないまま、私自身も少年に縋るようにその小さな体を抱きしめたのだった。