第1夜《本日、結婚します》
真生はこの場に立ってもまだ困惑していた。
今開かれた扉の向こうには真っ白な壁が神聖な雰囲気を作り出すのに貢献し、正面の壁には十字に切り取られた窓から白い光が差し込んで、パンフレットに書いてあった通り『光の十字架』をバックにキリストが両腕を伸ばして項垂れている。
神父と思しき金髪の紳士が白い衣装に身を包み、黒い表装の書物を胸に隣の人物とこちらを見つめていた。そこに至る赤い絨毯の道がある。その前で真生は父の腕に縋るように立ち尽くした。
なかなか出ない一歩を促すように神父は手で導く。
促されて一歩を出した父に引きずられて、真生はやっと赤い絨毯を踏みしめた。
神父と隣の人物の視線に小さな安堵がにじむ。真生にしてみれば、視線の先の人物こそが困惑の原因で、足取りも重くなるのも無理はなかった。
両脇に控える列席者の拍手と祝辞にひきつった笑顔を振りまきながら、長い長い時間をかけて、やっと神父の前に立った。真生の腕から離れていこうとする父の腕を引き戻したい衝動を覚えて伸ばしかけた手を横から強引な手に奪われた。その手を見知らぬ男の腕に掴まされて、真生は正面に向き直る。
神父は腕を組んだ二人を尚もキリストの前に導いた。
そう、真生は尚も困惑の中にいた。なぜなら、腕を組んでこれより夫となるこの男を真生は知らないのだ。正確には今日初めて出会ったこの男と真生は今、結婚しようとしているのである。
始まりはごくありふれた出来事の中に潜んでいた。
「本当にすまないな。」
大学教授の父親から持ち込まれた見合い話は、本当によくある話で、断ると大学での立場に影響しそうなほど強引なもので、真生は渋々話を受けた。もちろん、断る前提で、である。
それでも、他人の縁談に過剰に反応する親戚筋に人形宜しく着せられた振袖に不自由な思いをしながら、より一層、この縁談を申し込んだまだ見ぬ相手に疎ましい思いを募らせていた。
「しょうがないから。今回だけよ。」
同じく関西で大学教授をしている母親には黙っていようと真生は決めていた。おそらく母が知ったら父に激しく怒るの目に見えていたし、何よりこんなことは早くなかったことにしてしまいたかった。そのせいか、足取りはとても勇ましかった。
案内されたホテルの一室にて待っていたのは、まるで少女のように満面の笑みを浮かべてはしゃいでいる初老の女性と、対照的にまったく興味がなさそうに庭を見つめている女性、そして値踏みでもしそうな目をした青年。
真生はすぐに「お見合い婆」と「母親」と「お見合い相手」と思った。しかし、おかしなことにも気が付いた。
たしか、父親に話を持ってきた関係者の話では、相手の関係者がどこかで真生を「見初めて」強引に話を捻じ込んできた、と聞いた。それなのに「母親」と「当人」にはそんな様子は微塵も見受けられない。
どうやら、「見初めた」のは別の関係者のようだ。
それなら話は早い。早々に話をつけて終わらせてしまおう。
真生は心の中でファイティングポーズを作った。
そんなことはお構いなしに「お見合い婆」の女性がスキップでもしそうなハイテンションで手招きをしてきた。
「まぁ、香芝先生。お待ちしておりましたのよ。さあ、お座りになって。」
「大変遅くなりまして、申し訳ありません。家内は都合で来れなくて。私だけで失礼します。」
ホテルマンに引かれた椅子に二人が着席するのを待ちきれないように「お見合い婆」は甲高い声を張り上げて話し始めた。
「いいえ、先生。奥様も関西で大学教授をなさっていらっしゃって大変お忙しいのは存じておりましてよ。こちら、蒲生俊樹さん。日昇コーポレーションの会長をなさっている蒲生泰三氏のお孫さん。お父様は社長をなさっていて、大変お忙しくてらして、本日はいらっしゃってませんのよ。」
だから、お相子ですわ。と続けたいのだろう。彼女の勢いはまったく止まらない。まるで導火線に火が付いた花火のようだ。
「実はね。真生をお勤め先のパーティーで見初められたのは会長のおじいさまで、是非に俊樹さんのお嫁さんにとおっしゃってね。真生さんの写真をご覧になって、俊樹さんも大変乗り気でらっしゃるのよ。」
「ホント。写真どおりの美人だ。ラッキーかな。」
ちょっと待て、真生は耳を疑った。
日昇コーポレーションといえば、国内有数のグループ会社だ。そこの会長に「見初められた」とあっては断れるはずがない。いや、断る気は十分にあるのだが、本当に断りきれるのだろうか。言い知れぬ不安が真生の胸に広がった。
「こちらはお父様の香芝教授とお嬢さんの真生さん。真生さんは三友ネットにお勤めで、お父様は学習院の教授でいらっしゃいますの。お母様も京大の大学教授でいらっしゃって、真生さんご本人も学習院を卒業されてらっしゃるのよ。」
常に家にいない両親の傍に行きたい一身で行った大学を何かのブランド名のように言われたことにますます不愉快を募らせる。このときに初めて「お見合い婆」が嫌われる理由が分かったような気がした。いいや、絶対にそうだ、と真生は決め付けた。
出されたお茶の味もお菓子の味もきっと最高のものであろうに、真生は本当に適当にお愛想を振りまきながら、最低な味と頭に印象付ける。
「そろそろお若い方同士でお出かけなどなさったら?」
どこかに台本でもあるんじゃないかというくらい、筋書きの読める定番通りの台詞を定番通りのタイミングで「お見合い婆」が言ったのを機に俊樹は
「じゃあ。」
と真生に手を差し伸べた。
「車で来てるんだ。好きなところに連れてってあげるよ。」
見た目は結構さわやか系のイケメンなのに、ニヤニヤとした笑い方が俊樹を下品で嫌味な男にしていた。出来るなら密室に2人きりになりたくない人種だが、ここから穏便に退散するにはこの手に乗るのが得策だろう。
「よろしくお願いします。」
別に張り合う気はないが、できる限り嫌味な笑顔で応じた。もちろん手は取っていない。
「お先に失礼いたします。」
卒なく挨拶をこなし、次の戦闘準備に心を切り替えた。
庭園の中を横切り、駐車場の裏口に回っている間も俊樹はやたらと肩や腰に手を伸ばしてきた。真生は出来るだけ無作法にならないように、でも笑顔は見せずに払いのけた。駐車場の中でも奥まった明らかにVIP専用と思われる位置に黒光りしたスポーツカーが置いてあった。俊樹は躊躇わずリモコンキーでドアを解除し、運転席から乗車を促した。慌ててドアマンが飛んできて真生にドアを開けてくれた。
にっこりとドアマンに笑顔で礼を言ってから乗り込んで、仏頂面で俊樹を一瞥した。
途端、車は甲高い悲鳴を上げて急発進した。相当馬力のある車だ。真生の体はシートに激しく押し付けられた。真生は慌ててシートベルトをつけた。俊樹には確認をした気配すらない。
車はとても同乗者を乗せているとは思えないほど急発進と急停車を繰り返していく。
駄目だ、やっぱりこの男とはあり得ない。軽薄そうな外見を裏切らない車種に、おそらく手入れも他人任せなんだろう、車体の手入れの割りにタイヤの磨り減り具合が酷いのも納得した。およそ車については必要に迫られて仕事で乗る程度の真生にも分かるほどである。
「君さ、美人で可愛いけど、めちゃくちゃ真面目だね。奥さんにするにはちょうどいいんだろうけど、そんなので楽しい?」
「私にはこれが普通ですけど。」
すいぶんな言われようだか、このままこの男と付き合うのは疲れてしまう。この意見の食い違いを理由にしてでも早々に断って、離れたほうがいいに決まってる。
乱暴な運転に備えて丈夫な手すりにしがみつきながら、真生は俊樹に切り出した。
「あまり印象がよくないようですし、お断りになってください。」
「そういうわけにはいかないんだ。うちの爺さんが君の事気に入っててね。結婚しなきゃ勘当だって言ってるんだ。だから、君にはたとえ結婚までしなくても爺さんの気が変わるまで付き合ってもらわなきゃ。」
あまりの言いように真生は怒りでカッとなった。大体なぜそちらの都合で真生の意見や立場を無視されなきゃいけないのか、理解できなかった。もはや一刻もこの男と一緒にいるのも嫌だった。この乱暴な運転に付き合うのも我慢の限界である。
「その辺に止めてください。電車ででも帰れますから。」
「ええ、困るよ。これからデートにつれて行こうとしてるのに。」
俊樹が説得の声を上げた瞬間、クラクションの騒音を浴びせられた。眼前には迫り来るトラックの姿が見えた。
スローモーションのようにゆっくりと目の前に押し迫ってくるトラックのバンパーに反射的に体を避けた。
次の瞬間、真生の意識は白い闇に包まれた。